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「ヤコブのはしご」創世記28:10〜22

更新日:2023年9月10日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


創世記28:10〜22

ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。

彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。

あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。

見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。

そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。

ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、

無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、

石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

ヤコブが見たはしごの夢はシンプルで短いお話ですが、じつは一回の説教ではとてもカバーできないほど深いものがあります。

イエスはだれなのか、教会とは何なのか、私たちの世界に対する使命は何なのか、このようなことのすべてがこのシンプルなお話の中に含まれています。



まず前後関係を見ていきましょう。

ヤコブが旅に出たのは、兄エサウから遠く離れるためでした。

父イサクは、エサウに長子の祝福を与えようとしていましたが、ヤコブと母リベカが相談して父をだましてヤコブが長子の祝福を受けるようにしました。長子の祝福を奪われたエサウがヤコブを殺そうとしたので、リベカがヤコブを遠くに行かせたのです。リベカはイサクに話して、リベカの故郷で妻を探すためにヤコブをハランに行かせました。

【創世記28:1〜4】イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じた。

「カナンの娘たちの中から妻を迎えてはならない。さあ立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻を迎えなさい。全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように。そして、おまえが多くの民の群れとなるように。神がアブラハムの祝福をおまえに、すなわち、おまえと、おまえとともにいるおまえの子孫に与え、神がアブラハムに下さった地、おまえが今寄留しているこの地を継がせてくださるように。」



ヤコブは、旅の途中で後にベテルと呼ばれることになる地で夜を明かすことにして、石を枕にして眠りにつきました。その時にこのはしごの夢を見ます。

この夢を見たあとに、ヤコブはラケルに出会い、恋をして、結婚して子どもが与えられました。そして最終的に父の元にもどってエサウとまあまあ和解しました。その後ヤコブはベテルに戻り、もう一度ちゃんとした祭壇を建てて神様との約束を守りました。

その後ラケルが亡くなります。



これがヤコブの人生です。自分の家族に襲われそうになったり、敵に殺されそうになったり、飢え死にしそうになったりして、よく逃げ回っていました。ヤコブの人生は本当に大変な人生でした。妻を失って、子どもも失ったと思っていました。これが神に捨てられない人の人生なのか、と思うような人生です。神が彼とともにいなければ耐えられない人生だと思います。



●第三のアブラハム

ヤコブの夢でわかることは、ヤコブが第三のアブラハムだということです。

【創世記28:13】わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。

神様はこのようにご自分をヤコブに表しました。

そしてアブラハムとイサクに与えたのと同じ契約を結びました。じつはアブラハムが神様と契約を結んだのが75歳でしたが、ヤコブもだいたい同じ歳でした。

アブラハムはハランにいましたが、そこから出るように呼びかけられました。

【創世記12:1】主はアブラハムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。」

神はアブラハムに父の家を離れなさいと言っていますが、まさにヤコブもそうでした。アブラハムもヤコブも古い地から出て神について来なさいと言われました。

そしてヤコブは父と母を離れて新しい家をつくりました。

【創世記12:2】そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

これはアブラハムに対する約束ですが、ヤコブへの約束と基本的に内容が一緒であることに気づきます。つまりアブラハムとその子孫(ヤコブも含めて)は他の人たちと別扱いされて、聖別されます。そして聖別されたこの民は神の祭司となるのです。

じつは、アダムとエバに与えられていた祭司の役割は、人類全体ではなくアブラハムとその子孫に与えられました。

神様が与えた新しい土地、約束の地、新しいエデンで彼らは祭司となるのです。

彼らはそこで大いなる民となり、人数が増えます。これもアダムとエバに与えられた使命でした。「生めよ、増えよ、地に満ちよ。(創世記1:28a)」

地のすべての部族がアブラハムによって祝福されます。その理由の一つは、彼らが祭司の民として祈りといけにえをささげる働きをゆだねられているからです。

最終的に彼らを通してイエス・キリストが生まれて来ます。そしてまた十字架にかけられます。祭司の民イスラエルがイエスをいけにえとして十字架上でささげます。

おもしろいことに、聖書の中で初めて什一献金をささげたと書かれているのがアブラハムでした。その前にはだれもいなかったとは思いませんが、ささげたと書かれている最初の人がアブラハムでした。

