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「次世代へのみことば」ヨシュア記24:1〜3、14〜25、詩篇78:1〜7

ベンゼデク・スミス牧師


「次世代へのみことば」

ヨシュア記24:1〜3、14〜25

ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、

ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、主はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。

わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。…

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。

主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

民は答えた。「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。

私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。

主はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」

ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。

あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」

民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」

ヨシュアは民に言った。「主を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。」彼らは「私たちが証人です」と言った。

「今、あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」

民はヨシュアに言った。「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

ヨシュアはその日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置いた。



詩篇78:1〜7

私の民よ私の教えを耳に入れ私の口のことばに耳を傾けよ。

私は口を開いてたとえ話を昔からの謎を語ろう。

それは私たちが聞いて知っていること。私たちの先祖が語ってくれたこと。

それを私たちは息子たちに隠さず後の時代に語り告げよう。主の誉れを主が行われた力ある奇しいみわざを。

主はヤコブのうちにさとしを置きイスラエルのうちにみおしえを定め私たちの先祖に命じてその子らに教えるようにされた。

後の世代の者生まれてくる子らがこれを知りさらに彼らがその子らにまた語り告げるため

彼らが神に信頼し神のみわざを忘れずその命令を守るために。



前回はモーセが死ぬ前のことばを見ました。

今日はヨシュア記でヨシュアが死ぬ前のことばを朗読で聞きました。

ヨシュアは自分が死ぬ前に民に心の準備をさせるためにイスラエルのすべてのリーダーたちをシェケムに集めました。

そこでヨシュアが彼らに言いたかったただ一つのことは、まことの神について行くのか、偽りの神々について行くのか決断してください、ということでした。

ヨシュアは、自分が死んだあとでイスラエルが偶像礼拝に戻ることを心配していました。ある意味で当然の心配です。アブラハムの父は偶像を礼拝する者でしたし、イスラエルはエジプトでも荒野でも偶像礼拝をして、カナンの地でも偶像礼拝をするアモリ人に囲まれて共に住んでいます。もちろんイスラエルの周りの帝国や力強い帝国、例えば川の向こうにあるシリアやアッシリアも偶像礼拝をしていました。これまでも何度も何度も失敗してきたイスラエルがこのような誘惑に囲まれて、どうすれば神に忠実に生きることができるのでしょうか。

イスラエルが一度は神について行くと決めたのに堕落したら、のろいはもっと重くなります。神に仕えること、神の民となること、

神の家であることは、神のきよさにより近くなることです。イスラエルはカナンを聖別しています。カナンの町を燃やして全焼のいけにえとして神にささげている土地なのです。この土地が神の神殿が置かれる場所となり、新しいエデンの園となるためでした。しかし、神が近く、神の神殿がそこにあるのは危険なことでもあります。ヨシュアはその危険をよく知っています。



【ヨシュア24:19〜20】ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。

あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」

このように、神に一度ついて行ってそこから偶像礼拝に戻るのは危険です。神が聖であるのでイスラエルも聖でなければなりません。シナイ山でイスラエルが見たように、神は燃える火です。モーセが見た柴を燃やす火も神です。神に近づくということは自分も燃やされるかもしれません。神の内にいるなら神はその口から吐き出すかもしれません。エデンにいるならエデンから追い出されるかもしれません。神はねたむ神だからです。神と富の両方に仕えることは赦さないのです。ヨシュアも自分の目でナダブとアビフが神の火に燃やされたのを見ています。金の子牛を礼拝したイスラエルの民三千人がレビ人に殺されるのも見ています。ピネハスがイスラエルの男性とミデヤン人の女性をやりで刺し殺し、その後二万四千人が疫病で死んだのも見ています。そしてもちろんヨシュアはアカンとその家族が石打ちにされて燃やされたことを見ているし、見ているどころか燃やすことを命じたのもヨシュアでした。だからヨシュアは彼らに警告を与えます。軽い気持ちで神について行こうとするな。



ヨシュアは彼らに警告すると同時に勇敢な模範も示しました。選択肢も与えながら、これを選ぶべきだと教えました。そしてヨシュア自身もそれを選びました。

【ヨシュア24:14~15】今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。」

ある意味で危ない選択肢をヨシュアは勇敢に選びました。ヨシュアはモーセの模範に従っています。モーセはヨシュアの教師なのです。

【申命記30:15、19~20】見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。…

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる。

モーセは選択肢を示しますが、どちらを選んでも良いと言っているわけではありません。いのちを選びなさいと言っています。そして「あなたとあなたの子孫」はつまり「私と私の家」なのです。

このことばを語って、モーセは百二十歳で死にました。

ヨシュアはさきほどのことばを語って百十歳で死にました。どちらも素晴らしい偉大なリーダーで、彼らが残した世代は忠実だったのです。モーセが残したヨシュアの世代とヨシュアが残したリーダーたちもこの契約を守りました。

【ヨシュア24:31】ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは主に仕えた。

ヨシュア記はハッピーエンドで終わります。



その後イスラエル全体をまとめるリーダーはいませんでした。どの部族もどの地域も自分たちで自分たちを支配するようになります。士師記の終わりにこのように書いてあります。

