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「奥の牢」ピリピ1:27〜30

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ1:27〜30

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

このピリピの箇所を何週間か一緒にみているが、それはこの箇所がどこよりも深く広くピリピの教会へのメッセージを伝えていると言われているからである。



昨日、ローマ帝国の時代の牢獄について一番尊敬されている優れた本が手に入った。その本の中のピリピに関する部分を読んだりして、また別の観点からピリピ人への手紙を考えさせられた。



●ピリピの牢獄について

使徒の働き15章のエルサレムの会議の後、パウロはシラスとともにマケドニアに向かった。途中でテモテとルカが加わり、四人でマケドニアの町ピリピに着いた。パウロたちはそこで福音を伝えて祝福されたが、パウロがある女性の悪霊を追い出したために、彼女によって金儲けをしていた主人に訴えられてパウロとシラスは投獄されてしまった。使徒の働き16章にそのストーリーが書かれているが、その中にこれまであまり深く考えなかったところがあった。

【使徒の働き16:23〜24】そして何度もむちで打たせてから二人(パウロとシラス)を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。

何度も読んでいる箇所であるが、その本を読むまで「奥の牢」が特別に深い意味があることは知らなかった。ローマ帝国の牢獄は、時代によって、町のリーダーによって、場所によって、全くちがう状態であったが、この時のピリピの「奥の牢」は普通の牢とはちがい、拷問に近い状態だった。光はゼロ。場合によっては人で溢れていて、トイレもない。この部屋に入るだけで臭くて気絶しそうになる。奥の牢はひどい所だった。パウロたちはその奥の牢に入れられてとんでもない大変な状態に置かれたが、がっかりしたり泣いたりせずに、その中で祈りつつ神を喜び、賛美して歌っていた。

【使徒の働き16:25】真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。

パウロが一番最初にピリピに行ったAD50年頃のことである。



●ピリピの教会の苦しみ

パウロがピリピ人への手紙を書いたのはそれから12年後のAD62年頃のことである。ローマの牢で軟禁されていた時だった。

まずエルサレムで逮捕され、カイサリアに連れていかれて2年間牢につながれていたが、総督に会いに行ったり裁判で説教したりしたので、兵士たちはパウロを恐れて親切にしていた様子が使徒の働きから読み取れる。その後カイサリアから船でローマに向かったが、パウロはこの危険な船旅でも船長や百人隊長たちを助けていた。

パウロがローマに着いたときに、自分で借りた部屋に軟禁されて、24時間鎖につながれて隣に兵士が座っていたが、ルカやマルコやテモテなど十人くらいの友人たちがパウロといっしょにいた。このように友人に会って話したり手紙を書いたりできたので、ピリピの奥の牢にいたときとは対照的で、あのような厳しい状態ではなかった。

パウロは最初にピリピの町を訪ねてからずっとピリピの教会と連絡を取り合い、お互いに人を送っていたので、ピリピの教会はパウロの状態をよくわかっていた。

パウロがピリピの町で奥の牢に入れられたとき、牢の看守が救われて真夜中にバプテスマを受けた。その翌日、パウロたちは町のリーダーたちにピリピを追い出されてテサロニケに行った。テサロニケはマケドニアの中で一番大きくて経済的に力のある町だった。そこでもたくさんの人が救われたが、また追い出されてべレアに行った。パウロはべレアの会堂で福音を伝えて多くの人々が救われたが、テサロニケのユダヤ人がべレアにもやってきて、パウロを追い出すように扇動して騒ぎを起こしたので主にある兄弟たちがパウロをアテネに送った。そのときシラスとテモテを残していった。

アテネではパウロの話に聞く耳を持つ人はいなかったので、そこからコリントへ行った。

コリントにシラスとテモテがやって来て、テサロニケの教会への迫害によって彼らがどんなに反対されて大変な状態になっているかを話したので、パウロはテサロニケのクリスチャンを励ますためにテサロニケ人への手紙第一、第二を書いた。AD50年~51年頃のことである。テサロニケ人への手紙はガラテヤ人への手紙の次に書かれたものだと思われている。テサロニケの教会は苦しみの中で迫害されて反対される中で続けてキリストに従う教会だった。

【第一テサロニケ3:3】このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

テサロニケの教会が苦しみにあうのは神様のご計画だとパウロは言う。パウロはピリピの教会にも、あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。(ピリピ1:29)と言う。苦しむことは恵みとしてピリピの教会に与えられた。パウロとシラスはキリストのために苦しむことを経験したとき、感謝の心をもって、真夜中に奥の牢に入れられたときに神様に感謝の賛美して歌を歌っていた。ピリピの教会の人たちはそのことを知っている。テサロニケはピリピからそんなに離れていないし、テサロニケの教会の迫害はとても有名なので、ピリピの教会の人々はAD50年当時にそれをよく知っていた。それから12年たって、AD62年の時点で、今度はピリピの教会が反対を受けて苦しみにあっている。この苦しみは定められていて、神のご計画によって恵みとして与えられていることをテサロニケの教会の苦しみからもわかっていた。



●イエス様の預言

パウロがこのようなことを言うのは、イエス様のオリーブ山の説教を理解しているからである。その説教の中でイエス様は、神殿が破壊されるまで、苦しみと試練の時代が来ると預言している。オリーブ山の説教は、マタイ、マルコ、ルカにはあるがヨハネにはない。その代わりにヨハネの黙示録がオリーブ山の説教であると考えてよいと思う。オリーブ山の説教はイエス様の一番大切な説教であると言える。黙示録はオリーブ山の説教を別の言い方で伝えているものである。エルサレムのさばきは必ず来る。それまで教会は迫害されて苦しまなければならない。その中でがっかりしないで忠実にイエス様に従うように教会を励ましている。