【創世記14:16】サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。

祭司がパンとぶどう酒を持って来たのはなぜだろう、と思いますね。

【創世記14:19】彼はアブラハムを祝福して言った。「アブラハムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に」アブラハムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

神の祭司はアブラハムに、いのちを表すパンと安らぎと喜びを表すぶどう酒を与えます。アブラハムはそれをに応えて、献金をします。献金というとき、献身と考えてください。什一献金は自分のすべてを表します。



第二のアブラハムもいます。イサクです。イサクとも同じような契約を結びます。

【創世記26:23】彼(イサク)はそこからベエル・シェバ上った。主はその夜、彼に現れて言った。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこで井戸を掘った。

イサクとの契約にも、恐れてはならない、あなたとともにいる、ということばが出て来ます。イシュマエルではなくイサクを通して神の約束が続きます。神様はイサクとともにいるので恐れる必要はありません。そして祭壇を築き、天幕を張り、井戸(井戸と書かれていたら結婚を連想してください)を掘りました。ベエル・シェバという地名が出て来ましたが、ヤコブは神様がイサクと契約を結んだ場所から旅に出たのです。つまりベエル・シェバはある意味で約束の地なのです。そしてヤコブはベエル・シェバからハランに向かいました。ハランは約束の地ではなく、一般の世界です。アブラハムはハランから約束の地に上り、ヤコブは逆に約束の地からハランに下って行きました。なぜ下るのかというと妻を求めに行くのです。これに関してもう少しあとで説明します。



夢の中で神様はアブラハムやイサクと同じ契約をヤコブと結びました。この契約はじつはアダムとノアに与えた契約の続きでもありました。

ヤコブが夢を見た場所ベテルを、ヤコブは天の門と呼びました。

【創世記28:17】彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

じつは世界には複数の天の門があります。天の門とは天国と地上をつなぐ場所、天国が地上に降りて来て地上をさわる場所です。

では天の門はどんなところでしょうか。

・きよくて恐れ多い場所です(ヤコブも夢を見て恐れ多いと言っています)。神様がご自分の民に語るので民は恐れます。だから神様はまず「恐れるな」と言ってから契約を与えることが多いです。

・神の民が祭壇を作っていけにえをささげる場所です。ヤコブは祭壇として石を立てて油を注ぎました。言い換えるとみことばと聖礼典の場所です。神様が語って、いけにえがあります。

・聖書の中に出て来る天の門を四つあげてみます。

モリヤ山:アブラハムがイサクをささげようとして神が止めた場所です。そして神から雄羊をいただいてそれをささげました。ここはいずれ神殿の山となります。神殿にはたくさんの祭壇が作られて、千年間もいけにえがささげられました。

ホレブの山(シナイ山):神様が燃える柴からモーセに語った場所です。

【出エジプト3:5~6】神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

モーセはここがきよい場所だとわかって恐れました。そしてやがてイスラエルの民全体を率いてそこに連れ戻します。そこで再び神が語って民は恐れました。モーセは天幕を作りました。もちろん祭壇もありました。

変貌の山:マタイ17章の変貌の山です。

【マタイ17:5】彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

天の門にいるのは神の息子である。このテーマも聖書にはよく出て来ます。

【マタイ17:6】弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

ここで祭壇は作らないのですが、ペテロは「よろしければここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)」と提案しました。しかしまだその時ではありませんでした。そして弟子たちに十字架の話をします。

ゴルゴタの丘:十字架の話をするとゴルゴタの丘を思い出します。ゴルゴタは十字架が建てられた丘です。ここでイエスのからだははしごのように高く上げられました。

これはヨハネ1章のイエスとナタナエルの会話です。

【ヨハネ1:49~51】ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えられた。「あなたがいちぢくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

