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「あなたの名はイスラエル」創世記32:22〜31

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


創世記32:22〜31

その夜、彼は起き上がり、二人の妻と二人の女奴隷、そして十一人の子どもたちを連れ出し、ヤボクの渡し場を渡った。

彼らを連れ出して川を渡らせ、また自分の所有するものも渡らせた。ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。

すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。

こういうわけで、イスラエルの人々は今日まで、ももの関節の上の、腰の筋を食べない。ヤコブが、ももの関節、腰の筋を打たれたからである。

今日は先々週に続いてヤコブの話です。

創世記32章で神様はヤコブにイスラエルという新しい名前を与えます。それ以降、イスラエルは神様に選ばれた民の呼び名となりました。私たちの名前でもあります。私たちは新しいエルサレム、新しいイスラエルです。

ではイスラエルとはどういう意味でしょうか。神を信じる人々という意味でしょうか。それとも神に従う人々という意味でしょうか。じつは、神と格闘する人々や民、という意味です。

私たちはどのように神と格闘するのでしょうか。ある人たちは神の意志に抵抗すること、神を疑うこと、御心を知るために格闘すること、神の御心に従うために格闘することだと言います。例えば進路のことで一晩中祈って神と格闘していました、というように言うかもしれません。確かに私たちはそのような格闘をすることはあります。しかしこのストーリーのヤコブはそのような格闘ではありませんでした。

それを知るために、このヤコブのストーリーの前後関係を見ていきましょう。



20年前にヤコブは兄エサウに殺されそうになり、母リベカの兄ラバンのところに逃げました。それから20年たって、ヤコブは神様に命じられて今度は妻たちと子どもたちとラバンのところで得たたくさんの家畜を連れて、父の家に帰ろうとしていました。20年ぶりです。しかしその途中でエサウが男性四百人を連れて迎えに来ていると聞きました。ヤコブはエサウがどんな思いで四百人もの男性を連れてきているのかわかりませんでした。もしかしたら彼と彼の家族全員を殺すつもりなのかもしれないと思いました。それでヤコブは家族をヤボク川の反対側に送って、自分だけ川のこちら側に残りました。

川のこちら側でヤコブは神と格闘しようと思っていたと思う人もいるかもしれません。なぜならヤコブは恐れて心配して神様に「助けてください」と祈っていたと思うので、怒りもあったかもしれないし、神様に挑戦していたのかもしれないからです。

しかし、私たちの経験を思い込みでこのストーリーに押しつけてはいけません。ヤコブはこんなことをしているとは書かれていないからです。例えば、ヤコブが神様に挑戦して、神様がそれに応えて人となって格闘していたと書いていません。あるいはヤコブがうろうろ歩き回って人と格闘を始めたがそれがたまたま天使だった、とも書いていません。ただその夜、人の形をしたものがヤコブと格闘していました。それしか書かれていないのです。この格闘を通してヤコブのこれまでの人生の意味がすべて教えられています。ヤコブの未来、イスラエルの未来、教会の未来もここで示されています。



ヤコブはこれまでにどんな人生を送って来たのでしょうか。じつはヤコブは神様の祝福を得るために人生の最初からずっと格闘していました。

【創世記25:21~22】イサクは、自分の妻のために主に祈った。彼女が不妊の女だったからである。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったので、彼女は「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と言った。そして、主のみこころを求めに出て行った。

ヤコブは母の腹の中でエサウとぶつかり合って格闘していました。

【創世記25:23】すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」

神様はご自分が弟を選んだことをはっきりと伝えています。選ばれた民は弟からきます。だからヤコブの場合は子ども全員が選ばれた民です。でもイサクはそうではありませんでした。二人の子どものうち、選ばれたのは一人だけでした。

【創世記25:24~26】月日が満ちて、出産の時になった。すると見よ、双子が胎内にいた。最初に出て来た子は。赤くて、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。その後で弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで、その子はヤコブと名づけられた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

ヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれてきました。つまり長子の権利を失わないように格闘していたのです。

【創世記25:27】この子どもたちは成長した。エサウは巧みな狩人、野の人であったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。

エサウはニムロデと同じ狩人でした。

そしてヤコブは穏やかな人と書いてありますが、なぜこのような訳になっているか不思議です。ノアについて言われているのと同じ単語が使われているのに同じように訳されていないからです。

ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。(創世記6:9)

