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「互いに人を自分より大切だと思いなさい」ピリピ1:27~2:5

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ1:27~2:5

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

パウロがこの手紙を書いたときの状態を一緒に思い出していただきたいと思う。パウロはAD60年頃に逮捕され、ローマで軟禁されていた。アパートのようなところを自費で借りて、24時間ローマ兵と鎖につながれていた。コロサイ人への手紙を見ると、パウロの軟禁中にルカやマルコが一緒にいたり、他の友だちが訪ねて来たりして、パウロやローマ兵も含めて十人ぐらいは常に一緒にいるようだった。人の出入りも許されていたようだ。ローマで二年ぐらいその状態だった。いろいろな人がパウロを訪ねて来たし、パウロも手紙を書いたりして、この二年の間にパウロはコロサイ人への手紙、エペソ人への手紙、ピレモンへの手紙を書いて、二年間の終わりに近い時にピリピ人への手紙を書いた。なぜならその手紙の中で、パウロは自分がそろそろ死ぬかもしれないと書いているからだ。裁判の判決が間もなく出る。有罪か無罪かはわからない。有罪なら死刑、無罪なら自由になってキリストの福音のために働くことができる。

ピリピの教会はマケドニアの一番最初の教会だった。AD50年ごろに設立されて、パウロに献金を送ったりメッセージを送ったりしてずっと親しくしていた。だからパウロはピリピの教会のことを、私の冠、私の喜びと呼んでいる(ピリピ4:1)。



キリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。(1:29)

パウロはピリピの教会に、まず自分の今の状態を話す。クリスチャンなのに、党派心をもってパウロを苦しめるために福音を伝えている人たちがいても、牢の中で鎖につながれながら喜んでいる。パウロを苦しめてその死を願う人もいる。パウロが今も苦闘していると言うのはそのことである。ピリピの教会はパウロ自身が福音のためにどのように苦しんできたかを知っている。

福音のために生きて、福音のために苦しむことも神の恵みだとパウロは言う。

イエス様のオリーブ山の説教がその大切な背景である。イエス様は、この世代が終わるまでにエルサレムや神殿が破壊される時が来るが、その前に教会は非常に苦しめられて迫害される、と預言した。実際にその迫害はAD64年に始まった。ローマの皇帝ネロが自分でローマの町に火をつけておきながら、それをクリスチャンのせいにしたので、クリスチャンは迫害されて死刑にされ始めたのだ。パウロはいろいろな手紙でその時が近いと警告している。このピリピ人への手紙もその一つである。

キリストのために苦しむことは単なる苦しみではなく、神様が主イエス・キリストのために苦しむことを祝福として特権としてあなたがたに与えてくださったのだとピリピの教会に話している。福音にふさわしく歩みなさいというパウロのことばを考えるとき、福音のために苦しまなければならないにしても、堅く立って最後まで耐え忍ぶ姿を、パウロ自身がピリピの教会に見せている。教会も一緒に心を一つにして福音のために戦いなさいと話している。それが福音にふさわしく生活することに含まれる。



ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(1:27)

この文章は「ただ一つ。」で最初の文章が終わって、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。と続くことを以前学んだ。パウロはただ一つのことを何よりも強調している。

実際に教会は迫害されたが妥協しなかった。福音のために妥協しないのは特に偶像礼拝の話になる。ローマ帝国がキリスト教を迫害し始めた時から、ローマ帝国の皇帝の像やローマの神々の偶像にお辞儀しなければ死刑になってしまう。これが当時はクリスチャンかどうかを判別する方法だった。もし妥協して偶像にお辞儀したら死刑を免れるが、妥協しないことがキリスト教の戦いである。AD64年からずっと皇帝コンスタンティンのときまで迫害が続き、325年にはっきりとすべての迫害が終わっている。300年近く教会は迫害されて、たくさんのクリスチャンが信仰のために苦しんで死ななければならなかった。福音にふさわしく歩むことは、十字架上で死んでくださったキリストにしたがって歩むことである。死刑になっても最後までキリストに従う。妥協しないで戦う。これがパウロが強調しているポイントの一つである。



あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。(2:2~3)

妥協しないで堅く立つことを強調していると同時に、パウロは心を一つにしてイエス様に従って歩みなさいと言う。

そして、虚栄心ではなく、へりくだって互いに相手を自分より大切だと思いなさいと言う。「自分よりすぐれた者と思いなさい」と訳されているが、自分より大切だと思いなさいという訳の方が良いと思う。

虚栄とか利己的な思いを考えるときに、ローマ帝国の中では自分のことを誇るのはかっこいいことだとされていた。お金持ちはよく宴会をやってお互いを招き合っていたので、パリサイ人たちはその影響を強く受けてしまった。

【ルカ14:13~14食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。

ところがパリサイ人たちは宴会に招かれると、一番上の席について、自分をかっこよく見せようとしていた。

【ルカ14:7~11】イエスは、客として招かれた人たちが上座を選んでいる様子に気がついて、彼らにたとえを話された。

「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。あなたより身分の高い人が招かれているかもしれません。

あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』と言うことになります。そのときあなたは恥をかいて、末席に着くことになります。

招かれたなら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのとき、ともに座っている皆の前で、あなたは誉れを得ることになります。

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

自分をかっこよく見せる虚栄は偽物の栄光であり、偽物の誇りである。しかしこれがローマ帝国では一般的なことだった。

ローマ帝国の中でへりくだることは見下されることだった。へりくだった者は奴隷のように見なされていた。つまりピリピ人への手紙を受けた人たちは、自分の周りの社会の基準とイエス様の基準がどんなに違うのかを思うのである。

周りの社会の歩み方や生活の仕方は福音に相反するものであった。だからパウロは教会に、周りの社会のような虚栄ではなく、へりくだった心をもって福音にふさわしく歩みなさいと言う。自分のことだけを考えるのではなく、へりくだって他の人のことも大切に考えて、他の人に仕えて、他の人を祝福しなさいと言う。

地域教会として心を一つにして、福音にふさわしく歩みなさい。福音の話は2:5~11まで続く。イエス様は私たちのことをご自分より大切だと思ってくださった。十字架上で死んだイエス様は自分の罪のためではなく、私たちの罪のために死んでくださった。へりくだってご自分を無にして十字架にかかってくださった。それが福音のそのものである。



福音にふさわしく歩む事はイエス様の模範に従うことである。永遠なる神様が人となってくださった。神様ご自身がへりくだりの模範である。これはパウロの周りの文化、エジプト、ローマ、メソポタミアの中にはない。大昔からへりくだった神には尊敬も恐れもなかった。

神は愛であるという概念は聖書以外にない。パウロは聖書の倫理であるモーセの十戒を指している。

私たちも礼拝で、心を尽くし思いを尽くして神を愛し、隣人を自分と同じように愛しなさいというイエス様のことばを唱えている。律法の教えはすべて愛でまとめることができる。なぜなら神が愛なる神であるからである。

愛には虚栄がないし、利己的な思いもない。自分より相手の方が大切だと思う。イエス様が私たちを愛して、十字架上で死んでくださって、へりくだって愛の心を見せてくださった。受肉前にはちがっていたということはない。永遠なる、御父、御子、御霊なる神はイエス様の受肉前からお互いの栄光を求め合っていた。御父は御子と御霊の栄光を求め、御子は御父と御霊の栄光求める。御霊は御父と御子の栄光を求める。三位一体なる神は愛なる神である。永遠から永遠までへりくだった心で交わりをもっている。

三位一体なる神がへりくだった心を持つ、永遠に生きる愛なる唯一絶対なる神である。この真理の基準が永遠の神ご自身にあることは非常に素晴らしく特別な教えである。私たちはこの神を礼拝し、神に似た者になるように積極的に求める。

私たちをご自分より大切だと思ってくださったイエス様を記念する聖餐を毎週いただいている。イエス様のからだであるパンとイエス様の血であるぶどう酒をいただくとき、イエス様のような者になるように心から祈り求める意味がある。主イエス・キリストのような思いをあなたたちも持ちなさい。これは私たちへのメッセージでもある。




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