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「復活の四十日間」

説教者:ラルフ・スミス牧師


「復活の四十日間」

多くの人にとって、復活祭は一日だけのお祭りである。しかし、古代教会ではそうではなかった。一番古いキリスト教のカレンダーを見ると、復活は季節であったことがわかる。

⚫️【使徒の働き1:1〜3】テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。

イエス様は四十日間繰り返したちにご自分を表したからである。だから復活は一日だけではなく季節なのである。

私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。(使徒1:1)

まず、ルカが前の書(福音書)で書いたのは、イエス様が行い始め、教え始めたことである。使徒の働きでもイエス様は引き続き働いている。イエス様はご自分のからだである教会を御霊によって建て上げる。しかしそれでも働いているのはイエス様ご自身である。この箇所で、ルカは主イエス・キリストが選んだ使徒たちのことを言う。

それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。(使徒1:2)

使徒ということばは広い意味で使うこともできるが、ここでは狭い意味で使われている。狭い意味において使徒とは主人の正式な代表として任命された人に使われている。ヘブル語で使徒はシャリアフという。ラビの話の中である人が主人のシャリアフとして任命された。主人が旅をしている間にシャリアフが妻を離婚した。シャリアフの権威はここまで大きいものだった。そこまで主人の代表であった。同様に使徒たちはイエス様の代わりに教えることを任命されたシャリアフであった。彼らは十二人のみ(イスカリオテのユダの代わりに十二人目が任命された)で、他には使徒はいない。彼らは教会の土台を築きあげた。

イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(使徒1:3a)

ルカは、イエス様が多くの「疑うことができない証拠」を弟子たちに示したと言う。このことばは新約で一回しか使われていない。しかし意味はわかる。この言葉はアリストテレスの書物や他のギリシャ語の文学の中などでも使われていて、あまりにも明白で疑うことは無意味という意味である。彼らが確実に主イエス・キリストのよみがえりを信じるための証拠である。簡単に言えば、キリストの復活はありえない話なのである。弟子たちがはっきりした信仰をもって信じるために証拠が与えられた。

四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。(使徒1:3b)

ルカは、イエス様が四十日間弟子たちの前に現れたと言う。四十日間、昼も夜も一緒に過ごしたという意味ではないが、この間に弟子たちの前に繰り返しご自分を現した。

なぜ四十日間なのか。そこに二つの答えがある。

1、イエスが本当に復活したことを弟子たちが確信できるためである。もし復活したイエス様が現れたのが一回とか二回だけだったら、弟子たちは自分の経験を疑うかもしれない。四十日の間、イエス様が弟子たちと一緒に食べたり話したりして繰り返して繰り返し弟子たちに現れてくださったので信じることができた。弟子のトマスはイエス様がよみがえられたと聞いた時に疑った。だから疑いのトマスと呼ばれている。しかしトマスが疑うのも無理はない。他の十人の弟子たちがイエス様に会ったと言っても、トマスは自分の目で見て自分の手でイエス様に触らなければ信じないと言った。それでイエス様がトマスに現れて、私に触ってください、本当に私がよみがえったことを信じてくださいと言った。

2、四十日は聖書の中に繰り返し出てくる。モーセが四十日間シナイ山で神様に律法を教えられた。イエス様は荒野で悪魔に四十日間誘惑された。今イエス様は弟子たちに四十日間教えている。あまりにも多くのことを教えなければならないので、一日だけでは無理である。


⚫️イエス様が弟子たちに教えてくださったこと。

・みことばの新しい理解

【ルカ24:26〜27】キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

エマオに向かう二人の弟子に話している。彼らはイエス様が死んで悲しんでいたが、イエス様は二人を叱って、それからご自分について聖書に書いてあることを説明してくださった。これは長い会話だったはずである。そして彼らが考えもしなかったことを教えている。律法も預言者の教えも中心的なことは一つで、それはメシアであるイエス・キリストご自身のことである。しかしユダヤ人はそのように聖書を読んでこなかった。イエス様はここで旧約聖書のまったく新しいアプローチを弟子たちに与えた。聖書を理解する方法を根本的に変えた。これがキリスト教の神学の始まりである。多くの人はパウロが最初の神学者だと言う。それは間違いだという意味ではないが、イエス様こそ最初の神学者である。イエス様ご自身が弟子たちにまったく新しい聖書の理解を与えた。聖書全体の教えの中心はイエス様ご自身である。

