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「昇天後主日」使徒の働き1:15~17、21~26

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


使徒の働き1:15~17、21~26

そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。…

ですから、主イエスが私たちと一緒に生活しておられた間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」そこで彼らは、バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフと、マッティアの二人を立てた。そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。


三日前の木曜日は、イースターから数えてちょうど四十日目でした。ということはつまりイエスの昇天日です。イエスが天に昇られた日のことで昇天祭とも呼ばれます。今日の主日を昇天祝祭と呼んで祝う教会もあります。

今日の朗読箇所を見たときに、今日の質問がわかります。イエスは天に昇ってしまいました。私たちはいったいどうすれば良いのでしょうか。


使徒の働き1章を見るとイエスは天に昇られたばかりでしたが、ここに書いてあることが使徒たちに与えられた最初の働きでした。時はイエスの昇天後でペンテコステの前でした。使徒たちが行ったのは、教会の組織を固めてこれからの働きに備えることでした。ペテロは使徒が十二人必要だと知っていました。イエスが最初に選んだのがたまたま十二人だったのではないことを理解していました。これはイスラエルが十二部族だったことと関係します。この十二人の使徒は新しいイスラエルの誕生を意味するためでした。彼らは新しく選ばれた民の頭なのです。これから建てる教会は、ゆるくて仲良しの個人の集まりではありませんし、みんなイエスを愛していてお互いを愛し合って一緒に生活して協力して人々の模範となりましょう、という人たちでもありませんでした。使徒たちは教会という組織を建てようとしていました。これは新しい祭司の民で、この地上にある天の国なのです。国ですからかなりちゃんとした組織です。言い換えると、イエスがこの岩の上にご自分の教会を建てていました。

【マタイ16:18a】そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。

ペテロは岩という意味です。イエスご自身がシモンをペテロ、ケパ、つまり岩と名付けました。イエスはペテロと使徒たちの上にご自分の教会を建てます。彼らが教会の土台となるのです。

【黙示録21:14】(天から降って来た聖なる都エルサレム)の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。

新しいエルサレムの土台には十二使徒の名前が刻まれています。

ペテロは、自分たちの使命の中心がイエスの復活を証しすることだと理解していました。だからユダが去ったあと、イエスと行動をともにした人の中からイエスの復活の証人となるためにもう一人の使徒を選ぶことにしたのです。

まず、最初からイエスとともにいた二人の男性を選びました。恐らくイエスが送り出した七十二人の中にいたと思います。

【ルカ10:1〜11】その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。

そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい。道でだれにもあいさつしてはいけません。どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。しかし、どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」

選ばれた二人はどちらもとても優れた使徒で、どちらが使徒になっても良いレベルの人でした。その一人の名はバルサバと呼ばれ、別名をユストというヨハネと、もう一人はマッティヤでした。しかし一人しか入れないのでくじを引いてマッティアが選ばれました。マッティアの名はそのあと新約聖書から消えました。伝統ではカッパドキア(今のトルコ)で宣教していたとか、エチオピアの人食い人種のところで宣教をしていたと言われています。最終的にジョージアかあるいはエルサレムで亡くなりました。それくらい彼についての情報が無いのです。しかし、彼は生きて、キリストの証人として殉教しました。


では、今日の問いに戻ります。イエスが昇天したら、私たちはどうすれば良いのでしょう。ちょうど昨日、キリストの昇天祭の二日後でしたが教会墓地のラザロ霊園で愛する家族三名を埋葬しました。晴天で明るくて、埋葬式自体がイエスの復活の証となりました。その場には教会員の喜び、平安、兄弟愛が目に見えました。確かに人は亡くなります。そしてイエスが昇天したように、私たちの兄弟姉妹も天に昇ります。十二使徒も昇天しました。そして彼らはその使命を私たちに託しました。だから今は私たちが使徒たちです。遣わされた者なのです。もちろん十二使徒やマッティアのような使徒たちではありません。私たちは復活したイエスをこの目で目撃したのではありませんし、新しいエルサレムの土台に私たちの名は刻まれないのですが、私たちは証人となるためにイエスに遣わされた者たちです。父が子を世に遣わされたように、イエスも私たちを世に遣わされました。そのために私たちは今生きているのです。