黙示録に出て来るの七つの教会のうち、二つの教会以外は厳しい警告を受けている。妥協したり苦しみに負けたり迫害に耐えられなかったりする問題をイエス様は取り扱っている。

黙示録全体は、教会が試練に耐えるように励ましている。そして迫害はこれからすぐに成就されることが書かれている。

黙示録を受けた教会は、自分たちがそろそろ大きな試練にあうことがよくわかる。

黙示録1章でヨハネがイエス様ご自身の幻を見る。そして4章と5章でイエス様が天に上り、16章の終わりまでのところで、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢の話がある。まず巻物の封印を解き、読み上げるのはラッパが鳴るような感じで、鉢を傾けて天から神の怒りを注ぎ出してエルサレムと神殿に神のさばきが来ることを表している。

その後のところはイエス様が中心ではなく教会が中心になり、イエス様の花嫁の話に変わる。黙示録の最後にイエス様が王座にすわっているが、花嫁の栄光の話になる。イエス様にとって最高の祝福は自分の妻である教会がともに栄光を受けてともに支配することである。ただし気をつけて読むと、イエス様とともに支配している教会は福音を伝えるために殺された人たちであることがわかる。たくさんのクリスチャンたちが苦しめられて殺されなければならない。死刑にされても主に従う教会は花嫁として世界を支配するというところで黙示録が終わる。

ピリピの教会が苦しみにあうように定められているのは、キリストご自身が最高の祝福を受けるためである。花嫁も苦しみを受けてキリストとともに支配して、栄光を受けることをイエス様が求めている。キリストのために苦しむことを求めている。自分の苦しみはキリストのためである。花嫁は苦しみを受けて、栄光を受けて、キリストとともに栄光を受けることをイエス様が求めている。教会は妥協しないではっきりと立って最後まで戦わなければならない。武器を持ってヨシュアのように戦うのではなく、イエス様のように自分の十字架を負ってイエス様に従っていく。殺されても証する。みことばのために自分のいのちをささげる。そのような人は迫害されて憎まれる。ヨセフは夢を見てみことばを語ったために憎まれた。ヤコブの息子たちの中でヨセフだけが正しかった。アベルは正しかったのでカインはアベルを憎んで殺した。アダムとエバにはカイン一人しかいなかったがヤコブはカイン十人の父親であるかのようなストーリーだった。カインとアベルはカインがアベルを殺してストーリーが終わったが、ヨセフは殺されないでよみがえって王座にすわり、自分の兄弟たちが悔い改めるように導いて兄弟たちの救い主になった。

ピリピの教会がはっきり立って戦っているなら、それはピリピの教会とっては勝利のしるしであり救いのしるしであり祝福のしるしである。そして敵対する者に対しては滅びのしるしである。




●キリストのために苦しむ恵み

ローマ帝国はAD64年の皇帝ネロの時から皇帝コンスタンティヌスの時までずっとキリスト教を迫害した。コンスタンティヌスの時代になってやっと教会の迫害を停止させた。コンスタンティヌスがはっきりとすべての迫害を止めたのは、313から325年頃である。ネロの時代から300年近くの間、クリスチャンははっきり立って、憎まれて、迫害されて、証をした。それによってローマ帝国は滅びた。クリスチャンの大胆さとクリスチャンの望みが反対者を倒すことになった。


@私たちにも同じような恵みが与えられている。主イエス・キリストを知らない社会の中で証をしているからだ。

はっきりしたクリスチャンの歩みそのものが社会に対して証になる。毎週の聖日礼拝を守ることも社会に対して証になる。

しかしパウロは私たちに妥協しないで戦いなさいと言う。黙示録の2〜3章で叱られている五つの教会の中には偶像礼拝と妥協している教会があった。それが一番の誘惑だった。クリスチャンではない人は偶像を礼拝することが宗教の自由だと言う。そして人間の権威を神様の権威の上に認めるなら、つまりイエス様の権威を二次的にするならそれも自由だと言う。しかしイエス様は主の主、王の王であると告白してとして、それに相応しい立場を取るなら許されない。憎まれる。

これからは何が善で何が悪なのかを教える教育の戦いはますます激しくなると思う。妥協しない教会は試練にあうはずである。しかしみことばを教えて、はっきり立ってそれに従って歩むなら、私たちはこの社会に対して証ができる。戦いも迫害も憎しみも避けて妥協したら、何の証にもならないのである。

【マタイ10:33】しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

自分の十字架を負って歩まなければ祝福もない。



パウロはピリピの教会に、妥協せずに戦って地域教会の証を立てるように励ましている。私たちのことも励ましている。黙示録は1世紀の時代においての模範を示しているが、教会の歴史の中でクリスチャンが迫害されて殺されることは繰り返されている。クリスチャンがはっきりとした信仰を告白してみことばに従って歩む時に、教会は成長し、福音の勝利を見ることになるのだ。



私たちは毎週の礼拝の中心として聖餐をいただくが、十字架上で死んでくださった主イエス・キリストを信じる告白をして、十字架上で死んでくださったイエス様に従うように心をあらたにする。

私たちも妥協せずにみことばに従って歩みたいと思う。

【ヤコブ4:4】節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだとわからないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。

聖餐をいただく時に、私たちはこの世を愛さないことと、全てのものよりイエス様を愛して大切にして自分の十字架を負ってイエス様に従って行くことを告白している。





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