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「三つの質問」ピリピ3:1〜3

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ3:1〜3(青字はラルフ・スミス牧師独自の翻訳)

最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。

では、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためになります。

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。

警戒しなさい。その犬どもを。警戒しなさい。悪を行うその者たちを。警戒しなさい。その割(かつ)を行うその者たちを。

神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。

彼らではなく、私たちこそ割礼の者です。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らないからです。


今日からピリピ人への手紙の説教に戻るので基本的なところを復習しようと思う。

AD62年頃、パウロはローマに軟禁されていたが、その状態で四つの手紙を書いた。このピリピ人への手紙はその獄中書簡の一つである。(他に、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を書いている。)

AD50年頃(手紙を書く12年前)にパウロはシラスと一緒にピリピの教会を設立し、それからずっとパウロはこの教会と親しくしていた。ピリピの教会はパウロに何回も献金して支えてくれたので、ピリピ人への手紙は四つの獄中書簡の中で一番パウロの親しみを表していると思う。


今日はピリピ3:1~3を学ぶが、まず三つの質問がある。

なぜ1節はこのような不思議な書き方になっているのか。

2節はだれに話しているのか。

3節でパウロはどのようにキリスト者を定義しているのか。


●なぜ1節はこのような書き方になっているのか。

最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。(3:1)

では、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためになります。

最後に、」よりも「では、」の方が正しいと思う。英語やギリシャ語の訳を見て比べたりしたが、これだと思うものがなかったので、あちこちからことばを借りて英語の訳やギリシャ語の訳からも借りて、自分で翻訳した。

1節の不思議な言い方でパウロは何を言おうとしているのかを考えるために、1節を二つにわけて考えてみる。

私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。(3:1a)

ピリピ人への手紙は4章しかないが、「喜ぶ」ということばは名詞と動詞を合わせて16回も出てくる。他のパウロの手紙の中で「喜ぶ」がこんなに出て来る手紙はない。コリント人への手紙第二には13回出て来るが13章まである長い手紙であることを考えると、ピリピ人への手紙は喜ぶことを非常に強調している手紙であることが分かると思う。

「主にあって喜びなさい。」という言い方を読むと自然に詩篇を思い出す。私たちは詩篇からいろいろな表現で主を喜ぶことを教えられているが、詩篇全体は主を喜ぶための詩(うた)である。喜ぶことと感謝することは一緒に考えて良いと思う。

パウロは兄弟たちに喜びなさいと言っているので、ピリピの教会全体が一緒に神様への喜びをささげるように命令し、励ましている。つまり礼拝のことを話していると思う。パウロは「いつも主にあって喜んでいなさい。(ピリピ4:4)」と命令しているのでもちろん礼拝以外に喜んではいけないというわけではない。しかし特に全体として聖日礼拝に集まって一緒に神様への感謝と喜びの歌をささげることをパウロはここ考えている。教会にとって一緒に神様の御恵みを喜ぶことがどんなにふさわしいことかをパウロは話している。

ピリピの教会は何について喜ぶのだろうか。この箇所の前後には、悲しみや苦しみ、迫害などの話が出て来る。つまりパウロは豊かに満たされて気楽にしている教会に手紙を送っているのではない。今まで試練にあってきた教会で、これからも試練にあう。その教会に主にあって喜びなさいと手紙を書いている。ウクライナの兄弟姉妹たちを思い出す。ウクライナの教会は戦闘機やドローンが飛んでいる中で、礼拝中もそれ以外の働きの時も神様に感謝と喜びをもって過ごしている。

私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。(3:1b)

同じことをもう一度書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためになります。

パウロは同じことをもう一度書くと言うが、それはこれからの警告のことである。

【ピリピ3:18】というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

最初にパウロがピリピの町に行ったのはAD49~50年頃で、エルサレムの会議の後だった。エルサレムの会議で扱った問題は、異邦人はユダヤ人のように割礼を受けなければ救われないのか、ということだった。これが当時の教会の間で大きな問題になっていたのでこの会議が開かれたのである。聖書をあまり読んだことのない人にとっては、なぜ割礼がこれほど大きな問題になるのかわからないかもしれないが、ユダヤ人にとって割礼はアブラハムに与えられた契約のしるしとしてとても大切なものだった。アブラハムの子孫とアブラハムの契約に属する者(いずれも男性)はみんな神の命令で生まれて八日目に割礼を受けなければならなかった。アブラハム契約が救いの土台であるからだ。

