説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ1:27~30
ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。
この箇所の中で、一番わかりにくく、定義しにくいのは「反対者たち」という言葉である。反対者とはだれなのだろうか。そしてピリピの教会の何について反対しているのだろうか。
パウロは手紙の中で反対者たちについて説明していないので、いろいろな可能性が出て来てしまうが、パウロが反対者についてはっきり言わず、彼らの意見も述べていないのは、パウロのポイントは反対者たちではなく、反対者たちにどのように答えるべきか、ということだからである。反対者たちをどのように扱うかがポイントである。クリスチャンが反対されるときにどのように答えるかに注目が集まると思う。時代によって場所によって違いはあるがクリスチャンはいつも反対されてきた。そして反対のやり方はたくさんあった。しかしこれらの反対者たちを扱う原則はどの時代でもどの場所でも適用できるので、それが聖書の中で一番強調されることではないかと思う。
今日の箇所の中で三つの言葉を特に強調して考えたいと思う。「生活」、「立つ」、「戦う」である。
・生活
パウロの手紙の中では特別なことばである。ギリシャ語でポリスという大都市を意味する言葉である。自分は何者でどこの町に属していてだれなのかということを認識して福音にふさわしい生活をしなさいとパウロは言う。
・立つ
パウロは反対されることを前提にしている。つまり戦いがあることを前提にしている。だから立つように頑張らないと倒れてしまう。
・苦闘
立つときに、反対されていることについて倒れてしまわないように気を付けなければならない。そして進んで行って、相手を倒して勝利を得なさい。毎日の生活で自分はだれなのか認識して、倒れないようにしっかり立って、進んで行って御国のために戦うように、パウロはピリピの教会を励ましている。
●生活
この三つのことばを調べる時に七十人訳を見てみた。「生活」と似ていることばはピリピ3章にあったのだが(国籍ということば)、他には新約聖書になかったので七十人訳でこのことばの使われ方を調べてみようと思ったのだ。
七十人訳は紀元前250年頃にへブル語からギリシャ語に翻訳された旧約聖書の一つである。伝統では七十人の翻訳者が集まって別々の場所で旧約聖書を訳したら全く同じ結果になったと言われているが、それは本当ではない。
なぜギリシャ語に翻訳したかというと、アレキサンダー大王の時からペルシャ帝国までギリシャ語を中心にしていたので、ユダヤ人でもギリシャ語の聖書がほしくなったからである。
「生活」を七十人訳で調べたら八回出て来たが、すべて外典の中であった。一つは外典のエステル書で一回出て来て、その他の七回はマカバイ記に出てくる。外典に出て来る八回すべて、モーセの律法に従って生活することについて書かれている。七十人訳はユダヤ人の書物であるが、モーセの律法に従って生活を送ることについて書かれている書物なのである。
ピリピ人への手紙の中でパウロが福音にふさわしく生活しなさいと言うとき、律法の代わりに福音が中心であることを教えている。モーセではなくキリストが中心である。
七十人訳のマカバイ記では、異邦人がユダヤ人を苦しめて迫害して殺すことについて書かれている。ユダヤ人がモーセの律法に従って歩むことによって苦しめられて迫害され殺される。ユダヤ人は安息日を守って、食事についての律法も守って、割礼も行っているが、ギリシャ人はユダヤ人を攻撃して子どもたちに割礼を与えてはいけないと言うし、歳をとったユダヤ人を死刑にするときに豚肉を少しでも食べれば楽な死刑にしてあげると言ったりする。その老人は豚肉を決して食べなかった。モーセの律法の教えに従って生活することを貫いた。ユダヤ人たちは神の民であることを認識して真剣に律法を守って生きていた。妥協はしない。それが「生活」ということばの背景になっている。
パウロはこのマカバイ記のことに絶対に気づいているはずである。パウロはユダヤ人で旧約聖書をよく知っているので、マカバイ記を指してこのことばを使っていると思ってよいと思う。
ではピリピの教会の人たちはマカバイ記のことを知ることができたのだろうか。
じつは少し前にパウロはエパフロデトをピリピの教会に送っている。そしてその後でテモテも送った。パウロの友人がピリピの教会を訪ねたら、パウロの手紙を声を出して読んだはずだ。そして手紙の内容について後で説明したり質問を受けたりする。その時に「生活」という珍しいギリシャ語があればピリピの人々は質問したかもしれない。エパフロデトもテモテもその説明ができるのでピリピの教会の人々にはパウロがこのことばを使った意味が理解できていたと思う。それでモーセの律法の代わりに福音が与えられていることをみんな認識する。代わりというのは律法の成就という意味である。福音は創世記から黙示録まで聖書に書かれているすべてのことである。
【第一コリント15:1〜5】兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
キリストは聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死なれて、葬られて、よみがえった。創世記からすっと旧約聖書は主イエス・キリストご自身を中心にしているということである。十字架も復活も旧約聖書から教えられている。パウロが言う聖書とは当時は旧約聖書だけだったが、そのすべては主イエス・キリストご自身を中心にしている。だから福音は旧約聖書の成就である。福音にふさわしく生活しなさいというのは、マカバイ記のユダヤ人たちがモーセの律法に従って歩んだように、クリスチャンたちは福音に従って歩みなさいということである。
