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「キリストの日に誇ることができる」ピリピ2:14〜18

更新日:3月9日

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ2:14〜18

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

今日の箇所でパウロが強調したいポイントは「キリストの日に誇ることができる」ということだと思う。

そのことを学ぶために、二つのことを一緒に考えたいと思う。

一つは誇ること、もう一つは信仰の礼拝・いけにえ・注ぎのささげ物である。


⚫️誇る

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2:14~16)

誇るということばを聞くと、自慢することだと間違って理解する危険性がある。ギリシャ語でこの「誇る」ということばは、私は偉いとか私はよくやったという意味で使われることはあるにはあるが、じつは「喜ぶ」とも翻訳される。

自分が労苦したことは無駄ではなかったことをキリストの日に誇ることができるとパウロは言うが、結果について話している。自分が何をしたかを誇るのではなく、神様が見て祝福してくださったことを喜ぶ、という意味だと思う。17節から18節の間に四回も喜ぶということばが繰り返されていることからそれがわかる。

「キリストの日」はピリピ人への手紙の前のところにも出て来たが、キリストの日はメシアの日である。メシアの日は、メシアが本当に神の御子で、正しいお方であり、神のしもべであることが公に証明される日のことで、AD70年のことである。オリーブ山のイエス様の説教をピリピの教会の人々は覚えている。しばらくすると試練の時が来て、この世代がさばかれる。それがキリストの日である。


イエス様が正しいお方であると最初に証明されたのはイエス様の変貌の山であった。何人かの弟子たちに、神様ご自身が宣言してくださった。

【マルコ9:2〜9】それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。

そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。

さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、イエス様がメシアであることを神様ご自身から聞いた。しかしあまりピンと来なかったかもしれない。

次にイエス様が正しいお方であると証明されたのは、ピラトがイエス様を正しいと認めた時である。イエス様が訴えられたのはパリサイ人たちの恨みによるものだとピラトはわかっていた。

しかしイエス様が本当に正しいお方であると証明されたのは復活そのものであった。イエス様が正しいお方だったので、死はイエス様に勝つことができなかった。神様はイエス様を復活させて公にイエス様が正しいキリストであると証明してくださった。そのことを考えるときに、思い出してほしい箇所がある。

【マタイ28:1〜4】さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。

番兵たちはこの場にいて、一部始終を見ていた。

【マタイ28:11】彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。

番兵たちは、御使いが石を動かし、女性たちにイエス様の復活を宣言するのを聞いた。恐ろしくて震え上がっていたが番兵たちも目撃者である。女性たちが弟子たちにイエス様の復活を話すより先に、番兵たちは祭司長たちに報告した。これはすごい話である。

【マタイ28:12~13】そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。「『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

祭司長たちは、番兵たちからイエス様の復活の証言を聞いて、長老たちと集まって協議して、自分たちは悔い改めるべきだと悟ったはずだったのに、悔い改めるどころか逆に番兵たちに多額の金を与えてうまく説得して、弟子たちがイエス様を盗んだことにさせた。

【マタイ28:15】そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。

祭司長たちは番兵からイエス様の復活の証言を聞いたのに、大胆にとんでもない偽りのストーリーを作ってみんなに言い広めさせた。このうわさはユダヤ人の中でいまだに残っていると書いてある。イスラエルのリーダーたちはこのようなとんでもない偽善者たちであった。神様はイエス様の十字架の重い責任を負っているこのイスラエルのリーダーたちに、ちゃんとした証しを与えてくださっていた。リーダーたちはイエス様の十字架を否定して、そこから逃げて、教会のリーダーたちを迫害することになった。


しかしこれだけではメシアの証明は足りない。イエス様はこの世代がなくなる前にエルサレムと神殿をさばくと預言したが、イエス様が正しい預言者であるなら、イエス様が言ったことがこれまでの預言者たちと一貫している必要がある。そして確かにイエス様の預言は一貫していた。エゼキエルが自分のことを人の子と呼んだように、イエス様もご自分を人の子と呼んだ。エゼキエルやエレミヤなどの預言者たちは神殿とイスラエルの罪に対してさばきを宣言していた。イエス様の預言もエゼキエルたちの預言と一貫している。