【士師記21:25】そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

これがある意味でイスラエルの暗黒時代です。イスラエルはアドベントのような季節に入っていました。暗黒の中で王が来るのを待っていたのです。ダビデが来るのを待っていました。

私たちもあと三週間でアドベントに入ります。私たちの王ダビデの子が来るのを待っています。いろいろな面で私たちの教会はヨシュア24章のイスラエルの状態に似ています。私たちもカナンのような偶像に満ちた地を侵略しようとしています。この日本をきよめて、この地が神の神殿となるように、エデンの園となるように働いています。神がここで人とともに住むことを望んでいます。そして私たちの多くは次世代です。次世代が社会の中に出て行って、偶像に囲まれます。幼稚園、小学校、中学校、高校、場合によっては大学に行きます。今度は会社で働きます。家に戻った時に、エンターテイメントを吸収し、映画を見たり、音楽を聴いたり、マンがを読みます。私たちは偶像に囲まれて、誘惑に囲まれています。彼らの生活を見て彼氏と彼女は一緒に寝ます。金銭的な成功を求めます。お金が手に入ったら自分のために使います。一生懸命勉強して、一生懸命働くのは旅行に行くため、あるいは自分の楽しみのため、人に良く見られるためです。

クリスチャンとして育った子は、なぜ自分がルールで縛られ、制限された生活に耐えなければならないのかと思うかもしれません。なぜ自分の周りの自由人のようにやりたいことができないのか、お金と時間を自分の好きなように使うことができないのかと思うかもしれません。偶像礼拝する人たちは死のことを考える必要はないし、罪を意識したり告白する必要はありません。彼らは確かにあまり永遠のことを考えないし、あまり善と悪のことを考えないし、天国を意識しないで生きています。まるで天国が存在せず、この地上しかないかのようにずっと下を向いたまま生きています。



それでは、偶像礼拝者は私たちが惹かれるほど本当に幸せなのでしょうか。そんなに自由なのでしょうか。そうでないはずなのに私たちは簡単に流れに流されます。それで私たちもすぐ周りにある偶像を礼拝し始めます。お金だったり不品行だったり心地よさだったり成功だったりステータスだったりします。でも神様はねたむ神なので、私たちは神と富に同時に仕えることはできません。

もう一つの偶像もあります。お金や性的なことは良いものだから偶像になり得るのです。家族も教会も良いものなので偶像になり得ます。マイホーム主義という言葉がありますが、自分の家庭を神にささげることをしないで、自分の家族の幸せを手放さない生き方のことです。神がイサクをささげなさいと言ったとき、いやですと答えるようなものです。

マイチャーチ主義という言葉を聞いたことがあるでしょうか。ないかもしれませんが、どんな主義か想像できます。自分の教会にも教会の伝統にも間違った愛着を持つことです。自分の教会が一番良い教会ならあまり変わる必要はないはずだと思っています。一番良い教会なら次の世代も前の世代と基本的に同じことをしなければいけないのです。

ヨシュアが言ったことを思い出すと、イスラエルの先祖たちは偶像礼拝をしていました。イスラエルは長い偶像礼拝の伝統があります。だから彼らはその間違った伝統を捨てて、良い伝統を保たなければいけません。

モーセが言った「アブラハム、イサク、ヤコブの神」を信じなければなりません。

だから私たちはただ保守的であれば良いというわけではありません。これにも危険性があります。私たちが忠実に生きているなら成長するはずです。



私は今、若い人に話していますが、同時に自分を霊的に導いてくれた存在がいるなら、あなたにも話しています。つまりすべての人に話しています。

私たちの信者である親や私たちの教師たちが信仰を与えるのは、ある意味で箱を与えるようなものです。それがどういう意味なのかを親子関係を使って説明します。この箱は親からもらったときは小さい箱です。子どもの心と頭に合っています。その箱の中にいれば守られて、世界を形作ってくれます。しかし自分が親から受けた箱は必ず親より小さくなります。例えば動物の象を見たとします。その人にとって象の大きさは印象的で具体的でした。今度はその人がことばで象の大きさを説明しようとしますが、実際に見ずに言葉だけで説明を受けるとその説明を受けた人の象の印象は漠然としていて小さいものになります。このように、自分の知っているものを他の人に伝えると必ず小さくなるのです。だから私たちがこの小さい箱を受けたとき、人生が進んでも箱が小さいままだと新しい問いや経験や状況にぶつかり、昔もらった答えがもう当てはまらなくなります。古い答えは新しい問いのためには足りないのですい。それで小さいままの箱を疑い始めます。これでは物足りない。これでは世界を理解することができない。これでは生きることができない。それで、もしかしたらその箱を捨ててしまうかもしれません。信仰から離れることになるかもしれません。あるいは箱が小さくて大きくならないから、自分が大きくならないように自分の成長を止めてしまうかもしれません。信仰を失うことが恐ろしかったり、答えられないものが出て来るのが怖くて、道からそれたらどうしようと思って、成長しないで新しい問いに面と向かわないように自分を止めるかもしれません。

