top of page

「神に不平を言わず、疑わずに行いなさい」ピリピ2:14〜15

ラルフ・スミス牧師


「神に不平を言わず、疑わずに行いなさい」

ピリピ2:14〜15

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、

パウロはピリピ人への手紙で、これまでも旧約聖書を指して教えてきたが、今日の箇所も特にそうである。



⚫️不平を言わずに、疑わずに(2:14)

皆さんが気づいたかどうかわからないが、不平を言わず、疑わず、という言い方は荒野のイスラエルを指す言い方である。

荒野のイスラエルは不平を言うことで有名である。

「不平」を七十人訳で調べると、出エジプト記と民数記に何度も繰り返し出て来て強調されていることがわかる。イスラエルはエジプトから出た時に何回も不平を言っていた。パウロは間接的に荒野のイスラエルの罪を指している。

【第一コリント10:1〜10】兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。

そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

イスラエルはエジプトを出てから繰り返し不平を言っていた。神様がイスラエルを救い出して海の乾いたところを渡らせて、エジプトの軍を海に沈めてからまだ三日しかたっていないのに、水がないと不平を言い、神様やモーセに怒った。

もう少し時間がたつと、今度は食べ物がないと言いだし、自分たちを殺すためにエジプトから連れ出したのかと怒ってモーセとアロンに逆らい、不平を言うストーリーが続く。

民数記14章でイスラエルの民はモーセ、ヨシュア、カレブ、アロンを殺して、新しいリーダーを選んでエジプトに戻る決心をした。しかし結局この人たちは38年間荒野をさまよってその間にさばかれて死に、彼らが心配していた子どもたちが約束の地に入ることになった。

荒野の最初の世代は不平の世代である。



第一コリント人への手紙ではもっとはっきりと荒野のイスラエルのことを話しているが、それはパウロがコリントの教会の多くの罪を取り扱って叱っているからである。ピリピ人への手紙はそうでもない。ピリピの教会のことをパウロはとても喜んでいるのでしっかりした教会であったことがよくわかる。パウロがピリピ人への手紙を書いたのはAD60年頃である。迫害はそろそろ来る時代である。これからピリピの教会は戦いにぶつかっているし、試練に会う。

色々な試練にあうとき、自分はなぜこのような試練にあうのか、なぜ神様は自分にこのような試練を与えたのか、という不平や疑いが出て来る危険がある。コリントの教会はすでにそのような状態だったのだが、パウロはピリピの教会に少しだけ旧約のイスラエルを思い出させて、不平を言ったり、疑ったりしないように気をつけなさいと教えている。



⚫️あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり(2:15a)

これも旧約聖書の七十人訳で使われている言い方である。

「非難されるところのない」人物の一人はヨブである。ヨブ記の中でそのポイントが繰り返される。ヨブは非難されることのない者である。

【ヨブ1:1】この人(ヨブ)は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。

そしてもう一人はアブラハムである。

【創世記17:1】わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。あなたを大いに増やす。

この二人は旧約聖書の中で特に目立つ。荒野のイスラエルのように不平や不満を言わず、アブラハムやヨブのように非難されることのない生活を送りなさい、とパウロは言う。それが福音にふさわしい歩み方である。神様の命令を守ったアブラハム、神様の命令に従って歩んだヨブには非難されるところがない。



「純真な者」ということばはもっと珍しい。

【マタイ10:16】蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。

この中の「素直」ということばが「純真」ということばである。イエス様のことばを思い出して、このような者になりなさい、とパウロは教えている。



⚫️曲がった邪悪な世代のただ中にあって(2:15b)

また荒野のイスラエルのことを言う。

荒野のイスラエルのような邪悪な世代の中にいて、鳩のように純真で素直でありなさい。

ピリピの教会の状態を考えさせられる。

イエス様はAD30年頃、ご自分の時代についてこのように言われた。

【マタイ17:17】ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。

すべてのさばきはこの時代に来る。ピリピの時代の人々は荒野のイスラエルと同じように神に逆らって信仰がない世代である。イエス様を信じないで十字架にかけた悪い時代と似ている。このような悪い時代の中で、彼らと同じような歩み方をしないで正しく歩みなさいとパウロは言う。

ピリピ人への手紙はAD60年頃に書かれたが、この段落は「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。(1:27)」ということばから始まって、すべてこのことばにかかっている。アブラハムとヨブは福音にふさわしい生き方をした。この人たちのように歩んで、荒野でぶつぶつ言うような邪悪な世代になってはいけない。



傷のない神の子どもとなり、(2:15c)

