説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ2:14〜16
すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
⚫️すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。(ピリピ2:14)
パウロは旧約聖書の有名な出来事を指している。イスラエルがエジプトを脱出して、海を渡り、三日経ったときの出来事である。
【出エジプト15:24】民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
イスラエルの民はエジプトを脱出してからたった三日で、水がないことや、水があっても苦くて飲めないことを、神とモーセに対してぶつぶつ言うようになった。人類の歴史の中でも見たことのないほどの大きな奇跡を経験したばかりなのに、三日間で信仰が消えてしまったような感じである。
しかし神はイスラエルの不平を聞くとすぐに奇跡を与えて、あふれるばかりの水を与えてくださった。(出エジプト15:22~27)
イスラエルがエジプトを出発してから一ヵ月後の2月15日に、今度は食べ物がないと不平を言う。
【出エジプト16:2〜3】そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に連れ出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
エジプトから出てたった1ヵ月でこのような不平を言うことに驚く。水がなかったときに、神様が奇跡的に水を与えてくださったのだから、食べ物も神様に頼めばまた与えられると信じればよかったのに、イスラエルの民の反応は、「なぜエジプトから連れ出したのか。エジプトでは食べ放題のパンと肉があったのに。私たちはエジプトで死んだほうがよかった。」というものだった。モーセとアロンに不平を言っているが、これは神に対する不信仰なのである。
17章でも水がなくなったが、15章で水が与えられたことを思い出して素直に神に祈ればよかったが、また神様に不平を言った。そして神様は彼らに水を与えてくださった。
イスラエルの民のこのような不平のストーリーはこの後もずっと続く。
シナイ山では偶像礼拝を行ってしまった。
シナイ山から出て、モーセは十二人のスパイをカナンに送った。その内のヨシュアとカレブだけは、カナン人と戦って必ず打ち勝つことができると言ったのだが、ほかの十人は、カナンの地は素晴らしいがそこに住む人々は私たちより強いから攻め上れない、と言って民を怯えさせた(民数記13章)。
人々は泣いて叫んでモーセとアロンに不平を言い、エジプトに戻ろうとして、それに信仰をもって反対するヨシュアやカレブを石で打ち殺そうとした。それで神様はヨシュアたちのいのちを救い、神に逆らった二十歳以上の男性たちには四十年間荒野を旅する間に自分たちの罪のために死ななければならないと告げられた。
しかしこれは親切な死刑である。二十歳の人は六十歳になるまで荒野で生活し、毎日天からマナが与えられて、水も与えられる。旅の間、何をするのかというと行進である。アメリカの軍に入ると、最初の訓練は行進である。言われた通りに歩く。イスラエルもそれを四十年間行う。それはそこまで大変なものではない。二十歳の人は結婚して子どもや孫が与えられて、彼らが大きくなるのを見て、六十歳で死ぬ。彼らが逆らい続けなければそのような人生である。これは厳しいわけではない。
しかし民は繰り返し不平を言い続けた。それでも神様は四十年間ずっと民を守ってくださった。
パウロがピリピの教会に不平を言わないようにと言ったのは、この出エジプトから民数記までの歴史が背景にある。荒野のイスラエルのようになってはいけない。
しかしなぜパウロはピリピの教会にこのように話すのだろうか。これがコリントの教会に話すのなら納得できる。パウロは第一コリント10章で同じように荒野の歴史を指して話しているが、それはコリントの教会に偶像礼拝との妥協、教会員同士のけんか、性的な罪、分裂があったからである。コリントの教会には荒野のイスラエルのような罪を犯してはいけないと警告する必要があった。
しかし、ピリピの教会にはこのような問題はなかった。パウロがピリピの教会にこのように警告するのは不思議。これについて注解書の説明は10個ぐらいある。パウロがピリピの教会にこの警告を与えた理由はこれかもしれない、それかもしれない、あれかもしれないとたくさん推測して書いてある。
しかし大切なのはピリピ人への手紙の背景がイエス様のオリーブ山の説教であることだ。イエス様が十字架で死んで復活したのはAD30年。パウロが救われたのも同じAD30年だと思われる。
