説教者:ベンゼデク・スミス牧師
先週はペンテコステでしたので、私たちは教会の誕生を通して新しいイスラエルが再び生まれることを学びました。ペンテコステで聖霊のバプテスマを受けて神の子とされたばかりの教会が誕生したのです。
私たちも含めて、その人たちはこれからどのように生きるべきなのでしょうか。それがこれからの季節の問いです。これからの季節は英語ではオーディナリータイムといって、アドベントまで数えていく期間です。この季節で、私たちはイエスの教えを聞きます。これからの聖書日課は特にイエスの教えに集中します。イエスのことばを聞きながら一緒に成長していくための季節です。
御霊は、御霊のバプテスマを受けたばかりの人たちの成長を導いてくださいます。これからどのように導くのでしょうか。聖書を知っているなら、この段階で大いに心配しているはずです。紅海を渡ったばかりのイスラエルはそのあとどうなったか、あるいはイエスがヨハネからバプテスマを受けたあとどうなったかを考えるとわかります。御霊はイスラエルもイエスも荒野に連れて行きました。私たちも御霊を受けているなら荒野に連れていかれます。私たちは色々な苦難にあうことを期待するべきなのです。私たちがキリストと苦難をともにするのは、ともに栄光を受けるためなのです。このことをパウロはローマ8章で説明しました。
【ローマ8:12~13】ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。
この義務ということばは負債という意味です。私たちはもはや肉に対する債務者(借金を持っている者)ではないと教えています。というのは私たちは肉(アダムにある罪)の奴隷ではないからです。肉の奴隷とは、罪深い欲に支配されていることなのです。
【第一ヨハネ2:16】すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。
この世の欲は、富み、食欲を満たすこと、性欲を満たすこと、権力、ステータスなどを求めています。まるで自分にチョイスがないかのように、このために生涯をかけて働くのです。これが負債を抱えている人の姿なのです。そして肉の奴隷は恐れに満ちています。彼らにとってこの世の生活は恐怖に満ちていて、食べ物が足りなくなること、欲しい服が手に入らないことなどを恐れているのでお金のために一生懸命働きます。でもお金のために働くのは虚しいので忙しくない状態を恐れます。それで自分の人生を振り返ることも恐れています。その虚しさに耐えられないのです。また私たちは自分が知られること、理解されること、愛されないことも恐れます。つまり孤独でいることを恐れます。同時に心の中が恥でいっぱいなので、理解されることも恐ろしいのです。もしかして自分の中を見られたら愛されないかもしれないとか、自分は愛されるに値しないかもしれないと思って恐れます。
また、私たちはこの世の正義がないことを恐れて、恨みや復讐心をもったりします。
しかし同時に、正義があるなら自分も罰に値する者かもしれないと思い、うそをついたり自分を隠したりします。そのようにして見下されることを避けようとします。
しかし神は私たちにこのような生活を求めていません。私たちが恐怖と罪に支配されないために、神様は私たちを自由にします。私たちはむしろ神様に負債を負っている者なのですが、神様への負債とは変な感じがします。神様の恵みはただで与えられた賜物なのに、なぜそこに義務があるのでしょうか。確かに神様は恵みの賜物として私たちに救いを与えてくださいましたが、責任が伴わないわけではありません。私たちは恵みを受けた者として、その恵みに沿った生き方をしなければならないとパウロが教えているからです。
【ローマ8:1】こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
私たちは罪に定められることを恐れる必要はまったくないのです。もうすでにその恐怖から解放されています。
【ローマ8:2】なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。
確かに罪と死の律法から解放されたのですが、だからといって私たちに何の律法もないという意味ではありません。今度は御霊の律法の下で自由になっているのです。
【ローマ8:3〜4】肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。
私たちは罪と律法の奴隷状態から解放されました。解放されたら、今度は御霊に従って歩むのです。私たちは洗礼を受けて、神に対しての義務があります。神の子としての歩みなのです。神の子として御霊が私たちを導いてくださいます。
イスラエルのことを思い出しましょう。
イスラエルはエジプトで奴隷状態でした。そこで神様はモーセを送って彼らを神の子として自由にしようとされました。
【出エジプト4:22〜23a】そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
神様は、イスラエルはファラオに仕える者ではなくて神に仕える者であると言います。
【ホセア11:1】イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、エジプトからわたしの子を呼び出した。
しかしイスラエルの心はまだ奴隷でした。彼らはまだ恐怖に支配されていました。解放されて自由な状態になることを恐れていました。モーセとアロンは彼らを救うために来たのですが、その結果、ファラオは彼らを解放せずにもっと重荷を重くして抑圧するようになりました。するとイスラエルは逆にモーセとアロンに対して怒ったのです。そのようにからだも心も奴隷状態だったイスラエルを神様はエジプトから引っ張り出してくださいました。
【申命記26:8】主は力強い御手と伸ばされた御腕によって、恐ろしい力と、しるしと不思議をもって私たちをエジプトから導き出し、…
神様はイスラエルを救ってくださいました。彼らは新しく生まれ変わりました。紅海を通ることによって洗礼を受けました。神の栄光の雲、つまり御霊が彼らを導いていたのです。どこに向かうのかというと約束の地です。私たちが神の子とされたときに神様はこのように導きます。もはや肉に導かれるのではなく神の霊によって導かれるのです。それがイエスがヨハネ3章で言っていることです。
【ヨハネ3:6~8】肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。
では御霊は私たちをどこに導くのでしょうか。まずはすぐに荒野に導きます。それで荒野にいる間は、風がどこに吹くかわからないので私たちはさまよいます。自分がどこに行くかを自分で決めません。自分で決めるならまず荒野には行かないでしょう。
