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「罪の告白」四旬節第一主日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


「罪の告白」

先週の水曜日は灰の水曜日でした。この日から四旬節が始まります。

私たちの会堂で聖オーガスティン教会が灰の水曜日の礼拝を行い、司祭が礼拝者の額に灰で十字架を書いて「あなたは灰であり、灰に戻ることを覚えていなさい」と宣言しました。自分が偉大なる神の前でどれだけ小さい者なのか、弱い者なのかを覚えるために、そして自分の罪と自分が死ぬことを覚えるために行われます。

アブラハムも神の御前で「ご覧ください。私はちりや灰に過ぎません…(創世記18:27)」と言っていました。神に直面した私たちはこのような反応になるのです。ヘブル人は、悲しい時や悔い改める時に、よく頭の上に灰を置いていました。タマル、モルデカイ、ダニエル、そしてへブル人ではありませんがヨブも有名です。ヨブは神と出会った時に次のように言いました。

【ヨブ42:6】それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。

聖書のこのような表現は霊的状態を表す比喩ではなくて、場合によっては実際に自分に灰をかけて祈っていました。

それで現代に生きる私たちも、たまにそれをするのは良いと思います。灰があってもなくても四旬節の時に、神の御前でへりくだります。


今日は四旬節第一主日です。復活祭まであと6週間となりました。今年の復活祭は3月31日です。この期間に私たちは死と復活の準備をします。この準備のために一番良い方法はイエスの死と復活を思い起こすことによって神の恵み深さに目を留めることです。

【詩篇25:6】主よ  思い起こしてください。あなたのあわれみと恵みを。それらはとこしえからのものです。

大昔、人々は長く生きていて、非常に罪深い状態でした。それで神は大洪水によってその世界をさばかれました。その中でノアとその家族を救出してくださり、すべての肉なる者と契約を結んでくださいました。

【創世記9:15~16】そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。

神の契約には動物も含まれます。ヨナがニネベの町に福音を伝えて人々が悔い改めたとき、神はニネベの動物も救ってくださいました。

神様はじつにこの約束を守ってくださっています。毎朝太陽が昇るのを見たときにそれを感じます。東京でも高層マンションの上のほうに住んでいれば感じるかもしれません。

【哀歌3:22b~23】実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。

神様は私たちの罪と悪を常に見ていたのに、この世を二度と洪水で滅ぼさないと約束してくださいました。罪人への愛と恵みがあるからです。

【マタイ5:44~45】しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

イエスもこのように言いました。私たちの神は自分の敵を愛する神なのです。それで当然ご自分の御子を十字架にかけた者も、ご自分の教会を迫害するパウロのような者もあわれんでくださいます。


しかし私たちはただ罪人で神の敵でいるわけではありません。私たちは神の愛する子なのです。イエスの洗礼の時にそのように宣言されています。私たちの洗礼もイエスの洗礼にあずかっています。

【マルコ1:10〜11】イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

私たちはこのように私たちを愛してくださる恵み深い神に向かって悔い改めるように命じられています。

【マルコ1:15】「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

これはたった一行でまとめられたイエスの福音です。

まず「御国が近づきました」と宣言します。(私たちの場合はすでに御国は来ました。)

そして「悔い改めて福音を信じなさい。」と命じます。私たちはいつこの命令に従うのでしょうか。例えば洗礼を受けたときにこの命令に従って終わりなのでしょうか。当然そんなことはありません。私たちは洗礼を受けた時に確かに悔い改めて福音を信じました。しかし悔い改めて信じることは常にやり続けることでもあります。

私たちには悔い改めのサイクルがあります。

毎日のサイクルで悔い改めます。主の祈りを祈るとき、毎日自分の罪を悔い改めます。

毎週のサイクルで悔い改めます。日曜日に教会で罪の悔い改めをします。そして神に対する信仰も告白します。

一年のサイクルで悔い改めます。四旬節で四十日間の悔い改めをします。


今日は罪の告白に注目して話したいと思います。

罪の告白なしでは悔い改めはありません。そして悔い改めなしでは救いはありません。

【詩篇32:1、3、5〜7】幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。

私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。

私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。それゆえ敬虔な人はみな祈ります。あなたに向かってあなたがおられるうちに。大水は濁流となっても彼のところに届きません。

あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り救いの歓声で私を囲んでくださいます。

神様に罪を黙っていたとき、疲れ切ってうめいていましたが、神様にその罪を知らせました。

悔い改める者は、神がノアの洪水の時に約束してくださったように洪水ではさばかれません。救われるのは罪のない者ではありません。罪を悔い改める者です。


罪を悔い改めるときは声を出して罪を告白する必要があります。

【第一ヨハネ1:8〜9】もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

罪を告白する方法として三つのやり方があります。

その一つ目は先ほどやったばかりですが、私たちは礼拝で教会として声を合わせて自分の罪深さを告白しました。このときは具体的な罪の告白ではなくて自分たちが罪深いということを告白しています。みんなで一緒に告白するときはそれが当然になります。ダビデも詩篇でたくさん罪の告白をしていますが、具体的な罪について語っていないのと同じです。バテシェバの罪のときにこのように悔い改めたと詩篇の冒頭のところに書いてあったりしますが、詩篇の本文の中では具体的なことは出てきません。

教会の礼拝で罪を告白する時に黙とうの時間がありますが、短いので自分の具体的な罪を思い起こして十分に悔い改めることはできないと思います。せいぜい一つか二つです。教会として一緒に罪を告白するのは必要不可欠なのですが、きよい生活を保つためにはそれでは不十分なのです。それ以上のものが必要になります。二つ目を見ましょう。

二つ目は祈りの中で神の御前で一人で罪を告白することです。先ほども言いましたが、私たちが主の祈りをするときにもそうします。必ず罪の悔い改めが含まれます。私たちの罪をお赦しくださいと祈ります。これも必要不可欠です。毎日、どんなに忙しくてもできることです。そしてだれもあなたを止めることができません。心の中でも祈ることができます。しかし、それでも大切な要素が抜けています。例えば忙しくて曖昧にしたまま赦しを求めてしまうかもしれません。あるいは時間をかけて自分の罪を特定して言語化する時間を設けないかもしれません。もちろん一人で祈った時でも、自分の祈りは聞かれて、赦されているという確信をもつことができますが、赦しの宣言を耳で聞くことはできません。それで三つ目が必要です。

三つ目は個人懺悔(こじんざんげ)です。聖書にある一つの原則は、神様はご自分が語られたことばを通して御旨を行うということです。例えば光よあれ、と神がことばを発すると光があるようになります。あるいは、あなたに洗礼を授けます、ということばが必要です。御国が来ますように、という祈りを通して御国がきます。そしてあなたの罪は赦されました、という宣言も必要です。神はそのことばを通して私たちの罪を赦します。イエスは何度もそのように宣言しました。宣言された瞬間にそれが実行されます。神の御声には力があるのです。

【詩篇29:3〜11】主の声は水の上にあり 栄光の神は雷鳴をとどろかせる。主は大水の上におられる。主の声は力強く 主の声は威厳がある。

神様は私たちに、人に向かって罪を告白しなさいと言います。そしてその人が罪の赦しの宣言をした時にそれが神の声なのです。

神様は私たちがお互いのために祈るように教えます。それも神の声を通して働くからです。

【ヤコブ5:16】ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。

イエスがこの世にいた時は、イエスが声を出して罪の赦しを宣言しました。そしてこの世を離れる前にその権限と責任をご自分の使徒たちに与えました。

【ヨハネ20:22】(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

人を赦すというとんでもないこの権威をイエスは教会に託しました。ある意味で個人懺悔は自由です。やるかどうかもだれにやるのかもいつやるのかも自由です。それでも、その人の具体的な罪が赦されたと宣言されることには大きな祝福があります。

マルチン・ルターはカトリック教会が個人懺悔をする時期を強制していたことに反対しました。そしてはっきりと「私たちの罪の告白(懺悔)は私たちを救う善行ではありません。」と言っています。つまり、私たちが赦されるのは私たちがきよい心で告白しているとか、具体的に徹底的に罪を言語化できたからではないのです。赦されるかどうかは自分がどれだけ上手にちゃんと罪を告白したかにかかっていません。しかし同時にルターは、あなたが懺悔する必要がないと思うなら、あるいは懺悔自体が良くないことだと思うなら、法王に戻った方がいいと言います。つまりローマの権威の下に戻った方がいいと言います。

