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「待降節第二主日」第二ペテロ3:8〜15

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


今日は待降節第二主日です。待降節とはイエスが来るのを待つ季節です。

この部屋の後ろの、桜通りに面した窓辺に、キリストの降誕場面を表す置物が置かれていますが、足りないものが一つあります。それは赤ちゃんのイエスです。今はイエスの誕生を待っている季節なので、クリスマスまでは置かないという習慣があります。待降節は待ち望む季節です。聖書の中に花婿が来るのを花嫁が待つというたとえ話があるように、ある意味で歴史はすべてイエスが来るのを待っています。なぜなら創世記3:15から女の子孫が約束されているからです。人間が最初に罪を犯して堕落して呪われた時からずっと、この女の子孫による救いを私たちは待っていました。アブラハムは息子が産まれるのを待っていて、モーセは約束の地に入るのを待っていて、ダビデは神殿を建てるのを待っていて、ダニエルは捕囚からイスラエルが戻ることを待っていて、みんな究極的には世のさばき主であり救い主であるイエス・キリストを待っていました。

イエスは一度来ました。しかし私たちはまだ待っています。なぜなら世はまだ完全に救われていないからです。それは周りを見れば明らかです。戦争、テロ、独裁、耳にするのは不正の話だらけです。そして私たちは虚しさや孤独に囲まれています。神様はどこにいるのでしょうか。神様が全能で良いお方なら、なぜ世の中がこのような状態になっているのでしょうか。このような質問があるのは理解できます。

信仰のない人たちがこの世を見た時、神様が見捨てているように見えてしまいます。神様は戻ってこないだろう、いつまでもこのままの状態が続くだろう、と思うのです。


しかしペテロはそのことを手紙でこのように言います。

第二ペテロ3章を見てください。


愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。

それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。(第二ペテロ3:1~2)

私たちはマルコの福音書でもバプテスマのヨハネについての話を読んだばかりです。

【マルコ1:1〜8】神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。

預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、

バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」


まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(第二ペテロ3:3~4)

あざける者たちは、神様はいつ来るのか、いつさばきが来るのか、世の初めから何も変わらないではないか、と言っています。さばきがないとすれば不誠実で強引な人が得をして、へりくだって誠実に生きる人が損をするはずです。だから悪者は悪い生活をして快楽を求めて生きて、美味しい物を食べて、良い服を買って、良い家に住んで、弱者を抑圧します。この世しかなければそれしかないのです。イエスのたとえ話を思い出します。

【マタイ24:48〜49】しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしている…

でも本当に神様はこの世をさばかないのでしょうか。いつまでこの状態が続くのでしょうか。

このたとえ話はこのように続きます。

【マタイ24:50~51】そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

イエスがこのたとえ話をしたとき、ペテロはその場にいました。だからこのような教えを思い出してペテロが説明しているのではないかと思います。


こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。

しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(第二ペテロ3:5~7)

ノアの大洪水は歴史の最初の頃に起きました。それは私たちに警告を与えるためでもあったのです。神様はじつにこの世をさばくお方です。それを忘れてはいけないのです。

神様は一回目は水でこの世をきよめましたが、二回目は天と地を火をもってきよめます。


しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(第二ペテロ3:8~9)

なぜこれだけ時間がかかっているのでしょうか。なぜ神様のさばきがまだ来ないのでしょうか。もう悪は十分ではないでしょうか。じつは神様の時間の感覚は私たちとはまったく違います。だから私たちも忍耐をもち、焦ってはいけません。神様が遅れているように見えるのは私たちの救いのためです。神様はアダムに、その木から取って食べたら(その日に)必ず死ぬ、と言いました。日本語の訳には「その日に」とは書いていないのですが、へブル語には書かれています。つまり、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べたその日に死ぬはずだったのです。しかしその日には死にませんでした。代わりに動物が死んで、アダムとエバは楽園から追い出されました。そして彼らはそのまま生き続けて、今日まで人類も残りました。なぜなら女の子孫が救うという約束を与えたからです。神様は私たちが滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでいます。私たちの主の忍耐は救いです。神様が忍耐のないさばき主で、アダムとエバがその日にさばかれたなら私たちは生まれてもいません。

神様は私たちに何千年もの時間を与えてきました。これは悔い改める時間で、さばきのために備える時間なのです。そのさばきがいつ来るのかだれもわかりません。だから常に目を覚ましている必要があるのです。


しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(第二ペテロ3:10)

ペテロは究極的には最後のさばきについて話していますが、その前のさばきにも適用できます。AD70年に神殿が崩壊したときは、古い世界が滅びた一つの大きなさばきでした。歴史にはじつはたくさんさばきがあります。戦争も疫病もさばきです。私たちが自分勝手な道を求めて進んで行こうとするなら、そのままにするのも神様のさばきです。

個人にとっての最終的なさばきは死です。自分がいつ死ぬのかはだれにも分かりません。最近二つの葬儀と火葬がありました。ある意味でクリスチャンとしては火葬はしたくはありません。土葬して土に埋めていつか復活することを待つのが理想です。しかし、ある意味で火葬も私たちのこれからのことを表しています。神様の前には必ず火があり、私たちはいつかその前に立ちます。神の火は私たちのすべての罪や肉の思い、虚しいもの、永遠でないものをすべて焼き尽くします。私たちの木でできた人生、わらでできた人生をすべて焼き尽くします。そして場合によっては何も残らないかもしれません。場合によっては金(きん)が残るかもしれません。機会があれば是非お葬式に出てください。亡くなった方に尊敬をはらう意味もあるし、遺族を慰める意味もあります。自分のたましいのためにも大切なことです。自分がよりよく生きて、よりよく死ぬことができるためです。

