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「パウロとテモテの模範」ピリピ2:19〜24

説教者:ラルフ・スミス牧師



「パウロとテモテの模範」

ピリピ2:19〜24

私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。

パウロの他の手紙もそうだが、ピリピ人への手紙は特にパウロ自身のことについて書いてある。パウロだけではなく一緒に奉仕していたエパフラスやテモテのことも書いてある。だから今日はパウロのことを思い出して、それからテモテのことも一緒に考えて、パウロとテモテの模範から私たちは何を学ぶべきかを考えたいと思う。

@⚫️パウロの救い

パウロの名前は使徒の働き8章に最初に出て来る。使徒の働き7章でステパノが殉教したが、パウロはユダヤ人の中で一番熱心に教会を迫害し、ステパノを殺すことに賛成していた(使徒8:1)。パウロは自分のことを次のように紹介している。

【使徒の働き22:3】私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。

パウロは恐らく15歳頃からガマリエルのところでユダヤ人の教育を受けてパリサイ人になったのではないかと歴史学者が説明している。

イエス様が十字架で死んだ年(AD30年頃)に、ステパノが殉教し、同じ年にパウロがイエス様を信じたと思う。

クリスチャンになったユダヤ人を逮捕するために大祭司や長老会がパウロに手紙を託してダマスコに向かわせたので、パウロはイエス様とそれほど歳は変わらないと思う。つまり若い人は大祭司のところに行ってこのような働きを託されたりしないので、恐らくパウロは30歳か31歳だったのではないかと思われる。

【使徒の働き22:5】このことについては、大祭司や長老会全体も私のために証言してくれます。この人たちから兄弟たちに宛てた手紙まで受け取って、私はダマスコへ向かいました。そこにいる者たちも縛り上げ、エルサレムに引いて来て処罰するためでした。

パウロがダマスコに向かっている途中で復活したイエス様に出会いパウロはイエス様を信じた。

【使徒9:3〜8、17〜20】ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」

同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

サウロは地面から立ち上がった。しかし、目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。…

そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。そこで、彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気になった。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいて、ただちに諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めた。

このストーリーは使徒の働きの中で三回も繰り返されている。

ダマスコのクリスチャンたちはパウロがイエス様を信じたことを認めていた。そしてあまりにも熱心に福音を伝えたのでダマスコのユダヤ人がイエス様を殺そうとした。それでパウロはダマスコからアラビアに行った。

【ガラテヤ1:16〜17】(神が)異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

アラビアのどこなのかはっきり書かれていないが、恐らくシナイ山に行ったのではないかと思う。クリスチャンになったばかりのパウロは、モーセやエリヤのようにシナイ山で神と祈りと交わりの時間を過ごし、瞑想してこれからの人生の心の準備をしたと思う。

その後パウロはダマスコに戻ったのだがダマスコのユダヤ人に殺されそうになったのでエルサレムに行った。

【ガラテヤ1:1】それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在した。

エルサレムのクリスチャンとダマスコのクリスチャンはあまり通じ合っていなかったのか、エルサレムのクリスチャンはパウロが救われたことが信じられず、心配でパウロを受け入れなかった。しかしそのとき初めてバルナバがパウロに出会い、パウロと話して、他の人に紹介して、パウロを励ました。

パウロはしばらくの間エルサレムにいて熱心に福音を伝えた。

【使徒9:28〜30】しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。また、ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した。

しかしエルサレムのユダヤ人たちがパウロを殺そうとしたので、兄弟たちがパウロをタルソへ送り出した。

タルソに戻ったパウロは十年近くもそこにいた。そこで何をしていたのかはどこにも書かれていないが、恐らく自分の家族のところに戻って福音を伝えていただろうと思う。そしてみことばを学んでクリスチャンとして成長して、仕事をして経済的に家族を支えていただろうと思う。

@⚫️パウロの伝道旅行

AD42年くらいに、散らされたクリスチャンたちが、やっとアンティオキアで異邦人にみことばを伝え始めて、これが新しい運動のようになった。バルナバはタルソにいたパウロをアンティオキアに連れて行き、一緒に働き始めた。パウロは以前からバルナバのことを知っていたが、パウロが救われて12年ほどたってから一緒に働くようになった。二人はアンティオキアで大きな素晴らしい働きをしたので、アンティオキアの教会はパウロを信頼して受け入れて、エルサレムへの献金を託してバルナバとパウロをエルサレムに送った。