イエスはそのままご自分がヤコブのはしごだと言います。そしてこれに続くヨハネ2章ではガリラヤのカナの婚礼の話になります。

【ヨハネ2:1】それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。

はしごの話のあとで妻の話になるのです。

ゴルゴタで神様はいろいろな形で語ります。その一つは百人隊長でした。

【マタイ27:54】百人隊長や一緒にイエスを御っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった」

恐れがあります。そしてはしごはキリストのからだそのものです。十字架にかかっていると、肋骨がはしごの段に見えるかもしれませんが、ヤコブの夢に出てきたのは私たちの考えるはしごではなく、おそらく階段だったと思います。ジグラットと呼ばれるピラミッド状の階段で、そこを天使が上り下りしていたのではないかと思います。ゴルゴダの祭壇は十字架です。祭壇の上にあるのはいけにえとして十字架にかかったキリストのからだです。それによって私たちも天に入ることができるのです。

【ローマ5:1~2】こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

これらの四つの場所には(恐らくここだろうと思う場所には)、今は教会が立っています。そして教会として天の門となっています。

ベテルは天の門として十字架を指していました。



これは私たちに関して何を語っているのでしょうか。教会とどういうつながりがあるのでしょうか。

教会について考えるとき、よくある二つの間違った考え方があります。

その一つは、教会は学校である、ということです。教会に来てお勉強して、説教を聞いて、神についての概念を学び、良い人になるためのお話を聞く場所であるという発想です。

もう一つは、教会はコンサートホールで、そこで賛美をささげて、私たちはそれによって熱心になって信仰に火がつくという発想です。

他にも、教会は伝道の場所という考えもあります。

どれも完全に間違っていませんが、ただ教会の真髄までたどり着いていません。学校にしてもコンサートホールにしても、この世的な発想で教会を見ているのです。神のきよさをきよくないものを通して見ているのです。

21世紀に三鷹で生きている私たちも簡単に同じ間違いをします。現代の人が神のきよさを理解するのはとても難しいことです。学校にもコンサートホールにも共通して欠けているのは、祭壇、火(炎)、いけにえ、聖礼典、神殿、天国で、教会が天の門になっていないのです。ぼくが毎週ことばで言うよりも、伝統的な教会に行けばそこに入った瞬間に目で見て感じると思います。神殿には、さきほど言った要素がすべてあって、壁にも天使の絵があって、至聖所には巨大な黄金のケルビムがあります。伝統的な教会にも天使の絵があります。アヤソフィアというトルコのイスタンブールの教会の天井には天使の絵が描かれていて、必ず天使と聖徒たちがあちらこちらに描かれています。祭壇があって十字架があって火がついています。そこで聖餐式(聖礼典)が行われます。聖餐式があるということはキリストのからだがそこにあるということです。つまりここに天へのはしごがあるということです。だから教会が天の門になるのです。私たち聖徒たち、天使たちがイエスのからだを上り下りしています。このからだを食べて血を飲むことによって、私たちがそのからだとなります。そして世界と天国を私たちがつなぐ者になります。

よく見ると、ヤコブの夢の天使たちは上ってから下ります。普通、天使を考えると天から下りてから上るとイメージするのですが、天使は人間を含むので上って下りるのです。私たちも神に遣わされる御使いです。

神様がどこかに天の門を作ると、神の民はそこで礼拝をして、その礼拝において天に上ります。そして聖所に入ってきよめられます。私たちは天使とともに上って下って、天と一般の世界の間を行き来します。

私たちが上ってイエスのからだを食べて一つのからだとなった時、私たちは新しいエルサレム、神のきよい都となって天から下りて来ます。これが黙示録のイメージです。

ヤコブがはしごの夢を見たあと、妻を探し求めます。私たちも天に上って神を礼拝してまた下ってきて世に戻った時、この世をきよめに行って、地上と天が結婚することを求めています。私たちがキリストの花嫁を求めて、この地上が天と一つになるように、キリストが教会と一つになるように働きかけて、結んでいます。この部屋も天の門です。このはしご(パンとぶどう酒)があるからです。私たちのメルキゼデクが私たちにまことのパン(キリストのからだ)、まことのぶどう酒(キリストの血)を与えてくれるからです。私たちはそれに対してどのように答えるかというと、献金(献身)します。私たちも自分のすべてを生けるいけにえとして神にささげます。イサクが神の祭壇の上でささげられたように、私たちも自分を献げます。





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