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「使徒パウロの熱心」ガラテヤ人への手紙1:10〜17

説教者:ラルフ・スミス牧師


「使徒パウロの熱心」

ガラテヤ人への手紙1:10〜17

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。

兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。

しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

これまで、復活は一日のお祝いではなくて一つの季節であると話してきた。復活の日からペンテコステまでが復活の季節である。その間、礼拝の聖書朗読では旧約聖書の代わりに使徒の働きを読んでいる。復活の日だけではなくてペンテコステまでがイエス様の復活を中心としている。イエス様は復活した後で、四十日間繰り返し弟子たちにご自分を現して、みことばを教えてくださり、旧約聖書のすべてが主イエス・キリストを中心にしていることを教えてくださった。

そのことはルカ24章と使徒の働き1章でも非常に強調されている。

私たちは二週間前にペテロについて一緒に考えた。ペテロは復活した主イエス・キリストから教えを受けて、旧約聖書の新しい理解を得たことを見た。

先週はマタイについて一緒に考えて、マタイの新しい理解のことを見た。

今日はパウロについて考えることにする。

パウロはどの使徒よりも復活を強調している。そして復活について広く深く教えてくれた使徒である。

イエス様は復活してから四十日間弟子たちの前に現れたが、パウロはこのときのイエス様には会っていない。イエス様の三年半の働きの間にイエス様に会ったり聞いたりしたとは思うが、この四十日の間には会わなかった。

パウロがダマスコに行く途中で主イエス・キリストが現れてパウロを呼び、彼は悔い改めてバプテスマを受けて特別に使徒として召された(使徒の働き9章)。

⚫️ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。

パウロについて目立つところがいくつかある。

まずパウロは他の弟子たちより非常に熱心だったということだ。悔い改める前は熱心にイスラエルの神様に仕えるつもりだった。あまりに熱心だったので教会を迫害した。これは決して変な話ではない。この「熱心」ということばは旧約聖書の中ではほとんどの場合「妬み」とか「恨み」という翻訳になっている。人間が熱心になる時は妬んだり恨んだりして、決して良いことではないが、ヘブル語では「熱心」と「妬み」は同じことばである。神の妬みは美しくてきよくて正しい妬みである。

旧約聖書で「妬む」ということばを良い意味で人間に使うことは本当に少ないが、良い意味で使われている二人の有名な熱心なイスラエル人がいた。

一人は民数記25章のピネハスである。イスラエルの民が偶像礼拝をしていた時、あるイスラエルのリーダーの一人がモアブ人の女を連れてきて、みんなの前で罪を犯そうとした時、熱心なピネハスは神の栄光のために妬みをもって二人を殺した。ピネハスはその熱心によって特別に神様に祝福された。

もう一人はエリヤである。エリヤは熱心で、アハブ王とアハブ王と一緒に罪を犯している預言者たち(カルメル山にバアルとアシェラの預言者たち)八百五十人を集めて殺した(第一列王記18章)。アハブの妻イゼベルはそれを聞いて怒り、エリヤを殺そうとしたので、エリヤはシナイ山に逃げた。神の預言者たちは皆殺されて、エリヤだけが残されたが、神はエリヤに命じてエリシャを後継者として任命した。エリヤは熱心なのでアハブ王と妻のイゼベルに反対し、公然とさばきを預言し、預言の通りにアハブ王とイゼベルはさばかれた。

このようにピネハスやエリヤは熱心だった。パウロも同じように熱心なので、教会を迫害した。

なぜパウロが教会を迫害したのかというと、イエス様を十字架につけた責任がイスラエルのリーダーたちにあるとペテロが言ったからだ。

【使徒の働き4:5〜12】翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレクサンドロと、大祭司の一族もみな出席した。彼らは二人を真ん中に立たせて、「おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちが今日取り調べを受けているのが、一人の病人に対する良いわざと、その人が何によって癒やされたのかということのためなら、皆さんも、またイスラエルのすべての民も、知っていただきたい。この人が治ってあなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの名によることです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石、それが要の石となった』というのは、この方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