【使徒11:27〜30】そのころ、預言者たちがエルサレムからアンティオキアに下って来た。その中の一人で名をアガボという人が立って、世界中に大飢饉が起こると御霊によって預言し、それがクラウディウス帝の時に起こった。弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行し、バルナバとサウロの手に託して長老たちに送った。

パウロたちが救援の物を届けた時に、ヘロデ・アグリッパ王が神にさばかれて虫に食われて死んだ(AD44年8月1日)。

@パウロとバルナバがエルサレムからアンティオキアに戻ると、アンティオキアの教会は二人を伝道の旅に送り出した。AD44年頃だと思われているがガリラヤを巡る長い旅であった。パウロたちは次から次へ町を訪ねて福音を伝えては追い出された。

その旅が終わって、二人はまたアンティオキアに戻って教会を励ましていた。ところがガラテヤの教会が異端の危険にさらされて、キリストから離れる危険性があることがパウロたちのところに伝わって来たので、パウロはガラテヤ人への手紙を書いて送った。

手紙を書いたことで割礼の問題がアンティオキアの教会でも知られるようになったので、パウロとバルナバはエルサレムに送られて、AD48年のエルサレムの会議に出席した。その様子は使徒の働き15章にある。その会議で、異邦人は割礼を受けなくても良い、という結論に達し、パウロはアンティオキアに戻ってその結論を伝えた。

バルナバはパウロの最初の同労者で、町から追い出されたり、ぶたれたり、危険な目にあったりしても、二人は心を尽くして福音を伝え、献金をもらわずに働きながら旅をした。二人はアンティオキアに戻って旅の報告をし、みことばを教え、福音を伝えた。

それから数日後に、パウロとバルナバは以前福音を伝えた南ガラテヤに行って彼らの状況を確認し、それから再び伝道の旅に出ることになった。バルナバはマルコを一緒に連れて行くつもりだった。最初の南ガラティアの旅ではマルコも一緒に行ったが、彼は途中でエルサレムに戻ってしまったので、パウロは二回目の旅にはもうマルコを連れて行くつもりはなかった。このことについてパウロとバルナバの意見の違いが大きかったので、パウロはシラスを連れて南ガラティアに行くことにして、バルナバはマルコと別の所へ行った。バルナバとマルコはキプロスを旅して伝道の働きをしたようだ。

@バルナバもパウロも献金をもらわずに働きながら旅をした。

【第一コリント9:6、12】あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。…

ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

コリント人への手紙第一はAD55年頃に書かれているので、その時までまだバルナバは生きていて伝道の働きをしていた。パウロもバルナバも自分の人生のすべてをキリストにささげて御国のために働いた。

@●テモテとピリピの教会の関係

パウロとシラスが最初に南ガラテヤのリステラに行ったときに、テモテが救われてクリスチャンになったが、その時テモテの母ユニケと祖母ロイスも一緒に救われた(第二テモテ1:5)。そこでパウロたちが二度目にリステラに行ったときに、テモテを一緒に働くために招いて、テモテの母と祖母もそれを認めたので、その時からテモテはパウロと一緒に働いた。AD50年頃でパウロはだいたい五十歳くらいで、テモテは二十五歳くらいだったのではないかと思う。

【使徒の働き16:1】それからパウロはデルべに、そしてリステラに行った。するとそこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。

テモテの母はユダヤ人なので、母がユダヤ人なら息子もユダヤ人として認められる。パウロはどこの町に行ってもまずユダヤ人に福音を伝えていたが、テモテが一緒に働くためにはユダヤ人として割礼を受けなければならなかった。彼の父親がギリシア人であることを皆が知っていたので、ユダヤ人に受け入れられない可能性が高かったからだ。だからパウロがテモテと働くことになったときに、まず最初にテモテに割礼を行った。テモテが救われるためではなく、テモテの霊的な状態とも全く関係なく、伝道のために割礼を行った。そしてパウロとシラスとテモテは旅に出た。(使徒の働き16:1~8)