ヤコブはノアと同じように全き人でした。そしてこの単語はヨブについても使われています。

この人(ヨブ)誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。(ヨブ1:1)

ヤコブはノアのようなヨブのような人でした。そして天幕に住んでいました。

【創世記25:28】イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかしリベカはヤコブを愛していた。

つまりエサウは食いしん坊で、エサウと同じように暴食の罪に弱い人でした。

でもリベカは神のような愛をもってヤコブを愛していました。マラキ書やローマ書にこのような神のことばが書かれています。

【マラキ1:2b】しかしわたしはヤコブを愛した。

【ローマ9:13】わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。

リベカは神の心を持っていました。

ヤコブは祝福のためにエサウと格闘しました。時が来た時に、長子の権利を煮物一皿と交換して買い取りました。つまりヤコブは知恵を使って平和的に勝利しました。その代わりにエサウは神を知らないお腹のすいている人で、アダムのように神の祝福ではなく食べ物を選んでしまいました。エサウは神と格闘しません。格闘せずに楽な道を歩む人でした。だから食べ物を求めて、女性を求めて、自分の怒りの誘惑に抵抗せずに負けました。暴食の誘惑にも抵抗せずに負けました。



じつはヤコブはエサウだけではなく、父イサクとも格闘しなければなりませんでした。イサクは自分のすべてをエサウに与えるつもりでした。ヤコブに与えられた祝福を見てみると、あとには何も残っていないことがわかります。それでヤコブが母と手を組んで父と格闘して平和的に勝利して祝福を得ました。

でもその結果、兄は弟を殺そうとします。エサウはカインのような兄です。それでヤコブは母の兄ラバンのところに逃げて妻を求めました。



しかしラバンはかつてイサクにリベカを譲ったときとは全く違う扱いをしました。ラバンはヤコブを不正に扱ったのです。ヤコブは愛するラケルと結婚するために最初の14年間働かされました。そして働きに対する報いを与えるために更に6年間働かされました。ラバンの本心はヤコブに何も与えずに追い出すことでしたが、ヤコブそこでもラバンと平和的に格闘して勝利します。妻たちと子どもたちとたくさんの家畜を連れて、ラバンとも和解して、やっと父の家に帰ることができるのです。



しかし父の家に帰る途中でヤコブの人生最大の危機にあってしまいます。エサウが四百人の男性を連れて迎えに来ているというのです。ヤコブはまた知恵を使って平和を求めなければならないのです。ヤコブは完全な人だったのに、愚かな者(悪党)を相手にずっと格闘する人生になってしまいました。

まさにこの夜に神様が現れて、ヤコブと格闘するのです。

じつはここでヤコブは、自分の人生の格闘の相手は、最初からずっと人間ではなくて神だったということを知ります。ヤコブは生まれる前から神と格闘していました。

私たちも同じです。私たちの人生に現れるすべての障害、私たちを妨げるすべての敵は神様がそこに置いたものだったのです。私たちは人を目の前にして格闘しているつもりですが、じつは神と格闘していたのです。あなたの格闘の相手は意識の上ではだれですか。上司ですか、言うことを聞かない子どもたちですか、夫ですか、妻ですか、自分ですか。自分の傲慢、自分の自制のなさですか。どんな敵と格闘していたとしても、神様と格闘しています。神様はあなたがきよくなるために、強くなるためにそのようにしています。そしてあなたが祝福を手に入れるのにふさわしい者になるために格闘しています。最終的にあなたは祝福を手に入れることができます。

これに気づくと、この格闘は根本的に質が変わります。つまりこれは自分をのろうための格闘ではありません。自分に何が起きたとしてもそれが最終的に祝福のために神様が与えているものなのです。そうなると、自分を傷つける人や自分を攻撃してくる人でさえ、神様に送られた人ということになります。神様が私たちに与えた祝福の手段だとすれば、その人に対して怒りや恨みを感じる必要はなくなるのです。格闘してたとえいのちを失っても自分は勝利者です。恐れることは何もありません。

あなたはどんな祝福を求めていますか。何のために格闘しているでしょうか。神様が与えようとしている祝福のために格闘していますか。それとも煮物一皿のためにたたかっていますか。

神があなたに与えようとしているものはローマ書に書かれています。

【ローマ9:4】彼らは(私たちも)イスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼ら(私たち)のものです。父祖たちも彼ら(私たち)のものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

