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ローマ書 6章12節-23節 

更新日:2023年2月12日



【ローマ章6章12節-23節】

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を主に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。罪があなたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。

神に感謝します。あなたがたはかつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて義の奴隷となりました。あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をします。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。


皆さんはパウロに対してどんなイメージを持っていますか。厳しくて怖い人でしょうか。こうしなさい、そうでないとこうなりますよ、という説教が多いと思っていますか。そのようなイメージを持っていないことを願っています。

現代は、パウロを怖いと思っている人は少なくないようですが、一世紀のユダヤ人やイエスを信じた異邦人たちはその真反対のイメージを持っていました。パウロは彼らに旧約の律法を守る必要はないと言っていました。必要ないどころかやってはいけないと言っていました。逆にパウロがどう批判されているかというと、パウロの言ったことが本当なら、私たちは善を行う必要はないのではないか、全てが赦されるのではないか、ということです。

今日のローマ6章では、なぜ私たちが正しく生きなければならないかということについて話しています。


【ローマ書6章12節-15節】

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を主に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。罪があなたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。


パウロが言っているのは、私たちはバプテスマを受けて恵みの下にあるからこそ、正しいことをしなければならないということです。

今日の結論は23節ですが (罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。) 21世紀の私たちは大きな誤解をしてしまう危険性があります。

ある人は、天国と地獄の二つの状態が究極のアメとムチだと言います。この道を行くと殺されて永遠に苦しむけれど、良いことをすれば天国に行くというのが究極のアメとムチです。

人間は白紙から始まるという人間論があります。行動主義心理学です。人は生まれた時は白紙であるが、その人の行動は、経験や置かれた環境の結果なので、それを上手にコントロールすれば人間を操ることができる、という心理学です。

有名なのはパブロフの犬の実験です。パブロフという人が、飼っている犬で行なった条件反射の実験のことです。この実験によって、人間が梅干しを見るとつばが出るように、動物も訓練や経験で後天的に行動反射を獲得することがわかったのです。

アメリカの心理学者ジョン・ワトソンはパブロフの犬と同じような反射が人間にも起こることを立証しようとして赤ちゃんに別の実験をしました。彼らは赤ちゃんの頃から環境をコントロールすれば、人を操ることができると考えました。科学者でも音楽家でも、人殺しでも、人間をそのように操ることができるという見方なのです。


天国と地獄を究極のアメとムチとしてみると、ものすごくわかりやすい概念かもしれませんが、一方で、どういう風に神や人間と接するかということに大きな影響を与えてしまいます。天国と地獄は、人間を操って、すべき行動リストとやってはいけない行動リストを守らせるためのアメとムチになるのです。地獄に対する恐怖と、天国に対する欲(天国がどれだけ幸せか)を目の前に見せて、人が良い行いをするように操るのです。

しかし、恐怖や欲は決して愛を中心にした関係にはなりませんし、善を行う動機にはなりません。私たちも神様をこのように見てしまうと、結局自分の行動に表れてしまいます。親子でも夫婦でも気をつけないとアメとムチによって簡単に人を操ることに走ってしまいます。これは短期的には相手の行動に有効かもしれませんが、長期的に、神に対するまことの服従を生み出すものにはなりません。


【ローマ書6章22節】 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(6:22)

パウロは「実」という言葉を使っています。イエス様もヨハネ15章で実という言葉をたくさん使います。それによるとイエス様はぶどうの木で私たちは枝です。イエスにつながれていなければ、私たちは何の実を結ぶこともできません。つまり、実は自分がどういう木につながれているかによって、向かっていく所なのです。

だから「行き着くところは死」というのは、実であり、自然にその方向に向かって行くということなのです。

つまり、死は外的な罰ではありません。外から勝手に決められた罰ではないのです。例えば制限速度60キロの道路で70キロで走ってスピード違反で捕まり、一万円の罰金を払ったとします。70キロで走ることと一万円を失うことは必然的につながっているわけではないので、これは外的な罰です。

外的な報いとは、N.T.Lightから借りた概念ですが、溺れている子ども川に飛び込んでを助けたら、その報いとして賞賛されますが、これはつながっていないので外的な報いではありません。外的な報いとは、必然的につながっているもので、溺れていた子どもが父の元に戻ることです。

罪を犯すのは崖に向かって走るようなものです。そこから落ちたら死んでしまいます。死に向かっているとはそのようなことなのです。簡単な例えで言うと、同性愛や性転換などです。


【ローマ書1章24節-27節】 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。

つまりこれも外から勝手に決められた罰ではなく、その行為を行うことそのものが自分に害を与えているのです。その罰とは神様がそれを許すことなのです。

死に至るのは、自然な自分を拒否して、自分を満たす男女の愛を捨てる。同性愛は子どもを二人で育てる召しも捨てる。根がありません。それが自然な結果です。最終的に、新たないのちを生み出すことができない死に至ります。

神様が私たちを自分の好きにさせる場所が地獄です。そこでは神様は私たちを止めません。

それに対して天国は、私たちが神の命令に従って行動する場所です。神に対しても人に対しても、正しく接する場所なのです。


なぜ私たちは神に従うべきなのでしょうか。私たちに新しい主人がいるからです。私たちは罪の奴隷ではなく、神の奴隷だからです。私たちは別の木につがれている枝なのです。だからきよさに至る実を結ぶべきなのです。

【ローマ書6章23節】

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。

報酬と賜物は並行していません。罪からの報酬は、人が働いて得るものと同じように、罪を行うことによる当然の報酬として死にます。

しかし永遠のいのちは報酬ではありません。神は、私たちが働いて得るものよりもっと優れたものをを、主イエス・キリストにあって与えて下さるからです。


パウロは私たちに何をしてほしいのでしょうか。

パウロは「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。(6:13)」と言っています。私たちの手足を神に献げるために使うことです。これがイサクをささげる時にアブラハムがやったことなのです。(創世記22章)

私たちは、もし天使がアブラハムを止めていなかったらどうなっていたことかと心配するかもしれませんが、実にイサクは生きている供え物として献げられたのです。イエスが代わりに死んで下さったからです。アブラハムもイサクをささげる時に自分の尊いものを献げました。自分の全てを献げたのです。

神の犠牲はアブラハムの犠牲以上であることは明らかです。アブラハムは確かにイサクを祭壇に置きましたが、そのあと献げられたのは神の子キリストでした。

私たちはきよく生きる必要があります。私たちの行動は大切です。律法の下ではなく恵みの下にあるからと言って、もう何をしても赦されるというわけではありません。

なぜきよい生活をするのでしょうか。それは、私たちが罰を恐れるからではなく、報酬に対する欲があるからでもありません。私たちはバプテスマを通してイエスにあるものとなりました。すでに永遠のいのちを得ています。すでに賜物を得た者として自然に実を結ぶことが正しい。

聖餐式で私たちは永遠のいのちを得たことを思い出します。イエスは私たちのために献げられました。私たちも自分の手足を神にささげるために用います。


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