そしてもう一つ、イエス様が正しい預言者であるなら、その預言は成就される。イエス様は、この世代が終わるまでにエルサレムと神殿をさばくと預言した。そして実際にAD70年に神殿が完全に破壊されて二度と建てられなかった。全くの終わりである。イエス様のことばは預言した通りに成就された。だからイエス様は本当の預言者、本当のメシアた。キリストの日にキリストがメシアであることが明らかになった。

パウロがピリピ人への手紙を書いた時は62年頃だった。エルサレムにクリスチャンが集まっていて、エルサレムでヘロデが建て直した大きな神殿がローマの中で目立つ素晴らしい建物だった。ローマの軍人はあまりにも素晴らしすぎて、壊すのをためらったほどの美しさだった。

その前のAD60年にパウロたちがエルサレムの会議で集まったりペテロたちが礼拝していたが、この小さいグループは御霊が宿る本当の神殿であるとパウロもペテロも教えている。あまりにも素晴らしい圧倒されるこの世の栄光である神殿の前で、わずかなグループが集まって、自分たちが本当の神の神殿だと言う。このようなことを教えるとき、信仰の目で見なければ本物の栄光は見えない。

イエス様が神殿をさばいた日がキリストの日で、キリストが正しいメシアとして証明された日である。


パウロは、ピリピの教会が邪悪な世代の中にあると言う。申命記32章や民数記を読むと、エジプトから出たイスラエルはとんでもない邪悪な世代だったことがわかる。ピリピの時代は荒野のイスラエルのように神に逆らうイスラエル人と異邦人に囲まれていた。その世代の中で世の光として輝く神の子たちだとパウロは言う。邪悪な世代は神に捨てられたというイメージがあるが、パウロは邪悪な世代にクリスチャンが世の光を照らすと言う。これが非難されるところのない純真な神の子どもとして生きる生き方である。マタイ5章の山上の説教の中で、良い行いを行うことで神の恵みの光を照らしなさい、と言っている。まだ救われていない人にどのように祝福を与えることができるかを考えなさいとイエス様が話している。ピリピのクリスチャンたちも邪悪な世代の中で福音を伝える働きをしている。それが本当の神の子たちの生き方である。ピリピの教会はぶつぶつ言わず、疑わず、むしろ感謝して歩んでいる。感謝して生きることは光を照らす生き方だと思う。


⚫️注ぎのささげ物

たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。(ピリピ2:17)

すこし難しいことばだと思う。

・注ぎのささげもの

イスラエルは、荒野の中では穀物や飲み物のささげものはしなかった。ワインはないし、穀物もなかったからである。カナンに入ってその土地て収穫をした後でこのようなささげものをした。これは律法の教えの中にある。民数記15章と28章、レビ記1~7章にあるし、出エジプト記にも少しあるが、民数記が一番詳しいと思う。

【民数記15:1〜7】主はモーセにこう告げられた。

「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、食物のささげ物を主に献げるとき、すなわち、特別な誓願を果たすためであれ、進んで献げるものとしてであれ、例祭としてであれ、牛か羊の群れから全焼のささげ物かいけにえをもって、主に芳ばしい香りを献げるとき、そのささげ物をする者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを、主に献げなければならない。

また全焼のささげ物、またはいけにえに添えて、子羊一匹のための注ぎのささげ物として、四分の一ヒンのぶどう酒を献げなければならない。

雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパを献げ、

さらに注ぎのささげ物として、ぶどう酒三分の一ヒンを献げなければならない。これは、主への芳ばしい香りである。

すべての血を流すいけにえの上に、油を混ぜた穀物とその上にぶどう酒を注ぐ。穀物、油、ぶどう酒はどの動物をささげるかによって量や種類がちがうが、いつも飲み物のささげものはすべてのささげ物のときにささげている。

・いけにえ

いけにえとは血を流すささげもののことで、全焼のいけにえ、洗いきよめのいけにえ、罪過のためのいけにえ、和解のいけにえの四種類がある。イスラエルの礼拝ではそのうちの三つのいけにえをいつも行う。罪過のためのいけにえは、ある人が罪を犯して神の民から追い出されたが、赦されて戻って来るときにささげるようないけにえなので、いつも行うものではなかった。