子どもの箱を持ったまま、それを自分の子どもに与えようとすると、更に小さい箱になります。つまり自分が自分の親について行くと、自分の子どもには「あなたのおじいちゃんとおばあちゃんの信仰を持ちなさい」と言っていることになるのです。彼らを信じなさいということになります。しかしあなたが受けた信仰の箱を自分のものにするなら、自分と一緒に大きくなるはずなのです。自分の頭と経験と自分の世界と一緒に自分の信仰が大きくなっていくはずです。

神様は私たちのすべての箱より、私たちの信仰より、キリスト教以上に大きいお方です。本当の信仰、続く信仰を持つためには、私たちは神ご自身を知らなけれなりません。いつまでも、お父さんが言ったからとか、スミスさんが言ったから、では足りないのです。自分で神様を求めなければいけません。

【詩篇27:8】「わたしの顔を慕い求めよ」

【箴言8:17】わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。

神様を求めるなら必ず見つけます。信仰を受け継いでいる私たちは、神を信じて神に仕えなければなりません。信仰の対象は親ではないし、親もそんなことを求めてはいません。自分が持っている親の神の概念に従うのではないのです。それでは小さ過ぎるからです。そのうち偶像になってしまいます。だから自分の家のために決断しなければなりません。私と私の家は主に仕える。じつはこれが一番の親孝行です。

すべての世代は自分の家のためにこの決断をあらたにしなければなりません。信仰の継承は簡単なものではありません。モーセもヨシュアもそれを理解していたので、気を付けて意識的にこの継承を行ったのです。何をしたかというと、一つは次のリーダーを任命して訓練したことです。そしてもう一つは、次の世代に神の栄光に満ちたみわざを教えたことです。

【詩篇78:4】それを私たちは息子たちに隠さず後の時代に語り告げよう。主の誉れを主が行われた力ある奇しいみわざを。

詩篇78篇は、親や牧師の役割を教えています。これがクリスチャンホームの目的で存在意義なのです。子どたちが聞くとは限りませんが、それでも親には伝える責任があります。神のみわざを伝え、偶像礼拝に走らないように忠告を与えます。



どのようにするのでしょうか。モーセは本を残しました。モーセの五書です。ヨシュアも民数記と申命記の終わりの方を自分が書いたか人に書かせました。ヨシュア記もほとんどを何らかの形で担当したと思います。いつまでも神がその民のために何をしたか忘れることがないためです。

今日の朗読で、ヨシュア記24:4~13までとばしましたが、その内容はヨシュアがエジプトからどうやって連れ出されたか、荒野でどのように導かれたのか、カナンでどのように助けられたのか、神のみわざを長々と伝えてそのストーリーを語っている部分でした。私たちが持っているバージョンは圧縮版です。ヨシュアはもっと詳しく教えたはずです。神のみわざを教えることがクリスチャン教育の中心です。なぜ科学が大切なのかというと、神がご自分の創造した世界をどのように動かしているかを知るためです。なぜ歴史が大切なのかというと、神がどのように人類を導いたかを知るためです。音楽がなぜ大切なのかというと、神の栄光と神のみわざを語って神を賛美するからです。芸術がなぜ大切なのかというと、神の行いを描いて、特に教会の中の芸術は神のみわざを描くからです。いつか皆さんに話したように私はこの教会の中に15個の十字架を見つけました。この十字架全ては私たちが神の栄光を忘れないためです。御父は愛する御子をこの世に遣わして、御子は私たちがいつまでも神とともに生きることが出来るようにご自身をささげました。だから私たちにはクリスマス、イースター、ペンテコステ、聖書日課があるのです。私たちが常に神のみわざを思い出すためです。



この教会の牧師も長老も信仰の継承は大切だと考えています。来年1月の最初の3~4週間で継承に関する話を日曜日の午後にやる計画をしています。おもにラルフ・スミス牧師とぼく(ベン・ゼデク牧師)が話します。

いろいろな意味で私たちは世代交代を経験しています。その話の中で、どのように神様がこの教会を導いて守って祝福してくださったのかを思い出したいのです。神の奇しいわざを思い出したいのです。そして私たちがどのように忠実に神に仕えることができるのか、それも一緒に考えていきたいと思っています。インタラクション(一方的ではなく双方向のやり取り)の時間もたっぷり取る予定です。その目的はこの三鷹福音教会がいつまでも神の御国の一部分になるためです。福音はなくなることはありませんし、神の教会も永遠に残ります。その中に三鷹福音教会が残ることを望んでいます。ヨシュアとモーセが語りかけていたイスラエルは割礼を受けた契約の民でした。それでもモーセとヨシュアは選択肢の話をしました。神についていくのか偶像についていくのか。じつは私たちにはいつでもその選択肢があります。毎週私たちはその選択をしています。聖餐式を受けるたびに、私たちは繰り返し主を選びます。奇しいみわざ、栄光あるキリストの十字架の働きを覚えて、私たちは語ります。

「私と私の家は主に仕える。」





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