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「竜と女の子孫」黙示録12:1〜6

説教者:ラルフ・スミス牧師


黙示録12:1〜6

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。

女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。

また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。


この箇所全体を見ることはできないが、今日は、この黙示録の箇所を三つの観点から考えてみようと思う。

一つ目は黙示録の観点から。二つ目は聖書全体の流れから。最後に教会の歴史の観点からこの箇所を一緒に考えたい。


⚫️黙示録の観点から

竜はサタン、子はイエス様であるのはわかりやすいが、女はわかりにくい面があるし、女と竜の関係もわかりにくい。

黙示録の中でヨハネが幻を見て象徴として話しているので、簡単に歴史的なことだけを話しているのではない。この女はある意味でマリアである。マリアはイエスの母だから。しかしマリアだけを指しているのではない。この話は創世記3章に基づいている。

ヘブル語で蛇と竜は同じ言葉である。竜である蛇がエバをだましたので、アダムとエバは神に罪を犯してしまった。神が現れて、サタンに対するさばき、アダムに対するさばき、エバに対するさばきを宣言するが、蛇に対するさばきの中でアダムとエバと人類全体への約束が含まれていた。

【創世記3:15】わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はお前の頭を打ち、お前は彼のかかとを打つ。

女の子孫は蛇に対して勝利を得るので、この黙示録に出て来る女は、エバからマリアまでの女性を象徴として表している。つまりメシアを産む女性たちが象徴されているのである。

エバはメシアを産む。サラもメシアを産む。

ラハブはヨシュア記の中に出てくる遊女で、ルツはルツ記に出て来るモアブの女性だが、マタイ1章のメシアの系図に含まれている。彼女たちもユダヤ人の女性たちとともにメシアの母に含まれている。

蛇に攻撃される女性たちはメシアを産む女性たちである。蛇がその母親たちを攻撃する目的はその子である。蛇はその子を殺そうとする。

この竜は3節で「大きな赤い竜」と呼ばれているが、10節で「私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者」と呼ばれている。竜の教会に対する戦いは法的な戦いでもある。ヨブ記の中では、サタンがヨブについて神に訴えている。神の御前で昼も夜も聖徒たちを訴えるのはサタンである。

黙示録の中で悪魔、サタン、蛇の名前が出て来るが、すべてサタンの働きをちがう観点から見せている。創世記3:15の約束の時からメシアが産まれないように働いている。黙示録は象徴の中でそれを表している。

創世記3章で蛇の話が出て来るが、その後ヨブ記までは出てこない。しかし黙示録の観点で旧約聖書のストーリーを読むと、すべて蛇の働きであることがわかる。


●聖書全体の流れから

人類の中で一番最初に生まれた息子はカインである。カインはサタンの誘惑に負けて自分の兄弟アベルを殺した。それはアダムとエバの次に書かれた罪の話だが、その時から暴力が世界中に広まった。蛇が勝利したように見える。


カインがアベルを殺した後、神様はアダムとエバにセツという息子を与えてくださった。セツの子どもたちは神を礼拝する者だったが、時間が経つにつれてセツの子孫はカインの子孫の女性たちと結婚して信仰から離れてしまった。世界は暴力に満ちて、神を恐れる者はノアとその家族しか残らなかった。それで神様はすべてをさばいて、ノアとその家族に人類の歴史を戻したかのようになった(創世記6章)。この時点で蛇の勝利に見える。神様を礼拝する者はノアとその家族だけしかいなくなった。


洪水の後で人類が増えるとバベルの塔の事件が起きた。また人類全体が神に逆らっているかのようだった。偶像礼拝をして神に逆らうための塔を建てたので、神は人類をさばかなければならなかった。この時も蛇の勝利に見える。


バベルの塔の事件のあと、女の子孫はどこに行ってしまったのか。神様はアブラハムを選んで、アブラハムとサラに子どもを与えてくださることを契約として約束する。しかしいつまで待っても生まれない。サラもアブラハムも歳をとって、子どもを産むのが不可能になった時にイサクが与えられた。

来年の今頃、子どもが与えられると約束があったとき、サラは笑ってしまった。「イサク」は「笑う」という意味である。毎朝イサクを起こす時に「笑う」という名前を呼ぶ。神の約束を喜んで笑いながらイサクを起こすだろうし、自分たちが神の約束を疑って笑ってしまったことも思い出すだろう。