【ルカ24:44〜49】そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」

それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。

見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエス様は、聖書全体がご自身について書かれているということを、集まっている弟子たちにも教えてくださった。

【ルカ24:32】二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

二人は心の内で燃えていた。同じ経験を、他の弟子たちも四十日間受けた。イエス様が教えてくださったときに、弟子たちに熱心な信仰が与えられた。四十日の間イエス様が一緒にいなかった時でも、弟子たちはイエス様に教えられたことを話し合っていた。十二人の弟子たちみんながそのように自分に教えられたことについて一緒に話し合っている。マタイはノートをとる人で取税人だった。他の弟子たちもイエス様の教えを聞いてノートを取って一緒に話し合って、イエス様の教えを理解しようとする。次にイエス様が現れた時に、たくさんの質問が弟子たちから出ただろう。このようにして四十日の間に弟子たちの旧約の理解は完全に新しくされた。それは使徒の働き2章のペテロの話において見ることができる。

【使徒の働き1:20〜26】詩篇にはこう書いてあります。『彼の宿営が荒れ果て、そこから住む者が絶えますように。』また、『彼の務めは、ほかの人が取るように。』

ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。

ペテロは詩篇を引用して、イスカリオテのユダの代わりを任命しなければならないという。イエス様の復活の前には、ペテロは詩篇をこのように読んだはずはない。

【使徒2:16〜21】これは、預言者ヨエルによって語られたことです。

『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』

このことばは今日成就されている。これはヨエル書のまったく新しい理解で、四十日の間にペテロがイエス様から教えられたものである。

【使徒の働き2:25〜28】ダビデは、この方について次のように言っています。

『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』

ペテロは詩篇16篇から引用する。これはダビデが書いた詩篇であるが、じつはメシアの復活について説明する詩篇である。このような解釈はイエス様の復活前にはペテロが想像もできなかった解釈であった。

【使徒の働き2:34〜35】ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』

ペテロは詩篇110篇を引用してイエス様が神の右の座にすわったメシアであると言う。詩篇110篇に書いてある通りにイエス様が成就した。詩篇110篇は新約聖書で一番よく引用されている箇所である。「主は、私の主に言われた〜」は神様がメシアに語っていることばである。

私たちが福音のことを考えるとき、イエスが私たちの罪のために死んでくださったことは非常に大切だと思う。しかしそれで十分ではない。

パウロはイエス様が葬られたことも福音の要素であると言う(第一コリント15:4)。葬られたことは、イエス様が本当に死んだことの証明である。しかしそれだけでも十分ではない。

イエス様が死人の中からよみがえられたことも福音の要素である(第一コリント15:4)。しかしそれだけでも十分ではない。

復活だけではなくて、昇天したことも言わなければならない。しかしそれも十分ではない。

イエス様は天に上っただけではなくて神の右の座にすわった。人類の歴史の中で初めて人間が天に昇って神の右の座にすわった。そして天においても地においても一切の権威が復活したイエス様に与えられている。

・神の国についての教え

【使徒の働き1:3b】(イエスは)四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。

イエス様が神の御国について語られた時、私たちは新約聖書全体から学ばなければならないことが多いと思う。しかし神の御国の一番中心的なポイントは、イエス様が主であり王であるということだ。神の右にすわっているイエス様が神の御国の中心である。イエス様は歴史の中で働いて、ご自分の御国を建て上げる。どのように御国を築き上げるのかというと、ご自分のからだである教会を通して、御霊の力によって建て上げる。だから教会は神の御国において中心的な意味になる。教会は御国そのものではないが、教会の働きは神の御国を建て上げる中心的な働きである。

イエス様は弟子たちに、すべての国民がバプテスマを受けるようにと命じた(大宣教命令)。すべての国民が主イエス・キリストに従って歩むようになると神の御国が来る。

イエス様は主の祈りで神の御国が来るように祈ることを教えてくださっている。私たちが毎週礼拝に集まる時、キリストのからだとして集まって礼拝をささげている。私たちは神の御国を求める者として一緒に礼拝する。礼拝は御国の働きである。神の御国のための戦いである。なぜなら私たちの戦いは祈りの戦い、ことばの戦い、礼拝による戦いである。

毎週の礼拝でイエス様が与えてくださった聖餐をいただく時に、私たちは信仰をあらたにする。決心をあらたにする。神の御国のために実を結び、戦う者として心をあらたにする。そのことを覚えて聖餐をいただく。



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