神様は私たちが御国のために大いに実を結ぶ祝福を与えようとしています。私たちにすべての罪と苦しみからの救いを与えようとしています。そして永遠のいのち、永遠の住まい、永遠の家族を与えようとしています。



ここで神様はヤコブが求めている祝福を与えます。

【創世記32:28】その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

ヤコブは神と格闘しました。ヤコブは神と格闘する民の父となったのです。教会も私たちも含めてイスラエルは格闘の民なのです。

じつはイスラエルということばには二つの意味があります。一つは神と格闘して勝った、という意味。もう一つは神が格闘する、神が支配する、という意味です。イエスの受肉を考える時、この二つの意味が一緒になります。イエスは神と格闘しました。神様はイエスにたくさん試練を与えたので、イエスの一生は神との格闘でした。しかし同時にイエスは支配する神、勝利する神でもあります。だから私たちも神とともに格闘する者、そして支配する勝利者なのです。

勝利者と言っても、神様はヤコブの腰の関節を打ったので関節がはずれました。柔道の高度な技のようなものかもしれません。それ以降ヤコブは足を引きずって歩きました。足を引きずってあるくことは彼の生涯の苦しみ、格闘、障害と言えます。

ヤコブはやっとエサウから解放されて、ラバンからも解放されたのに、これからもっともっと試練が続くのです。最愛のラケルを失って最愛の息子ヨセフも失ったと思っていました。彼の息子たちは恐ろしく暴力的で淫らな者たちでした。ヤコブはこれから戦争や飢饉にみまわれていきます。

【創世記47:9】ヤコブはファラオに答えた。「私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。

じつはヤコブが足を引きずって歩くのは彼の成功なのです。それは十字架にかかったイエスの脇腹の傷と同じです。これはスティグマータ(ラテン語stigmata 聖痕)と呼ばれる、神と格闘したしるしです。そして勝利の傷でありながら、自分をへりくだらせるものでした。


【創世記32:30~31】そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に昇ったが、彼はそのもものために足を引きずっていた。

ペヌエルは「神の顔」という意味です。

私たちは昨日、石倉さんの葬儀で、石倉さんの生涯を振り返りました。彼はその生涯を、妻や子どもたちを養うために格闘して生きて来ました。そして10年前に病気で打たれたので、石倉さんは足を引きずっていました。しかしじつはその病を与えたのは神様でした。それは石倉さんが格闘している相手が神であることを知るためでした。それで足を引きずって教会に行きました。石倉さんはここで神と顔を合わせることができました。そして朝になって川を渡って約束の地に入りました。その意味で石倉さんはヤコブのあとについて行きました。私たちもついていきましょう。

私たちも煮物一皿ではなく、神の祝福のために格闘しましょう。自分の邪魔となっている人たち、自分を憎んでいる人たちを憎まずに生きて行きたいと思います。



エサウは神と格闘しなかったので、神の顔を見ることができませんでした。だから憎しみと恨みでいっぱいだったのです。自分をだまして祝福を奪い取ったヤコブに憎しみをずっと抱いていました。しかし神と格闘する者は和解を求めます。

ヤコブはエサウが自分と自分の家族を殺すのではないかと心配していましたが、実際には何が起きたでしょうか。

【創世記33:4~5、8~10】エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。エサウは目を上げ、女や子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。…するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。わたしは兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。

ヤコブはエサウの顔を見て神の顔を見ているようだと言います。人々は、ヤコブはやっぱりずるがしこくて、人にへつらうのが上手い、と言いますが、そんなことはありません。ヤコブはうそをついていない。実際にヤコブがエサウと会った時に、エサウも神様から遣わされた御使いだと悟ったのです。そしてエサウとの格闘は神との格闘だったので、エサウがヤコブを受け入れたことは神の恵みだと悟ったのです。それで最終的にヤコブはエサウとも和解することができました。

じつはすでにイサクとも和解していました。イサクはヤコブにだまし取られた祝福を取り戻そうとせずに、そのままヤコブに与えました。

イサクが死んだとき、エサウとヤコブは兄弟二人で父を葬りました。

ヤコブの人生を見ると、ヨセフが兄弟と和解する知恵をどこから得たかが分かります。私たちも神様が送ってきた人たちの顔を見て、神の顔が見えるようにしましょう。

たとえその人が私たちを殺そうとしている敵だったとしても、私たちも神と人と格闘して生きて行きましょう。なぜなら私たちもイスラエルだからです。そして私たちは必ず勝利して、足を引きずりながら約束の地に入るのです。





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