神様には何でも可能である。


イサクにもなかなか子どもが与えられなかった。やっと与えられたら双子だった。ヤコブは約束の子で、エサウは蛇の子のように見えた。ヤコブには最終的に十二人の息子たちが与えられたが、そのうちの末のベニヤミンが産まれる前は、ヨセフだけが女の子孫に見えて、残りの十人の息子たちは姦淫を犯し、兄弟殺しを計画した。アベルが良い子だったのでカインに殺されたのと同じように、ヨセフが良い子だったのでこの十人の兄弟はヨセフを殺そうと計画した。神の摂理によってヨセフは死ぬような経験をしたが生き残ってエジプトに売られて奴隷になった。ストーリーが進むにつれて、最終的にヨセフは王座にすわって、蛇の子孫になってしまったかのような十人の兄弟たちが悔い改めるように導いて、創世記の終わりに女の子孫の民が産まれることになった。蛇が神の計画に逆らってだめにしようとしたが、神様が導いてくださって勝利する。創世記の終わりにヨセフがエジプトの王座にすわって、神の御国が必ず来るという約束を思い出すような終わり方になっている。


ヤコブの息子たちとその家族はヨセフに呼ばれてエジプトに行き、最も良い地に住まわせてもらって、人数において増えて、大変祝福された。それが創世記の終わりだったので、出エジプトの始まりに驚く。イスラエルの民は奴隷になって苦しめられていたからだ。しかしあとの契約のところを読んだり、ヨシュア記24章を読んだりすると、エジプトに下ったイスラエルは、エジプトの影響を受けて偶像礼拝をしていたので神様にさばかれて奴隷にされたことがわかる。

ヨセフを知らないパロがエジプトの王になったときに、イスラエルの数が増えていくことを恐れていじめ始めた。パロはサタンのしもべのようにすべてのイスラエルの子どもを殺そうとした。イスラエルの助産婦たちに、妊婦が男の子を産んだら殺せと命じたのである。男性がいなくなれば、女性はエジプト人と結婚したりしてイスラエルは滅びる。蛇が子どもを待っていて、子どもが生まれたらすぐに殺すという黙示録の幻を、出エジプトの実際の歴史の中に見ている。


イスラエルは神の恵みによって救われて、偶像礼拝と妥協したり、色々な罪を犯したりしながらやっと四十年の旅が終わった。士師記にはイスラエルが主を捨てたので主が怒って敵の手に渡すストーリーが繰り返される。しかし彼らが悔い改めて神に祈ると、神はいつもさばきつかさを送って救い出してくださった。繰り返し罪を犯して神様から離れて、神様に懲らしめられるストーリーは第一サムエル4章で一つの結論を迎える。神の神殿がさばかれて、契約の箱がペリシテ人に奪われて、大祭司エリも死んで神殿制度がだめになった。モーセからアフェクのたたかいまで、400~500年ほどの歴史の期間が終わった。これもある意味で蛇の勝利に終わったように見える。


蛇は神の民イスラエルを続けて攻撃して誘惑してだめにしようとする。ダビデがは約束の子であるとサウルが知っていて殺そうとする。ソロモンの次の時代に、イスラエルは北イスラエルと南ユダに分かれた。ソロモンはセツの子孫のように他国の女性に心を奪われて偶像を礼拝してしまった。北イスラエルには良い王は一人もいなかった。南ユダには良い王も悪い王もいて、悔い改める場面もある。

南ユダの歴史を見るときに一つ目立つのは、良い王の名前を言って母の名前を言い、悪い王の名前を言って母の名前を言うことである。子どもを悪魔から守ったのは母たちであるという印象を受ける。女の子孫は蛇の子孫と戦って勝つ。


メシアが産まれる時代に近づくと、ヘロデ王が2歳以下の男の子たちをすべて殺すように命令した。蛇が子どもが生まれるのを待って食べようとする歴史はイエス様のストーリーの中にも出てくる。

イエス様は大きくなってことばで悪魔とたたかって勝利を得るが、イエス様の勝利は勝利に見えない。イエス様の勝利は十字架である。これこそ負けに見える。しかしこれはイエス様の勝利である。