他のことが私たちの気をそらせようとします。あなたはイエスの復活を証しするために遣わされていますが、会社の社長はあなたの人生の使命は彼の会社を儲けさせることだと思っているかもしれません。あなたが通っている大学はあなたの使命はSDGs(エスディージーズ)だと言うかもしれません。義理の親たちは家族を一番にすること、そして彼らの孫がこの世での成功者となることがあなたの使命だと言うかもしれません。この世は常にいろいろな使命を通して私たちの気をそらそうとします。私たちが自分の使命を見失うとイスカリオテのユダのようになってしまいます。しかし私たちは新しく生まれた時にイエスによって選ばれて使命を受けました。私たちの使命は上から(天から)のものです。私たちは水と御霊によって生まれたのでこの世のものではなくなりました。私たちは根本的にこの世の人たちと同じように生活していますが、もう少し人に優しくして日曜日は教会に行くという生き方を目指しているわけではありません。そのレベルを目指しているなら私たちは証し人には至っていません。証し人は英語でmartyr、そのまま殉教者という言葉です。キリストを証ししたために命を失った人たちのことです。使徒たちは証しのために拷問されたりして殉教しました。マッティアも含まれています。しかし、私たちはまだ血を流すまで戦っていません。どちらかというと変な目で見られることを心配したり、周りの人たちと価値観が合わないことを心配したり、ビジネスの機会を失うことを心配したりするかもしれません。私たちにはこのレベルの心配しかないことを主に感謝します。決して迫害にあいたいとか殉教したいという思いはありません。しかし私たちの事情が変わっても恐れてはならないし、今の状況にいる間も恐れてはなりません。マッティアは証し人となって殉教者となることは名誉でした。彼が選ばれて使徒たちにも神にも選ばれて、使徒として殉教することがゆるされたことは名誉でした。

私たちもキリストの証人となることは私たちの名誉です。たとえ殉教することになったとしてもそれは名誉です。私たちはマッティアの教会の一員です。つまり使徒の教会の一員です。だから私たちは使徒の精神、彼らの霊を受け継ぐ者でなければなりません。使徒は一人以外全員殉教しました。ヨハネは殉教しませんでしたが拷問されました。

それで私たちは新しいイスラエルの一員です。天の王国、聖戦の十字軍の戦士と思ってもいいと思います。私たちはイエスによって世の中に遣わされています。

確かにそれは名誉ではありますが、私たちが自分を見つめたときに、こんな者がイエスに遣わされて良いのか、と思います。私たちだけではなく、モーセもそう思ったし、他の預言者もそう思いました。私たちが自分を見つめた時、自分の足りなさがすぐに目につきます。私たちが自分の証しを隠したくなってしまう理由は私たちの罪なのです。私たちが罪深くて、この生活をしながらイエスの証人となれるのか、私はキリストの名を掲げることができるのか、と思ってしまいます。主よどうか別の人に頼んでくださいと思うかもしれません。十二使徒たちもみんな足りない者でした。ペテロはイエスを三回も否定して、あまりにも自分を足りない者だと感じて漁師に戻ろうとしました。トマスは復活したイエスを目撃した人に囲まれても信じませんでした。イエスが逮捕された夜は使徒たちは全員逃走してしまいました。私も自分がまったく足りないものだと感じます。聖書の理解、キリストの理解、救いの理解が全く足りません。そして皆さんを理解する力も足りません。私は忍耐も自制心も愛も欠けています。神様はどうやって私を遣わすのでしょうか。しかし実際に神様は私たちのような者を選んで、実際に遣わしてくれました。このような者を通してご自分の教会を建ててくださっています。だからこれだけ時間がかかっていると言えます。

