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「福音のために犠牲にするもの」第一コリント9:16〜23

説教者:ベンゼデク・スミス牧師



第一コリント9:16〜23

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

あなたは福音のために何を犠牲にしますか。人を救うためにどれだけ自分を変えますか。どれだけの贅沢を手放しますか。どれだけ自分の権利や自由を主張しないようにしますか。

これがパウロがこの箇所で出している問いと答えです。


このコリントの箇所は8章から始まる長い段落の一部なので、まずその段落全体を簡単に説明します。

パウロの時代に市場で売られているほとんどの食肉は、人々が神々の神殿にささげた肉でした。神々の神殿で動物が殺されて、それをささげた人たちが食べるのですが、動物一匹の肉はかなり多いので食べきれません。鶏一羽でも多いのに、子羊や雄牛などは肉が多すぎて残ります。残った肉はほかの礼拝者と一緒に食べますが、それでも残るので市場で売られるのです。どの肉が神々の神殿でささげられたのかは見ただけでは分かりませんが、ほとんどの肉が偶像にささげられたものでした。だからユダヤ人は異邦人の町にいるときには肉をたべません。

コリントの教会に強い兄弟がいました。強い兄弟というのは、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない。(1コリント8:4)」とわかっている人たちでした。そしてこの肉を食べても何の害も受けず、罪でもないとわかっている人たちでした。

しかし、周りには弱い兄弟もいました。彼らは救われたばかりで、彼らにとって偶像の存在はとても大きなものでした。彼らは一度偶像にささげられた肉は汚れていると感じているので、それを食べたら罪を犯すことになると思っていました。周りの回心したユダヤ人の中にもそのように思っている人がいました。その人たちに対してパウロはこう言います。

【第一コリント8:7b】ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。

つまり弱い兄弟は、強い兄弟が肉を食べているのを見て、悪いことだろうと思いながらも一緒に食べてしまう。このようにして弱い兄弟は罪を犯すことになるのです。

【第一コリント8:10~11】知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。

強い兄弟は、自分には肉を食べる自由と権利があると主張します。パウロは、確かにそうです、と答えます。そして同時に、私たちは常に自分の権利を主張する必要はないとも言います。場合によって人のために自分の自由を手放すことも良いと言います。

【第一コリント8:12】あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。

パウロは自分を模範として見せて、自分の贅沢よりも兄弟の霊的状態を大切にするのです。

現代の私たちにあてはめて、これに少しだけ似ていることをさがしてみました。例えば小さい子どもの前で男女関係について詳しく話すのは良くないと思っています。男女関係が悪いわけではなくて、弱い者が周りにいるときには、彼らが罪を犯して滅びないために自分を制限する必要があるのです。パウロはコリントの人たちに、これが自分の権利だからと言ってそれを主張する必要はないと言います。これをする自由があるからといってそれをすることを勧めません。自分をそのたとえとして使います。

パウロは結婚して、妻と一緒に宣教の旅をする権利があります。バルナバにもあります。しかしパウロとバルナバはその権利を主張しませんでした。

またパウロは福音の働きをするために物理的な報い、つまり教会からお金を得る権利がありましたがそれも主張しませんでした。

パウロは7章で結婚しないことにおける祝福を話します。

今日の箇所でパウロはもらうべき給料をもらわないことによって得る報いについて話します。

【第一コリント9:18】では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。

ほかにも自分がどのように自分の自由を手放すかをこのあと続けて話します。

【第一コリント9:19~20a】私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。

これは驚きです。パウロはベニヤミン族のパリサイ派でしたが、その誇りとアイデンティティを捨ててキリストにあるアイデンティティを誇りにしています。

【第一コリント9:20b】ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。

律法とはモーセの契約のことです。安息日をどのように守るのか、何を食べて良いのか、しなければいけないこと、してはいけないこと、たくさんの細かいルールがありますが、パウロはユダヤ人といる時にそれを守っています。必要ないのに、キリストにあって自由なのに、ユダヤ人に福音を伝えてユダヤ人を獲得するために、それを守るのです。

【第一コリント9:21】律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。

パウロは異邦人の使徒となりました。そのために自分の過去、育ち、誇りをすべて捨てて、異邦人のように生活することも受け入れたのです。それがどれほど大変なことかはペテロを見ればわかると思います。

【第一コリント9:22】弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。


パウロはここでやっと今日の箇所のコリントの教会の話に戻ります。8章からずっと続いているコリントの教会にいる弱い兄弟の話です。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。」これは有名なセリフです。そしてリベラルが大好きな箇所です。人によっては次のように解釈します。とにかく周りの人に合わせなさい。同じような服を着て、同じように話して、同じ文化や好みに合わせて、優しく接しやすい人になって、周りの人に受け入れやすく好かれる人間になりなさい。そうすれば福音を伝えるときに向こうが聞く耳を持つでしょう。

しかし、パウロの人生を見てみると、彼は決して好かれる人ではありませんでした。パウロはみんなに嫌われていました。ユダヤ人のところに行くとむちで打たれました。ギリシャ人には牢に入れられました。ローマ人には首をはねられました。死ぬ直前にはほとんどのクリスチャンに見捨てられました。パウロは自分の贅沢を手放して、福音を伝えたい相手に接することができるようにしていました。これは好かれるためではありません。パウロは決してして自分の福音のメッセージを受け入れやすいものに変えませんでした。