イエス様が十字架上で死んでくださったとき、昼も夜も神の民を訴えていた者が訴えることができるなくなってしまった。神の小羊であるイエス様が私たちの罪の罰を代わりに受けてくださったから。悪魔が私たちを訴えることができなくなった。

【ローマ8:34】だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

悪魔は私たちを訴えることはできない。私たちは罪人であるが、イエス様が十字架上で死んでよみがえってくださったことにより、死に対して、罪に対して、勝利を得て、神の右の座にすわって私たちの大祭司としてとりなしていてくださる。だから私たちを訴える者はいない。黙示録の12章は神の子羊がサタンに勝利したような言い方をする。女から生まれてすぐ天に上げられる。十字架ということばはないが、小羊の血によって神の民は勝利を得る。


●教会の歴史の観点から

教会が代々成長して実を結ぶ歴史はほとんどない。それは非常に悲しいし、そうであってはならないと思う。黙示録の七つの教会の最初はエペソの教会である。エペソはパウロが52年~55年まで3年間働いた場所である。他の教会もエペソに近いのでパウロが旅をしたのか、エペソの教会で救われて自分の町に戻って教会を始めたのか、あるいはパウロと一緒に働いていたテモテが訪ねて行って教えて教会が始まったのか分からないが、周りにいくつかの教会ができていた。エペソの教会はパウロが設立して、たくさんの奇跡を行った教会なのだが、黙示録でエペソの教会は叱られている。

【黙示録2:4~5】けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。

黙示録は64年に書かれた。エペソの教会は12年くらいしか歴史がないときに、すでに最初の愛から離れたとイエス様に言われている。彼らが戻らなければ地域教会として成り立たないと言われた。


スミルナの教会は苦しめらても神に忠実で、続けて実を結ぶ教会であった。


ベルガモとティアティラの教会は、偶像礼拝と妥協したり、教理において妥協したり、不品行の問題もあった。この二つの教会は厳しく叱られる。


サルディスの教会は妥協していて、生きているが死んでいると言われている。


フィラデルフィアの教会は神に仕えて実を結ぶ良い教会である。


ラオディキアは傲慢で、自分たちは栄えていて、自分たちは素晴らしいと誇っている教会だった。

【黙示録3:15~16】わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。


これらの教会は、10年から12年しかない教会である。七つの教会の中で二つだけは健康である。黙示録を読むとき、このことが警告となる。神の教会は神から早く離れてしまう危険性がある。自分が立っていると思う者は倒れないように気をつけなさいということばがある。

アメリカの歴史で非常に悲しい話がある。1628年にピューリタンたちがボストン大学を作った。1636年にジョン・ハーバードがハーバード大学を作った。どちらも牧師を訓練して優れた牧師が教会に与えられるためである。

しかし1700年にこれらの大学は啓蒙運動と妥協して三位一体を否定した。

イエール大学も啓蒙運動と妥協してだめになった。プリンストン大学にもみことばを教えて良い牧師を育てる目的があったが啓蒙運動と妥協した。

啓蒙運動との妥協とは具体的には教理の妥協である。つまり認識論の究極的な基準は、みことばか人間の理性か、どこにあるかという戦いである。その戦いが教会の歴史の中にあった。アメリカの教会はすぐにみことばから離れてしまった。私たちは地域教会として黙示録の竜との戦いを見る時に、子どもたちをキリストにあって育てる働きがどんなに大きくて大切なのかがわかるし、どんなに大変かもわかる。ボストンのクリスチャンたちはじつに敬虔で真剣なクリスチャンだった。しかし代々成長せずに次第にみことばから離れてしまった。その歴史を覚えて、私たちは本当にへりくだった心をもって、自分の教会だけを誇りに思うのではなくて、神を恐れて、神のみことばを中心として、子どもたちが正しく歩むように導く大きな使命が与えられている。その戦いは私たちの教会の未来を決める。父たち、母たちが子どもたちを正しく導いて、代々成長していく地域教会を築き上げるために、みことば中心でないと成り立たない。

子どもたちは親と一緒に聖餐をいただく。子どもたちがイエス様のところに行くと、弟子たちがやめなさいと言う。しかし私たちは毎週集まって、子どもたちはイエス様に近づき、イエス様を意味するパンを一緒にいただく。子どもたちが小さい時から主イエス・キリストを求め、従い、神の御国のために代々成長するように祈り求めるべき教会だと思う。




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