じつはピリピの教会だけではなくて、エペソの教会もコロサイの教会も励ましている。パウロは60年~62年の間にローマで軟禁されて裁判を待っている時にエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙、ピリピ人への手紙を書いたので、内容が似ている。
コロサイの教会には主にふさわしく歩みなさいと言う。
エペソの教会には自分の召しにふさわしく歩みなさいと言う。
ピリピの教会にはクリスチャンとしてふさわしく歩み、天に国籍を持つ者としてそれを認識して歩むようにと言う。
●立つ
「立つ」ということばはエペソ人への手紙の中で繰り返し出てくる。
【エペソ6:11~14a】悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
そして、堅く立ちなさい。
神の武具を身に付けて、妥協しないで堅く立って邪悪な者たちに対抗できるようにとパウロはエペソの教会を励ました。
同じようにピリピの教会を励ましている。マカバイ記には「堅く立つ」ということばは出て来ないが概念的には出て来る。つまりどんなことがあっても妥協せずに堅く立つ姿をユダヤ人において見ることができる。
ダニエル書の中にマカバイ記のことは書かれていないが、8章、10章、11章の中にマカバイの時代の預言がある。その中でユダヤ人が苦しまなければならないことをダニエルが幻で見て教えていた。その時に妥協するような誘惑にあう。妥協するような圧力を受ける。
マタイのたとえ話にある四つの種を思い出す。
道端に落ちた種は福音を聞いても何も心に入って来ない人のことである。みことばを聞いても悟らないので悪い者が来て蒔かれたものを奪ってしまう。
岩地に落ちた種はすぐに芽を出したので、福音を喜んで受け入れてすぐに実を結ぶような雰囲気だったが、反対されたり苦しみにあったときにつまずいてしまう人のことである。なぜなら根がないから日が昇ると焼けてしまい、堅く立つことができないからだ。
茨の間に落ちた種はみことばを聞いてもこの世の思い煩いや富の誘惑によってみことばをふさがれてしまう人のことである。誘惑に耐えられないというのは誘惑に負けるということだ。誘惑に負けて堅く立つことができずに、信仰から離れてしまう。
パウロは、霊を一つにして堅く立ちなさいと言うが、それは御霊の話だと思う。御霊に従って堅く立つようにと話している。神の助けがなければ自分の力で立つことはできない。誘惑に対して妥協せずに立つことが出来るように御霊は私たちを助けてくれる。
このようにパウロはピリピの教会を励ましている。
●苦闘
七十人訳のマカバイ記に出て来る。元々のギリシャ語のことばは英語のアスリートと同じことばである。アスリートは日本語で競技する人とかスポーツマンのイメージがあるが、パウロの時代は、アスリートということばは戦争の話の中にも出てくることばであった。マカバイ記の中でも実際の戦いについて使われている。兵士たちはアスリートのようにがんばらなければならない。
【第二テモテ2:3〜5】キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。
兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。
また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
競技をする人のようにがんばりなさい、とパウロはテモテに言う。兵士はアスリートと似ている。自分の欲に従って生きるのではなく、戦って目的を果たすことができるように、自分を否定して目的のために生きることをマカバイ記の中で教えられている。
マカバイ記の中のユダヤ人たちは、自分たちを支配しているギリシャ帝国から独立を勝ち取った時代もあったが、その後の時代の人たちが妥協してだめになってしまったこともあった。妥協しないで戦った時代のユダヤ人たちは、独立を得ることができた。
福音にふさわしく生活して堅く立ち、戦うことをパウロはピリピの教会に励ましているが、ピリピの教会が置かれている時代と、その場所の問題もあった。しかし私たちの時代にもみことばは同じ励ましを与えてくれる。
モーセの律法に従って歩んだために反対されたり殺されたりしても、マカバイ記のユダヤ人たちは妥協しなかった。私たちもその模範にならって福音にふさわしい生活をする時、みことばに従って、みことばにふさわしい生活をすることを励まされる。妥協しないで堅く立つことができるように励まされる。
私たちの時代も、様々なところから誘惑がある。社会も誘惑に満ちている。私たちの住む東京では、キリスト教に対して強い反対は受けていないが、ウクライナの教会の中には、KGBに調べられてロシアの反対を受けている兄弟たちがいる。今の時代も場所によっては強い反対もあるし恐ろしい反対もある。その恐ろしい反対が私たちのところには絶対に来ないという保証はない。
誘惑に負けないで堅く立って、福音にふさわしい生活をするときに、子どもたちを福音にふさわしく歩むように育てる。毎日の生活において福音を表す生活をして、喜んで福音を伝える者として歩むように励まされる。
パウロが私たちに戦うように励ますとき、ただ単に負けないということではない。自分に与えられた場所、時間、賜物をもって、御国の前進のためにどのような戦いができるのかを一人一人について考えなければならない。アスリートのように戦う。スポーツをする人はこの世の栄光のために頑張るが、私たちは永遠の神の御国のために戦う。福音にふさわしく歩んで、妥協しないで、誘惑に対して堅く立って、さらに御国のために戦う。自分の能力、祝福、時間を使って戦う。
毎週日曜日の礼拝で聖餐をいただく。聖餐の時、自分を神様にささげて、私はキリストのもの、私はあなたの御国のために生きる者である、という心をあらたにする。罪を捨てて、妥協しないで、イエス様ご自身、福音そのものを第一にして歩むように心をあらたにする。
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