@【使徒の働き16:9~10】その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

旅の途中でルカに会い、パウロの幻によってパウロ、シラス、テモテ、ルカはマケドニアのピリピ行った。ピリピの教会はこの四人の働きで始まった教会である。

彼らが福音を伝える中で、パウロとシラスだけは牢に入れられ、町から追い出されてしまった。しかしピリピの教会はパウロとシラスの伝道の働きを覚えて最初から彼らを大切にしてくれた。パウロとシラスがピリピの町から追い出されて、そこにテモテも加わってテサロニケの町に行った。そこで福音を伝えたがまたしてもユダヤ人に追い出され、テサロニケからべレアに行った。ところがテサロニケのユダヤ人たちがベレアに追いかけてきてパウロを追い出したので、パウロはシラスとテモテを残してアテネに行き、最終的にコリントの町に行った。テモテとシラスはコリントの町に来てまたパウロと一緒に働き始めた。

パウロはテモテに割礼を与えてピリピに行き、ピリピの教会を始めた。だからピリピの教会にとってパウロは大切だし、テモテも大切である。

@●パウロとテモテの模範

私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。(テモテ2:19)

ピリピ人への手紙は、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙と同じようにローマの牢の中で書かれた手紙である。パウロはAD60年~62年にローマで軟禁されていたが、ピリピ人への手紙を送った時には、裁判の判決がそろそろ出る頃だった。自分は場合によっては死ぬかもしれないと書いている。コロサイ人への手紙はローマで軟禁が始まったばかりの頃に書いたもので、ピリピ人への手紙はその軟禁時代の最後の方に書かれたものである。自分がどうなるかわかり次第、テモテを送ると言っているが、裁判の判決を待っパウロはピリピの教会を心配している。だから励ましたいしテモテを送りたいと思っている。

【ピリピ2:20】テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

パウロはこのように書いているが、パウロの周りにいる人がまるでテモテのような心を持っていないかのように聞こえる。

このときルカやマルコや他の人もほとんど一緒にいない。コロサイ人への手紙を書いたころにはパウロの周りに常に十人くらいの人たちがいたが、当時はインターネットがないのでコミニケーションを取るために人を送るしかなかった。マルコを送り、他の人たちもいろいろなところに送られて、ピリピ人への手紙を書いた時にはテモテしかパウロのそばにいなかった。つまりだれもいないと言うのはその時にテモテしか一緒にいないという意味である。直訳すると、「だれもいません」は「だれも持っていない」という意味である。

【ピリピ2:3~4】何事とも利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

これがイエス様の思いである。イエス様が私たちのことをご自分よりも大切だと思ってくださって、十字架上で死んでくださった。テモテはそのような心を持っている。テモテはパウロと同じ心を持って主に仕えた。だからパウロはテモテを信頼してピリピの教会に送ることができる。パウロはイエス様のような心を持って、他の人が自分よりも大切だと思って、イエス様を信じたときから旅をして福音を伝えて、何回も殺されそうになって、何回も牢に入れられて、何回もぶたれた。しかしどんなに苦しめられてもパウロは立ち上がって福音を伝えてきた。たとえ殺されても、イエス様と同じ心を持って福音を伝え続けた。福音を伝えることにおいて殺されてもよい。テモテも同じ心を持っていた。今日の福音書の朗読の箇所は、私たちにも同じ心を持つように求めている。

【マルコ8:31〜38】それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

ペテロはイエス様が殺されると聞いて、弟子たちを代表して、あなたにはそんなことがあってはいけないと言った。ペテロたちはイエス様を愛していたし、メシアは殺されるはずはないと思っていたからだ。弟子たちはまだ十字架のことがわかっていなかった。このとき弟子たちに初めて十字架の話をしたのでペテロたちは驚いたのだが、イエス様はみんなを呼び寄せて、「「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。(8:34b~35)」と言われた。

イエス様の弟子になりたい人はだれでもそのような心を持たなければならない。パウロやテモテのように旅をしなさいという意味ではない。すべてを神様にゆだねて、互いに人を自分より大切だと思って、主イエス・キリストに従って十字架を負って歩む。これはすべてのクリスチャンに要求される歩み方である。パウロもテモテもその模範を示している。

@聖餐式のときに、主イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったことを記念する。そして聖餐式が終わってから私たちは自分を生けるいけにえとして主にささげ、自分の十字架を負ってキリストに従って歩むことを約束している。イエス様、パウロ、テモテの模範を覚えて、一緒に聖餐を頂きたいと思う。

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