荒野には、試練、苦しみ、苦難がたくさん待っています。そしてここで神様が私たちと格闘して、私たちを強くして、私たちが約束の地に入って戦って征服できるように強めます。神様はイエスにもこのようにしました。
御父はイエスがバプテスマを受けた時に「わたしの愛する子」と宣言して御霊を与えました。そして御霊はすぐにイエスを荒野に連れ出しました。そこで悪魔に試されました。「あなたが本当に神の子であるなら…」と言って試されました。
「あなたが本当の神の子なら苦しむことをやめてパンを食べなさい。」と悪魔は言いました。悪魔の誘惑は「あなたが本当に神の子であるなら苦しまないはずだ。」ということでした。私たちも苦しいときに、これでも私は神の子なのですか、と神の愛を疑ったりしてしまいます。
しかしイエスは神の子であることがどういう意味なのかよくわかっていました。この荒野にいる状態こそ神の子の状態なのです。神様がヤコブと格闘したように(創世記32:24)、父親たちは息子たちとレスリングをしたりします。息子に苦難を与えて、その子が勝利するまで戦い続けます。そのように私たちがぶつかる苦難はすべて御霊によって導かれているのです。だから恐れる必要はありません。むしろ私たちは全能の神を「アバ、父」と呼んで信頼して祈ることができます。神様は御子を愛したような全き愛で私たちを愛してくださるからです。
【第一ヨハネ4:18a】愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
私たちは食べ物や服が足りなくなることを恐れる必要はありません。神様は私たちの必要をよくご存じで、そして満たしてくださいます。
私たちはさばきを恐れる必要はありません。神様は私たちの罪のさばきをご自分の身で受けて、私たちを赦して義と認めてくださいました。
私たちは見られることや理解されることを恐れる必要はありません。神様は私たちをご覧になってこんな私たちを愛してくださいます。
私たちは孤独を恐れる必要はありません。御父はいつも私たちとともにいて、私たちが兄弟姉妹に囲まれるように導いてくださいます。
私たちは非難されたり、拒絶されたりすることを恐れる必要はありません。神様が私たちの住まいだからです。
洗礼を受けてから長い時間がたっている人もいると思いますが、ある意味でそのような人でも荒野にいます。この世をさまようこともこの世の誘惑もすべてが荒野だからです。私たちはまだ約束された安らぎに入っていません。しかし別の意味で荒野からカナンの地に入っているかもしれません。つまり私たちのヨシュア(イエス・キリスト)のもとでこの世の王国を服従させる戦いに挑んでいるのかもしれません。全世界はキリストの相続だからです。私たちもキリストのように神の子であるなら相続分があります。イスラエルにはカナンの地が約束されていました。しかしこれはある意味で頭金です。これからもっと与えられるという約束でした。アブラハムにはその子孫(イエス・キリスト)を通して全世界が与えられることが約束されていました。イエス・キリストはこの地を受け継ぎます。だから私たちもイエスとともに受け継ぐことになります。
御霊は実際に私たちをどこに導こうとしているのでしょうか。どこへ行けばいいのでしょうか。それはどこでわかるのでしょうか。私たちは受け身的にただ強い風に吹き流されるまで座って待っていれば良いのでしょうか。そうではありません。
イエスが荒野で一人で祈られたように、私たちはまず一人で祈る時間をもつ必要があります。御言葉を読んで瞑想する必要があります。その時に御霊の風がどの方向に吹いているのか感じ取ることができます。
しかしこれだけでは足りないと思います。むしろこれだけでは危険です。一人で祈るだけなら結局は常に一人で歩むことになります。イエス・キリストは神の動く神殿、つまり天幕でした。それでイエスが荒野にいた時でもじつは神殿の中から祈りをささげていたのです。私たちが祈るときにもイエスのからだという神殿の内から祈る必要があります。つまり神の民である教会として祈る必要があるのです。神の声に耳を傾ける時も、イエスのことばを聞いて理解しようとするときも、神のことばが力と権威をもって語る場所に行かなければならないのです。それはケルビムの間であります。出エジプト記25章から抜粋して読みます。
【出エジプト25:17a、18a、19a、20a、22】
純金で『宥めの蓋』を作り、
二つの金のケルビムを作る。
一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作る。
ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で『宥めの蓋』をおおうようにする。
わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてなたに与える命令をその『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る。
神様がモーセに天幕と契約の箱の作り方の指示を出しているところです。なぜ純金で作るのかというと、金は炎を表す光り輝く固体で栄光を形にしたようなものだからです。
そして神様はケルビムの間から語ります。今日はイザヤ6章から神の御座について読みました。これは単に幻で比喩的なものではなく、イザヤは実際に天の状態を見ていました。それで私たちが教会に集まって聖餐式を受ける時もその神の御前に集まるのです。そしてケルビムの間から語られる神のみことばを聞きます。私たちが一致をもって導かれるためには、一緒に聞いて一緒に祈る必要があるのです。イエスは一つ。神殿は一つ。私たちはその一つのイエスのもとに集まって来ました。するとイエスはご自分の教会というすべての軍勢を導いてカナンの地を征服します。その時に当然苦難にあいます。実際の物理的な戦争が体の苦しみを伴うように、霊的な戦いもたくさんの犠牲と苦難が伴います。私たちがイエスとともに苦しむならそのような苦しみはイエスの栄光につながります。それがパウロが最後に伝えていることです。
【ローマ8:17】子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
私たちはこれから聖餐式でキリストのからだと血を受けますが、十字架にかけられて栄光を受けたキリストと一つとなります。
【イザヤ6:8】私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
私たちも行いを通してこのように語ります。イエスが遣わされたように私たちも遣わされるのです。礼拝の最後に、イエスは私たちをご自分の御名によって、どこにでも御霊が導くところに遣わします。
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