パウロはローマの国籍を持っていたのでユダヤ人の服装をする必要はありませんが、パウロがローマの国籍を持っている者として振る舞う限り、シナゴグのリーダーの権威の下にはいないですみます。彼らの権威はユダヤ人にしか及ばないからです。もしパウロがユダヤ人の服装をしてシナゴグに入ったら、その瞬間に彼はシナゴグのリーダーにむち打ちされるリスクを負います。彼らの権威の下に自分を置いているからです。実際にパウロは何度も半殺しの状態にされました。

パウロは異邦人のところに行って、割礼を強制せず、モーセの律法に従う必要はないと教えましたが、じつはユダヤ人にもモーセの律法に従う必要はないと教えたために迫害されました。パウロがそこを妥協すればユダヤ人に受け入れられたのです。回心したユダヤ人にも迫害されたのですがそれが原因でした。パウロが妥協しなかったのは、福音の真実に忠実でいるためでした。パウロは本当の福音を伝えたかったのです。彼は世界にキリストにある自由、キリストにある救いを宣べ伝えていたからです。


パウロは弱い人のために肉を食べないことを決心しました。彼らが罪を犯すように誘惑しないためです。パウロはここまで自分を犠牲にして福音のために生きていました。ユダヤ人のように生きるのは簡単なことではありません。モーセの律法に従って生活することもあるし、結婚しないで、給料ももらわず、肉も食べません。なぜここまでするのかというと、パウロが周りの人を愛していたから、このすばらしい福音のために生きて死ぬ覚悟をしたのです。パウロは喜んでそうしました。キリストの十字架で神の栄光を見せて、全世界がその栄光を見て、全世界がそれを知って、それを信じるように働きました。

パウロはコリントの教会に、人がお互いを踏みつけない文化を作ろうとしていまいした。自分の権利ばかり主張して、それが人にどんな影響を与えているかを気にせずに、自分の自由だけを主張する教会にならないように教会を教えて模範を見せていました。

コリントの教会のような兄弟関係を見たことがあるでしょうか。子どもたちがけんかをするときによく見ます。「それは私のおもちゃ!」「次は私の番!」「お前は自分のクッキーを食べたのにまた手を出している!」「自分の分の仕事は終わっている。お前はまだ終わらせていない。今日の仕事が終わらないのはお前のせいだ!」

このようなとき、親はだいたい何と言いますか。「あなたはお兄ちゃんでしょう。」「あなたはお姉ちゃんでしょう。」と言います。つまり強い兄弟でしょう、と言っているのです。だから譲りなさい、がまんしなさい、もっと働きなさい、と言います。

ではパウロは弱い兄弟に何と言っていますか。強い兄弟に対してはこのようにしなさいと言いますが、弱い兄弟には何も言いません。なぜなら弱い兄弟にも強い兄弟として振る舞いなさいと教えているからです。ということなのです。弱い兄弟には「私は弱い兄弟だからみんなに甘えていいとパウロが言った。」と言う権利はないのです。今日の箇所を読むと、私たちは最大に強くなって、強い兄弟として生きる責任があることがわかります。私たちの教会はもちろん兄弟姉妹と違って、だれが兄なのか姉なのか、どちらが強いのか、複雑ではっきりしないものです。だから常に自分の方が強い兄弟でいるようにしましょう。何がフェアなのかをはっきりさせるのではなく、自分の権利や贅沢を手放して、隣の人より働く。そのための決心、忍耐、覚悟、赦しが必要です。


私たちが神についていくなら、神に仕えるなら、このような力が与えられます。神様は走っても疲れませんし、弱くなりません。神様はその力を私たちに分け与えてくださいます。

【イザヤ40:28~30】あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。

これは私たちのことです。働いて、人に仕えて、神に仕えて、疲れます。

【イザヤ40:31】しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

私たちが神を待ち望むなら、神はこのような力を私たちに与えてくださいます。私たちは神のものだから。神を待ち望んだエリヤは、パンと水をいただいて四十日四十夜を生きることができました。イエスもみことばの力によって、四十日四十夜断食してサタンの誘惑に打ち勝ちました。

マルコの福音書を見ると、イエスは一生懸命働いて、人々に福音を伝えて、多くの人を癒して、悪霊を追い出しました。町中の人が夜に来てイエスは休めないのですが、それなのにイエスは彼らに仕えます。夜遅くまで人を助けて疲れきったイエスは、翌朝早く起きていました。

【マルコ1:35】さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

弟子たちがイエスを見つけたときに、イエスはこう言いました。

【マルコ1:38】「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。

つまりイエスは神を追い求めて、神から力を得て働きを続けます。

イエスの人生はパウロの人生と並行しています。パウロは贅沢を手放しましたが、イエスは神であることを手放しました。イエスは人となってアダムの罪の呪いを受けました。そしてイエスはユダヤ人としてモーセの律法の下に来て、祭司たちやポンテオ・ピラトの権威の下に来て、十字架にかけられて、苦しみを受けて殺されました。その報いとして、神はイエスを死者の中からよみがえらせて、イエスに鷲のような新しい力を与えました。イエスは福音のためにすべてを手放して、私たちに福音の祝福を分け与えてくださいました。その祝福は今ここにある聖餐です。

私たちがこの聖餐を受けるとき、キリストご自身を受けて、罪の赦しと永遠のいのちを受けます。

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