だから異邦人が割礼なしでアブラハムの救いにあずかることができると言われてもユダヤ人には理解できなかったのである。このように割礼が問題になったのは割礼の深い意味からきたことであった。それでパウロはこの人たちに警告している。パウロは、ピリピの教会を始めた時に異邦人に割礼はいらないというエルサレム会議の結論を教えた。しかしクリスチャンになったユダヤ人の中には、パウロに反対して異邦人も割礼を受けなければ救われないと訴える人たちがいた。反対する人たちはいろいろな教会にいるので、異邦人たちは影響を受けてしまうおそれがあった。ユダヤ人は昔から神の民だったし自分たちより聖書のことをよく知っているので、なぜパウロと意見がちがうのか分からなくて迷ってだまされて割礼を求めなければならないと思ってしまうおそれがあった。

パウロが最初に書いた手紙はガラテヤ人への手紙である。エルサレム会議の前に書かれたものなので割礼の問題を取り扱っている。

【ガラテヤ5:2~6】キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

割礼はアブラハムだけではなく、モーセの契約のしるしにもなるので、割礼を受けるなら律法全体を行う義務が生じるのである。

【ガラテヤ5:18】御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

異邦人はモーセの律法の下に歩むのか、御霊は律法によって与えられたのか、とパウロはガラテヤの教会に問いかけている。ペンテコステの日に御霊が与えられて、新しい契約、新しい時代が始まった。主イエス・キリストを信じる者はバプテスマを受けて御霊が与えられた。古い契約はすべてキリストによって成就されて、イエス様を信じる者はイエス様ご自身を着ているのである。

【コロサイ2:11】キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。

イエス様を信じる者は割礼の本当の意味をキリストにあって与えられている。キリストがすべての律法の意味であり、成就であり、目的である。だからキリストが与えられた者が律法に戻ってしまうなら、イエス様を捨てることになる。イエス様より影である律法を選ぶことになってしまうからだ。だからパウロはこの人たちのことを十字架の敵であると言うのである。キリストを選ぶのか、モーセを選ぶのか。モーセの律法は教えとしては残るが、守らなければならない契約としてはキリストにあって終わりになった。ただしこの時代に少し複雑なのは神殿が建っていることである。神殿はイスラエルが神の民であることを象徴するものである。パウロたちも神殿で礼拝したりする。神様の本当の民は古い契約のイスラエルなのか、新しい契約の教会なのか、異邦人が混乱してしまうのもわからなくはない。だからパウロは主にあって喜びなさいと言う。喜ぶなら混乱することはないからだ。キリストに目を留めるなら混乱させられることはない。


●2節はだれに話しているのか。

犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。(3:2)

警戒しなさい。その犬どもを。警戒しなさい。悪を行うその者たちを。警戒しなさい。その割(かつ)を行うその者たちを。

それでパウロは三回も警戒しなさいと言う。原文はとても強い言い方を使っているので「気をつけなさい」だと言い方が少し弱く感じるのでこのように訳してみた。スミス牧師は1905年の文語訳のように警告のことばを先に持って来てあとで目的語を言うように翻訳した。

・警戒しなさい。その犬どもを。

これはとても深い皮肉である。じつはユダヤ人は異邦人を犬と呼んだりしていた。これはとんでもない失礼な言い方である。かわいいペットという意味ではなく、汚れているという意味で使っていた。犬は豚と同じように何でも食べる動物で、当時の犬は町の中でごみを食べていた。異邦人はユダヤ人の観点から見れば豚のような汚れたものも食べていたので、当時のユダヤ人は異邦人のことを犬と同じようなものだと考えていた。

しかしパウロはここではクリスチャンになったユダヤ人のことを犬と呼んでいる。だから皮肉なのである。あなたたちこそ汚れたものを食べている。あなたたちこそモーセの律法を破っている。あなたたちこそ汚れている。パウロはこのように言う。この人たちこそ犬のような生活をしているのである。スミス牧師がその(犬)、その(者たち)、その(割)と三回も言うのは原語にも定冠詞が三回ついているからである。それによってピリピの教会は、だれのことについて話しているのかがわかる。大雑把に話しているのではなく、ピリピの教会が知っているその誰かのことである。

・警戒しなさい。悪を行うその者たちを。

「悪を行うその者たちを。」というのも不思議な言い方である。悪を行うというと犯罪のことを考えるだろう。この人たちの犯罪は福音を曲げることである。この人たちはイエス様の十字架の敵で、この人たちの未来は滅びである。神のみことばを曲げる以上に大きな深い罪はないからである。

【第二コリント11:12~15】私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。

同じようなことをやっている異端者たちはサタンのようだとパウロは言う。黙示録の中でもこのように福音を曲げる者たちがサタンのしもべであるような箇所がある。これこそ悪だとパウロは言う。