毎朝起きたときに祈ってください。今日もあなたが忠実な証し人となれるように。なぜなら私たちは毎日神様に遣わされているのですから。

私たちが使徒になれない理由はもう一つあります。それはたちがこの目で復活したイエスを目撃していないことです。しかし私たちは確かにイエスとともに歩んでいます。教会暦や聖書日課はそのためにあります。三日前はキリストの昇天日で、一週間後にイエスが御霊を送ってくださったペンテコステを祝います。このように私たちは常にイエスがなさったことを覚えて生きています。

私が牧師服に白いストールをつけているのはイエスの復活を証しする色だからです。私は牧師服を通してイエスの復活を証ししています。来週はペンテコステなのでストールの色が変わります。その次の週からはただ数字を数える長い季節が始まりますのでその時のストールは緑です。その時期はイエスの生涯ではなく、イエスの教えに集中します。牧師のストールに色があるときはイエスの生涯の出来事を覚えて一緒に考えるのですが、緑に戻った時はイエスの教えを一緒に考えます。それで私たちは一年のサイクルでイエスの人生をともに歩みます。そして聖書朗読の三年のサイクルもあります。一年目はマタイ、二年目はマルコ、三年目はルカを読み、その間にヨハネが時々入ります。このように共観福音書が三年のサイクルで回っています。

私たちは御霊を受けていて、そして聖書を渡されていて、イエスとともに歩んで信仰の目でイエスを見ています。それでイエスの使徒となることができるのです。しかしもう一つ問題があります。私たちはどうしても曲がった証し人であるということです。なぜなら私たちには一致がないからです。イエスはヨハネの福音書17章でこのように祈っています。

【ヨハネ17:11】わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。

このイエスのことばは13章のことばを思い出させます。

【ヨハネ13:34】わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

イエスがこの世を離れようとしている時に、一番気になっていること、一番中心においている点は使徒たちの兄弟愛です。イエスが一緒にいた時でさえ使徒たちはよく言い争っていました。しかし今日の私たちの状態を見てください。一つの地域教会の中でも不和があります。例えばイエスが命じたように問題がある人のところに行ってその人に直接話すのではなく、私たちはよくその反対をします。問題がある人を避けて、他の人とその問題について話して、結局その問題が解決されないでダメージが大きくなってしまうのです。また教会同士を見ても色々な問題があります。私たちはよくイエスが受け入れているものを拒否します。歴史における教会の大きな罪は、同じぶどうの木にある枝を他の枝が拒否することでした。それで御父、御子、御霊の名によって洗礼を与える他の教会、イエスの死と復活を聖餐式を通して記念する他の教会を否定したりしました。また自分たちの方が常に正しくて他はすべて間違っていると思ったり、ノンクリスチャンより扱いを悪くしてしまうこともあります。例えば他のクリスチャンや他の教会を疑ったり興味を示さなかったりします。これは大きな問題でとても複雑なのでまた別の機会に話したいと思います。ではどうすれば良いのでしょうか。まず今からでも始められることは祈ることです。お互いのために、自分の教会のために、他のクリスチャンのために、自分のコミュニティのために、周りにいる兄弟姉妹のために祈ることができます。ちょうど一週間前にキャンプの祈りのステーションでやったことでもあります。私たちはじつは一つです。私たちがそれに気づいていなくても、認めていてもいなくても、パンが一つであるように私たちも一つなのです。なぜなら御父は御子の祈りに必ずこたえるからです。たとえからだの器官がお互いに戦っていても、イエス・キリストを頭とした一つのからだなのです。

このイエスは確かに復活して昇天しました。私たちもそれを証しする者として遣わしてくださいました。だから私たちも教会歴の一年間を通してイエスと歩んで、イエスの行いを見て、イエスのことばを学んで、そしてこの世に遣わされた者としてイエスの証し人となりましょう。一つとなって真理を語りましょう。




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