ピリピの教会の始まりはAD50年である。エルサレム会議のあとで、パウロとバルナバは別々に伝道の働きをして、パウロはシラスを連れてマケドニアに行くことになった。マケドニアに行く途中でテモテとルカも合流して四人でピリピに行った。いつものように暴動が起きてパウロは町から追い出されたのだが、この教会は最初からずっとパウロの働きを大いに喜んで支えてきた教会である。パウロはピリピを出た後テサロニケの町に行った。テサロニケは当時のマケドニアの中で大きな大切な町なのでパウロはそこで福音を伝えたが、テサロニケの人々が激しくパウロに反対して町から追い出した。それだけではなく、次の町べレアにまで追いかけて来て、べレアからも追い出した。その宣教の旅は最終的にコリントまで続いた。
パウロ、シラス、テモテ、ルカが設立したピリピの教会は、パウロが手紙を書いた時点で12年の歴史しかなかった。AD62年にパウロがローマで軟禁されているときに書いたものである。
パウロがピリピの教会に「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」と書いたのは、イエス様がオリーブ山の説教で言ったことを思い出すためである。
【マタイ24:4〜7】そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。
まるで昨日のニュースかと思うような内容である。戦争や地震をピリピの教会の人も経験した。しかも私たちのような豊かな状態で経験するのではなかった。
【マタイ24:8〜12】しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
これらはすべて実際にAD64年から70年までの間に起きた。AD30年から一つの世代が始まると考えると、AD70年でちょうど四十年になる。それより前にすべてのことが成就される。殺されたり、苦しめられたり、互いに裏切り、憎しみ合う。イエス様の弟子たちもつまずいて裏切り、お互い憎み合うことになる。偽預言者も現れる。当然、このような試練の中でピリピの教会の人たちが互いに争い合うことは危険である。
ローマで行われているパウロの裁判はそろそろ判決が出る。パウロは死ぬかもしれない。あと二年すると本格的に迫害が始まる。それに近い時、その大きな試練が来る時に、愛が冷えてぶつぶつ言ったり、お互いに憎みあったりしないようにとパウロは警告する。コロサイの教会やテサロニケの教会に言ったように、感謝に満ちて歩みなさいと言う。不平を言わずに心から感謝して歩みなさい。
罪人なので、大変な時代になると感謝から離れてしまう危険性がある。イスラエルの民がエジプトのファラオから救われて大きな奇跡を次から次に見ても、少し試練にあっただけで不平を言い、信仰が薄くなり、愛が冷えるところを旧約聖書で見た。
●それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、(ピリピ2:15)
これもまた旧約聖書を指している。
【申命記32:5】自分の汚れで主との交わりを損なう。主の子らではない、よこしまで曲がった世代。
神様がエジプトから出た世代にさばきのことばを話している。
パウロはピリピの人々にモーセのことばを借りて、昔のイスラエルのような時代の中にあっても、彼らの逆になりなさいと話している。きよい生活を送り、正しく神様のみことばに従って歩みなさい。
●いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。(ピリピ2:16a)
パウロは、ピリピの教会がみことばを握ってみことばにしたがって歩むなら光のように輝くと言う。大変な試練の中でみんなに憎まれる。その中で光を照らして証して福音を伝えるように励ましている。大きな試練にあうときに、みことばを握ってみことばにしたがって心に刻むことが私たちにとっても大切なパウロのことばである。素直に神を信じて、素直にみことばを喜んで、正しくみことばにしたがって光を照らす力があるのか試されたときに、不平を言わないように。
私たちは感謝して歩むことができているか。ハイデルベルク信仰問答の第三部は感謝についてである。感謝をもって生きることがクリスチャンの生き方であることが非常に強調されている。私たちは毎週の礼拝で感謝することが私たちの務めであると毎週告白している。そして礼拝の中心は感謝の食事である聖餐である。神様が私たちを愛して御子を与えてくださったことを感謝してパンと杯をいただく。それが毎週の土台となる。ぶつぶつ不平を言うのではなくて、きよい傷のない神の子どもたちとして感謝して歩む。イエス様が私たちに食事を与えてくださった。
神様は私たちに聖餐式についての理論を与えたのではなく、聖餐そのものを与えてくださった。理論を理解して考えて書き出して聖餐式の時に理論を覚えて聖餐をいただくのではない。
理論は足りなくても聖餐は本物である。これが理論より大切である。聖餐のとき御霊が働いて、神様がともにいてくださる。聖餐をいただいて、感謝の心をあらたにして、キリストにしたがって、みことばを握って、御言葉を心に刻んで歩むことを励まされる聖餐である。
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