ペテロはイスラエルのリーダーたちに、「あなたたちは悪いことをやった。でも神様はイエス様を復活させた。」と言う。

この時点ではまだパウロはイエス様を信じていない。

パウロはイエス様の奇跡を聞いたり教えを聞いたりして、この人はもしかしたらメシアではないか、と思ったかもしれないがが、十字架にかけられて死んでしまったので、メシアではないと思った。

【第一コリント1:18〜19】十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。

十字架はユダヤ人にとってつまずきである。パウロ自身も十字架につまずいて、教会に反対しなければならないと思った。ペテロたちがリーダーたちを侮辱したので、パウロはリーダーたちに許可を得てダマスコに行ってさらに迫害を加えようとしていた。パウロの熱心はピネハスやエリヤのようなものであることを覚えておいてほしい。


⚫️しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

・アラビア

パウロは自分がみことばの啓示を受けたときにアラビアへ行った。アラビアで何をしたかは書かれていない。そしてアラビアからダマスコに行く。

パウロはなぜアラビアに行ったのだろうか。アラビアで何をしたのだろうか。そしてなぜアラビアからダマスコに戻ったのだろうか。そのことを考える時、エリヤのことを思い出す。エリヤはアハブとイゼベルから逃げてシナイ山に行く。

パウロがアラビアでシナイ山に行ったとは書かれていないが、ガラテヤ4章にアラビアにあるシナイ山と書かれている。新約聖書でアラビアという地名はこのガラテヤ1:17と4:25の二箇所しかない。

パウロは自分がエリヤのような預言者であると思ったのか。

エリヤはシナイ山で神から命令を受けて、そこからダマスコに行き、そこでエリヤは神様に示された働きをした。シナイ山に逃げて、またそのシナイ山からダマスコに戻るエリヤの熱心の模範にならってパウロもアラビアに行き、シナイ山で神様と交わり、みことばを教えられて、自分の使命を確認した。だからエルサレムで先にクリスチャンになった人たちと相談せずに、エリヤのように神様の山に行って神様と相談して神の啓示を与えられて、エリヤのようにシナイ山からダマスコに行った。そしてダマスコでキリストから与えられた使命を果たし始めたのである。復活の福音を熱心に伝えて、反対され、殺されそうになって、逃げなければならない。このパターンはパウロの人生の中でずっと繰り返される。それでもパウロはどこに行ってもキリストの十字架と復活を熱心に宣べ伝えた。

エルサレムではなくアラビアなのは、人間と相談せず、神様のところに行ったという意味だと思う。


・母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神

この言い方も目立つ。パウロが生まれる前から神はパウロを選んでいて、福音を伝えるうように計画していた。

母の胎にあるときから選ばれて、啓示を与えられて、神の栄光が現わされるために国々に遣わされる旧約聖書のストーリーがエレミヤ書にある。

【エレミヤ1:5】わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。

神からのこのようなことばがエレミヤにあった。エレミヤは生まれる前から神様に特別に選ばれて、国々に対する預言者として聖別された。

【エレミヤ1:9】そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。…

エレミヤも生まれる前から選ばれて、恵みの召しが与えられて、国々へ送られる。そして最終的にイスラエルは神の御名を賛美することになる。

パウロはガラテヤ人への手紙1章の言い方を通して、自分がエレミヤのような預言者であることを表している。ガラテヤの教会に影響を与えようとしている異端者たちは、パウロのことをイエス様に直接に選ばれていないので本当の使徒ではないと言う。他の弟子たちのように3年半イエス様と共に歩んでいないので、エルサレムの使徒たちから教えを受けて誤解してしまったというのだ。そして異端者たちは、自分たちの方がイエス様と共に歩んだ使徒たちの教えを正確に伝えることができると言う。彼らは割礼を受けなければ異邦人は救われないと言ってパウロに反対し、パウロが偽物であると主張する。