パウロがピリピの教会にいけにえのことを話すのは、ピリピの教会のことを理解するために旧約聖書のいけにえ制度を理解する必要があるということだ。

・信仰の礼拝

日曜日の朝の礼拝を考えるかもしれないが、旧約聖書ではこの言葉は奉仕と訳されることばであり。レビ族が行う奉仕と祭司が行う奉仕のことである。確かに礼拝に関することであるが、毎回いろいろある。朝のいけにえと夕方のいけにえも毎日あるし、穀物のささげものを作ってぶどう酒のささげ物も準備する。天幕でも神殿でも燭台の油を変えたりきれいにしたりしなければならないし、道具を順番に洗わなければならない。天幕や神殿の中をきれいにする奉仕やその他の奉仕もあるので、「礼拝」という翻訳は完全に間違っているわけではないが、もっと広いことばである。毎日いろいろな奉仕がある。このポイントは、ローマ12:1にある。

【ローマ12:1】ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝(奉仕)です。

パウロはローマの教会にもピリピの教会にも旧約聖書のいけにえ制度を通して生き方を教えている。クリスチャンとして生きるとは自分を生きたいけにえとして神にささげることである。ピリピの教会は信仰のいけにえをささげている。神様を信じてイエス様を信じて、自分たちを神にささげている。光を照らして、クリスチャンとして実を結ぶように真剣に生きていることが、毎日のいけにえ生活である。それが神に仕える祭司の民の奉仕である。ペテロは私たちを王なる祭司の民と呼ぶが、それをパウロは教会について言う。

私たちの礼拝は単に旧約聖書の形を借りているのではなく、パウロは旧約聖書の天幕と神殿の礼拝を指して、クリスチャンの毎日の生活の生き方を教えてくださる。

私たちの礼拝の最初で招きがある。旧約聖書では祭司たちがラッパを鳴らしてみんなに来るように招いている。

礼拝の中でささげるささげ物は、罪のいけにえ(洗いきよめのいけにえ)である。血を注いで礼拝の場所をきれいにして、罪が赦されることを求めている。だから私たちの礼拝の初めに罪の告白がある。罪を告白すると洗いきよめられて、罪が赦される宣言がある。

それから全焼のいけにえ(昇天のいけにえ)がある。上っていくいけにえである。祭壇の上のささげ物が煙に変わって、神の栄光の雲の中で神と交わりを持つという意味である。動物の頭の上に手を置いて、その動物が自分の代表になる。罪人は神様のところに入ることが赦されないので、代わりに代表を送る。私たちの礼拝の中で、罪の赦しの宣言のあとでみことばを読んだり、祈ったりするのは神様との交わりを持つことである。

最後に和解のいけにえがある。祭司がある部分を神様からもらい、ある部分を礼拝する人に与えてくださる。それで礼拝する人も祭司も神様も一緒に食事をしているような象徴になる。だから私たちの礼拝は必ず聖餐で終わる。

聖餐をいただいたあとで、神様が私たちを祝福して送り出す。マタイ28章でイエス様が言われたように、行って実を結びなさいという使命が与えられている。全世界を主イエス・キリストの弟子としなさい、という使命である。その命令は私たちにも与えられている。

日本は先進国の中でクリスチャンの割合が少ない国である。道を歩く時も、電車に乗る時も、バスに乗る時もそれを重く感じて祈る。どうか神様、この国をあわれんで、福音の証しを祝福してください。どうか福音を伝える機会を与えてくださいと祈りながら光を照らすように励まされる。それは信仰のいけにえとして生きる生き方である。

礼拝の最後に、この聖餐にあずかった者を、御子イエス・キリストの尊いからだと血をもって、養ってくださることを感謝します。主はこれによって、私たちが御子のからだの枝であり、御国の世継ぎであることをいよいよ明らかにしてくださいました。天の父よ、私たちは御子によって心もからだも生きたそなえ物としてささげます。どうか聖霊によって私たちをこの世に遣わし、御旨を行う者とならせてください。栄光は世々に限りなく、父と子と聖霊にありますように。

このような祈りをささげて終わりなのではない。これは生き方の話である。ピリピ人への手紙2章、ローマ人への手紙12章と同じように生きたそなえ物である。

この祈りを毎週ささげる時に、この瞬間だけではなく、自分を生きたそなえ物として生きることを神様に約束している。パウロはピリピやローマの教会にも同じことを話している。





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