・警戒しなさい。その割(かつ)を行うその者たちを。

割(かつ)という言い方は文語訳から取ったものであるが、その意味はただからだに傷をつけるということである。つまり本当の意味での割礼ではなく、偽物の割礼である。パウロはこれはまったく割礼ではないと言う。からだにいかなる傷もつけてはならない(レビ21:5)というみことばがある。神を信じないで偶像礼拝を行っている異邦人は自分のからだに傷をつけたりする。エリヤとバアルの預言者が戦って、お互いに神の名を呼び、火をもって答えるのがまことの神であるということにした(第一列王記18章)。バアルの預言者たちは自分の神を呼んでも答えがないので、彼らの習わしで自分の身を血が出るまで傷つけてバアルに騒ぎ立てたが答えはなかった。ところがエリヤが神の名を呼ぶと、わざと水に浸した全焼のいけにえの雄牛が焼き尽くされた。自分の身に傷をつけるのはこのバアルの預言者たちのようなイメージなのである。

クリスチャンになっていたユダヤ人たちが異邦人に勧める割礼はいわゆる割礼ではなくて、偶像礼拝をする異邦人のようにただからだに傷をつけるだけのものであった。その意味でこの皮肉は非常に深い。この人たちは全く完全に神様のみことばに逆らっている。だから十字架の敵なのである。


●3節でパウロはどのようにキリスト者を定義しているのか。

神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。(3:3)

彼らではなく、私たちこそ割礼の者です。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らないからです。

・彼らではなく、私たちこそ

この言い方はギリシャ語のニュアンスを表現するための意訳である。ギリシャ語の文章は「私たち」から始まる。普通ならギリシャ語の代名詞は動詞の中に入っているのでいらないのだが、代名詞を使うとすれば何かの強調のためである。このように文章の一番最初に代名詞をもってくると一番強調が強い言い方になる。

新共同訳は「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。」となっている。彼らではなく私たちこそ、という対比が意訳的だが良いと思う。

・割礼の者です

キリストにあって信仰が与えられて、バプテスマを受けて御霊が与えられた人こそ割礼の者である。つまりアブラハム契約に属する者であるということだ。本当のアブラハムの契約の子孫である。だから私たちこそ割礼の者である。

21世紀の私たちはクリスチャンとしての信仰を考えるときに割礼を考えなければならない。そして私たちのルーツはアブラハムの信仰とアブラハムの契約にあることを覚える。私たちの信仰の根は非常に深くて、アブラハムの子孫はどのように生きるものであるのかということを、パウロは三つの表現で言う。

・神の御霊によって礼拝し、

これも聖日礼拝のことを表すし、個人のことも表す。

【ローマ12:1】あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

これは個人一人一人に対して言うことでもあるし、地域教会として自分を神にささげる礼拝を行うことでもある。毎週の聖餐式の終わりに、私たちは自分を神にささげる祈りを行っている。これはローマ12:1に基づいた祈りである。本当のアブラハムの子孫の特徴は、御霊によって神様に礼拝をささげることである。

・キリスト・イエスを誇り、

メシアであるイエス様を誇ることである。このことばの元々の意味は「誇る」だが、「喜ぶ」とオーバーラップすることもあるので翻訳によっては「喜ぶ」と訳すものもある。あなたの誇りは何か。人によっては、車や顔や仕事を誇る。しかし本当のクリスチャンはメシアであるイエス様を誇る。

【ガラテヤ6:14】しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

主イエス・キリストの十字架以外に誇りはない。キリストの十字架以外のものを誇ってはいけない。イエス様こそ私たちの誇りである。車を誇りと思えば洗ったり大切にしたりするし、自分の車について人に話したり見てもらおうとするだろう。というより見せようとするだろう。その人が何を誇りとするのかを知るには口から出ることばを聞けばよい。皆さんの周りに住んでいる人たちや一緒に働いている人たちにあなたのことを尋ねたら、イエス様を誇りとしている人であると答えるだろうか。私たちがイエス様ご自身を誇りとしていることが周りに伝わっているだろうか。そのように見えるだろうか。誇りとするものは自然に口から出て来るし、隠すことはできない。

本当のクリスチャンは御霊によって神様に礼拝をささげる。本当のアブラハムの子孫は主イエス・キリストご自身を誇りとする。

・肉に頼らない。

自分に頼らない。律法に頼らない。神様のみに頼る。神様のみから救いを求める。恵みの救いを求める。自分の力、自分の知恵、自分の何かに頼ることをしないで、100%神様の恵みのみを信じている。


この三つの表現が本当の割礼を定義している。アブラハムの契約の子孫の本当の意味を定義している。主イエス・キリストの十字架以外に誇るものを警戒しなさいとパウロは言う。この人たちは偽の教師である。唯一の救い主はイエス様で、主イエス・キリストを誇りとして御霊の力をもって礼拝をささげて、自分の肉に一切頼らないで恵みのみを求める。パウロはこのピリピ3:1~3でそのように私たちを励ましている。

毎週の聖餐式のときに信仰をあらたにして、イエス様の十字架のみによって救われたことを誇りとして聖餐をいただく。




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