しかしパウロは人間からではなくイエス様から直接啓示を与えられたことを主張する。パウロはエレミヤについて使われていることばを自分に適用する。国々ということばがエレミヤに出て来るのはおもしろい。エレミヤはイスラエルに対する預言者であるが、エレミヤ書を読むと国々に対する預言がたくさん出て来る。エレミヤは異邦人にも遣わされていた。他の弟子たちは三年半イエス様と過ごしたが、パウロはエレミヤと同じように生まれる前から使徒となるように神様に選ばれた。自分の召し、自分の使命を弁護するときに、他の弟子たちよりも自分の方が上であるかのような言い方をする。エレミヤのような預言者であるというように自分の認識をはっきりしている。自分は他の使徒に劣る者ではない。特別に神様に選ばれて、特別な使命が与えられたことをパウロは確信している。

母の胎にある時から選ばれて働いている話のもう一つはイザヤである(イザヤ書49章)。母の胎ということばが使われているのは旧約聖書ではエレミヤとイザヤしかいない。

イザヤ書49章はヤハウェのしもべの話である。本当はイザヤ44章から続く一つの大きな段落である。

【イザヤ49:1a】島々よ、わたしに聞け。遠い国の民よ、耳を傾けよ。

異邦人に対しての話である。イザヤは北イスラエルにも南ユダにも預言する預言者であったが、国民(くにたみ)に対する預言もする。

【イザヤ49:1b~3、5~6】主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいたときから私の名を呼ばれた。主は私の口を鋭い剣のようにし、御手のk気に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された。そして、私に言われた。「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ、わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。…

今、主は言われる。ヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、母の胎内で私をご自分のしもべとして形造った方が言われる。私は主の御目に重んじられ、私の神は私の力となられた。主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまで私の救いをもたらす者とする。」

イザヤは「イスラエル」とか「ヤコブ」という言い方を使っているが、ヤハウェのしもべは最終的にはイエス様である。イエス様だからイスラエルではないということではなく、イエス様がイスラエルの使命を唯一本格的に果たすお方である。そして使命はヤハウェのしもべ全体にも与えられるものである。パウロはこの使命が自分にも与えられたことを知っている。御父がイエス様を遣わしたように、イエス様も弟子たちを遣わす。

【ヨハネ20:21】「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

弟子たちには、キリストと同じように、神様に遣わされた特別な権威、特別な使命が与えられている。

【エペソ2:20~21】使徒や預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。

パウロはこのように、使徒と預言者たちが教会の土台であるという。その土台の上に神様が建てる。神様が、啓示であり真理であるみことばを使徒と預言者たちを通して与えてくださった。私たちはそのみことばに立って、みことばの土台の上に神の御国のために実を結ぶ働きをするように召されている。

パウロは、自分が預言者であり、御国のために働くという確信を持っていた。パウロが伝えている福音は唯一の福音である。その福音は私たちにも与えられている。私たちは使徒でも預言者でもないが、私たちには福音を伝える責任がある。福音の働きにおいて実を結ぶように。神の御国を建てる使命は、もともとアダムとエバに与えられた文化大命題において与えられていた。

生めよ。増えよ。地に満ちよ。…(創世記1:28)

神の御国を造るようにという命令が人類に最初から与えられている。

イエス様が復活した後で、弟子たちに、「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。(マタイ28:18)」と言ってくださった。教会に御国を建て上げる使命が与えられたのである。

先ほどのイザヤ書に、島々とか遠い国の民という言い方があったが、私たちは確かに地の果てで働いている。私たちはパウロに与えられた福音を心に刻み、熱心に周りの人にみことばを伝えて、復活したイエス様の福音を伝える。特に復活節のときにイエス様がよみがえったことを伝える。いのちであるイエス様のみが救い主である。その特別な祝福が私たちに与えられている。私たちはパウロのように正しい意味で熱心になって復活の福音を伝えましょう。




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