旧約聖書の中で特に民数記とレビ記で繰り返したくさん使われていることばで、いけにえについての言い方である。いけにえをささげるとき、傷のない動物を神様にささげなければならない。

カインとアベルの話の中で、アベルは自分の羊の中で一番良いものを選んでその中の一番良い部分をささげたが、カインはただ自分が作ったものを神様にささげていた。いけにえに傷があってはいけない。

【マラキ1:8】あなたがたは 盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところに それを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。

イスラエルは足が悪かったり傷があるものを神様に献げていたので神様は叱る。地位の高い人にそのようなものをあげたら喜ばれるか。地位の高い人にベストなものをげるのに、神様には傷のあるものをいけにえとして献げるマラキの時代のことを思い出す。傷のないものは素晴らしい。それを神様にささげるべきである。

では人間について、傷のない人はだれなのかというと、ダビデである。しかしダビデは傷のないものと言えるのだろうか。ダビデは人を殺し、姦淫をした。だから神殿を建てようとしたが神様にとめられてしまった。

【第一歴代誌28:3】あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦いの人であり、人の血を流してきたからである。

傷がないどころかダビデは傷だらけである。

しかし神の目にはちがった。罪を悔い改めて洗いきよめられたダビデは、傷のない人間として神様に愛されて受け入れられた。「傷のない神の子どもとなる」のは、神の子どもらしく生活しなさいという意味になる。これは福音の話に戻る。主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けた者は、神の子どもになる。神の子とされた私たちが神の子らしく歩むのは、福音にふさわしく歩むことである。荒野のイスラエルのように不平を言わず、邪悪な世代の中で生きている者として、アブラハムやヨブのように非難されることのない生活をして、神の子どもらしく毎日の生活を送りなさいとパウロは言う。



荒野のイスラエルのストーリーを読む時、当時のイスラエルの最終的な結果として神様を信じないで、疑っていた世代だということはわかる。しかし荒野の中で大勢の人間とたくさんの動物たちに水がなければみんな死んでしまう。これは大問題であった。水の問題が解決されたあとで食べ物もなくなる。食べ物がなくても死ぬ。水も食べ物も小さな問題ではなかった。

私たちは荒野のイスラエルの結論を知っているからわかるのだが、当時の人は先のことはまだわかっていない。水や食べ物がなくて焦って「どうして?なぜ?」というイスラエルの人々を見下してはいけない。彼らのような水のない試練は、散歩に出かけたけど水筒を忘れた、というレベルではないのだ。大勢が水や食べ物に困るような状況にもぶつかっていない。そのような状況にぶつかったら、私たちは不平を言うか言わないか、神を疑うか疑わないか。



パウロはコリントの教会に荒野のイスラエルについて話して、このように言う。

【第一コリント10:11】これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

「世の終わりに臨んでいる」というのはAD70年のことである。AD70年に近づくといろいろな試練が来る。試練の中で歩まなければならない人たちは、荒野のイスラエルのことを思い出して、神様がどのように助けてくださったかを思い出して、疑わないで神様にゆだねて正しく歩むように、パウロはコリントの教会に警告している。

【第一コリント10:12】ですから、立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。

立っている、つまり大丈夫だと思っている。しかし大丈夫だと思わないで、パウロのコリントの教会への警告とピリピの教会に対する励ましを読んで、私たちも不平を言ったり疑ったりしないで、感謝と喜びの心をもって、毎日の生活を神の子どもらしく歩むように励ましている。

私たちも邪悪な世代にいるという言い方もできるかもしれないが、むしろ非常に恵まれている時代に生きているとも言える。歴史的に言えば今ほど豊かな時代はない。だから私たちは感謝にあふれるはずである。神様に感謝して喜んで神の子どもらしく歩みたいと思う。





閲覧数:3回

最新記事

すべて表示

「パウロとテモテの模範」ピリピ2:19〜24

説教者:ラルフ・スミス牧師 「パウロとテモテの模範」 ピリピ2:19〜24 私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。しかし、テモテが適任であること

「罪の告白」四旬節第一主日

説教者:ベンゼデク・スミス牧師 「罪の告白」 先週の水曜日は灰の水曜日でした。この日から四旬節が始まります。 私たちの会堂で聖オーガスティン教会が灰の水曜日の礼拝を行い、司祭が礼拝者の額に灰で十字架を書いて「あなたは灰であり、灰に戻ることを覚えていなさい」と宣言しました。自分が偉大なる神の前でどれだけ小さい者なのか、弱い者なのかを覚えるために、そして自分の罪と自分が死ぬことを覚えるために行われます

bottom of page