私たちの人生にはたくさんのさばきの瞬間があります。でもこのすべてが最後のさばきのパターンにそっています。この最後のさばきは突然きます。そして天地万物を含むものになります。地だけではなくて天も焼かれます。私たちの行いすべてが明らかになります。すべてが知られてさばかれます。ペテロがこのように私たちに天地万物の物語を語るのは、私たちがこれを知って覚えるためです。私たちがさばきがないかのように生きることがないように。言い訳はできません。いつまでもこの世界が続くと思って生きるべきではありません。私たちの問題は、この世界がこのまま続くとは思っていないのに、まるでこのまま続くと思っているかのように生きることです。

でも本当にさばきは来ます。この天地万物の物語を知っている者としてどのように生きるべきかをペテロは教えてくれます。


このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。(第二ペテロ3:11~12a)

私たちはそのさばきと救いのために、きよい、敬虔な生き方をしなければなりません。神のために燃えていないといけないのです。

今の人生を考えて、最善の生き方をしていますか。家族、学校、キャリアを見た時、神のきよさを求めて生きていますか。

ペテロは私たちに二つのことをしなければならないと言います。

一つは、神の日がくるのを待ち望むことです。

もう一つは、その到来を早めることです。どのように早めることができるのでしょうか。イエスは世をさばくため、つまり呪うためではなく、救うために来るのです。ということは私たちの備えができるまでは戻ってこないということです。

イエスに早く戻って来てほしいですか。もちろんです。

【黙示録22:20b】主イエスよ、来てください。

その時を早めるなら、まず自分をきよめ、この世をきよめるために働かなければだめなのです。花嫁の準備ができるまで花婿は結婚しないのです。

それで私たちは自分をきよめるために自分の罪を神に告白し、お互いにも告白する必要があります。私たちの礼拝では罪の告白のときに黙祷しますが、聖書には黙って罪の告白をしなさいとは書いてありません。だから兄弟に罪を犯したならその兄弟のところに行って罪を告白する必要があります。神様に罪を犯したならそれを牧師に告白する必要があるのです。自分が犯した罪を語った時も一つのさばきです。ですから私たちは毎週日曜日の礼拝で神の御前で罪を告白する時にこれも小さなさばきの瞬間なのです。そして最後のさばきで私たちの罪が暴露されます。その結果神の赦しがあり、めぐみが勝利します。これが最後のさばきのパターンで、これが毎週の礼拝で行われています。


ですから、愛する者たち、これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。(第二ペテロ3:14)

教会がきよくなって、しみも傷もなく平安な状態になると、最後の日が来ます。天も地も焼かれます。新しい天と新しい地になるためです。新しくなるのは一つになるからです。神様は初めに天と地を創造しました。神様が二つのものを別々に作ったとき、いつか一つになるためにそのように造ったのです。男女の区別もそれと同じで一つとなるためなのです。


毎週の日曜日の罪の告白は小さなさばきと言いましたが、聖餐式はもう一つのさばきです。

キリストの十字架の死はこの世の大きな偉大なさばきです。この日に神様は神の怒りの杯を注ぎ出し、イエスがそれを飲み尽くしました。私たちもパンを食べて杯を飲むときに神のさばきを招いています。神様に「キリストの義を見て私をさばいて義と認めてください。」と言います。私たちが食べて飲むとき、十字架の自己犠牲を受け入れています。イエスが御父から十字架を受けたように、私たちも自分の十字架を受けてイエスについて行きます。そして自分の人生をいけにえとしてイエスにささげることを宣言しています。

イエスは私たちの頭として先に食べて先に飲んでくださいました。聖餐式でなぜ牧師が先に食べて先に飲むのかと思う人もいるかもしれません。ある意味で不思議です。私たちがお客さんを招いたら、先にお客さんに渡します。それは当然のエチケットです。へりくだって人に仕えるなら、先に相手に食べ物を渡すはずです。少なくても先にもらった人はみんながもらうまで待つでしょう。しかしここはレストランでもなくて、個人の家でもありません。聖餐式は儀式的な意味のある食事であって、普通のエチケットに従いません。イエスが先に食べたように牧師も先に食べます。まず先に自己犠牲を払っているのです。リーダーは自分をささげて先に戦いに出ます。どこの宗派でも牧師が先にいただいてから会衆に渡します。

この点を強調するために、今日から聖餐式のやり方を一つ具体的に変えます。聖餐式のパンやぶどう酒を配る人たちはここで皆さんに配ってから最後に食べていましたが、今日からは配る人も先にいただいてから皆さんに渡すことにします。

私たちは恵みを受けた者として恵みに満たされて、その恵みが溢れ出て次の人に行きます。十字架の犠牲を自分たちで受けてから、人にも「そのようにしましょう」と言います。私たちは、キリストのように生きてキリストのように死ぬことを決心しています。

私たちは天地万物のストーリーを知っている者として生きていきましょう。

さばきはきます。まだ来ないのは私たちが救われるために神様が待っていてくださるからなのです。だから私たちはきよい敬虔な生活をしましょう。




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