ルターは懺悔を勧めますが、それは「あなたはクリスチャンでいなさい。」と言っているのと同じだと言います。ルターにとって懺悔はあまりにも大切なので、聖礼典の一つと考えていました。彼の弟子メランヒトンもそのように教えていました。ルターが懺悔の大切さをなぜそこまで感じていたのかというと、一つは自分の体験からでした。ルターは「懺悔が自分を支えていなければ悪魔はとっくの昔に私を殺していた。」と言っていました。ルターは個人懺悔の力を体験していたのです。僕自身も自分の人生において個人懺悔の恵みを体験していますし、周りの人の人生を変える力があることも見てきました。神様はこのことを通して私たちをきよめることを感じることができました。


個人懺悔の祝福について見てみましょう。

個人懺悔の祝福の一つは、私たちが罪と戦うときに一人で戦わなくてよいということです。罪は私たちが一人で倒せるほど小さいものではありません。それなのに私たちは一番力のある危険な罪ほど人から隠します。それと戦うために助けを求めないのです。隠して、一人だけで対応しようとしてしまいます。ですから個人懺悔の祝福は、もう一人の人が自分のために具体的に祈って、助言を与えてくれることです。一人で戦う必要はありませんし、一人で戦うべきではありません。

個人懺悔の祝福の二つ目は、ある意味で健全な恥を感じさせることです。自分が罪を犯したとき、だれかの顔を見ながら、口に出さなければいけないと思うと恥を感じます。一人だったら何も感じないし考えないし気にしないし忘れるかもしれません。

恥を感じますがその恥は一瞬だけです。自分の罪を口から出した時に、目の前の人の赦しの顔を見ます。そして赦しの言葉を聞きます。まことに神の愛から自分を引き離すことができるものは何もないと実感します。自分の罪悪と恥を捨てるために、そしてそれから逃れるために一番良いのはそれをさらすことです。その罪に対しての神様の赦しの宣言を聞くと、こんな自分がそれでも愛されていること、それでも赦されていることを実感するのです。

そして懺悔する相手は、クリスチャンの兄弟ならだれでも選ぶことができます。アメリカでよくあるのは、ある罪(例えばポルノなど)と戦うためにグループを作ってお互いに告白し合って一緒に戦おうとするサポートグループのようなものです。そのほかにも個人的に1対1で罪を告白し合ってお互いを助け合う形もあります。

しかし特に牧師に対して、牧師の前で懺悔することに特別な祝福があります。一つはキリストが教会に託した権威によって赦しの宣言をすることができるからです。

そしてもう一つは牧師に告白すれば自分との関係性が何も変わりません。自分の家族や友達に告白すると今後の関係性がどうなるか心配になると思うのですが、牧師に罪を告白すれば、基本的に自分の周りの人もみんな同じ誘惑に合っているので牧師は驚くはずはありません。そして牧師が自分を見た時に、神の目で自分を見るはずです。牧師が告白を聞いた時に、自分を見下さずに、逆に悔い改めに対する喜びに満ちています。そして牧師は他の人にその内容を絶対に伝えません。


この四旬節の間に、是非だれかクリスチャンの兄弟を探して自分の罪を告白してみてください。僕でよければだれの懺悔でも聞きます。別の牧師や兄弟がよければ紹介することもできます。

罪は私たちの敵です。私たちは敵と戦い続けなければなりません。それは神の御国が来るためです。神の御国がきますように。御心が天で行われるように私たちの地でも行われますように。

罪と戦って勝利することによって、大いなる祝福があります。

【箴言28:13】自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。

どんな祝福を受けるかというと、一番偉大な祝福はこのテーブルにある聖餐式です。罪の告白のあとに必ず聖餐式があります。告白せずに聖餐式を受けることはできません。悔い改める者には、キリストとともに死ぬこと、そしてキリストとともに永遠に生きる祝福が与えられます。キリストの十字架のゆえに、私たちがどんな罪を犯しても、それを告白して悔い改めるなら必ず赦されます。

私たちは神の愛する子であるという確信をもつことができるのです。

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