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「肉を誇るな」ピリピ3:4〜9

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ3:4〜9

ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

イエス様の使徒たちの中で、パウロはだれよりも苦しい人生を歩み、そしてだれよりも実を結んだ。パウロの手紙を読むと、多くの苦しみにあいながらもその忠実さゆえに感動する。

前回はピリピ3:1〜3を一緒に学んだが、その中でパウロは警戒しなさいと三回も繰り返す。だれに警戒するのか、なぜ警戒するのかというと、一部のユダヤ人クリスチャンたちである。彼らは異邦人が救いを得るためには割礼を受けなければならないという間違った教えを伝えていた。ユダヤ人にとって、割礼はアブラハム契約のしるしだったからである。アブラハムは九十九歳の時に割礼について命じられて、アブラハムの家に生まれた赤ちゃんも八日目に割礼を受ける。もし割礼を受けないならアブラハムの子孫ではない。

アブラハムの契約のしるしはモーセの契約のしるしでもあって、割礼はアブラハムからイエス様までユダヤ人の契約のしるしであった。イエス様が十字架上で死んでよみがえって昇天した時に御霊を与えてくださって、新しい契約の時代が始まった。

新しい契約の時代の最初の教会会議の問題は、異邦人がイエス様を信じたときに割礼を受けるべきかどうか、ということだった。そしてイエス様を信じた異邦人は割礼を受ける必要はない、という結論に達した(使徒の働き15)。しかし、その会議の結論が出た後も、イエス様を信じた異邦人は割礼を受けなければならないと信じるユダヤ人クリスチャンたちがいて、ずっとパウロに反対し続けて、教会にもそのように教えてしまっていた。

第二コリント全体は、パウロが本当に使徒であることを深く説明している。なぜならパウロに反対するユダヤ人たちがパウロのことを本当の使徒ではないと言っていたからである。イエス様がよみがえったあとでパウロが使徒となったので、パウロは偽物だと言われていた。だからパウロは自分が伝えている福音を守るために、そして教会を守るために、自分は本当にキリストに選ばれた使徒であると証明しなければならなかった。

イエス様を信じた異邦人は割礼を受けなければならないと教えるユダヤ人がピリピにもいたが、教会の中にいたわけではなかったので、パウロはその影響が教会に来ないように警戒しなさいと教えていたのである。


●肉を誇る

自分の肉を誇るとは割礼を誇るということである。自分自身のことを誇る人のことである。

しかし彼らが肉を誇るなら、パウロはそれ以上である。

【ピリピ3:4】ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。

「肉において頼る」というのは「肉において確信をもつ」という訳の方が原語に近い。他の人が自分のことについて確信をもつなら、パウロはそれ以上である。それから確信をもつことについての七つのリストが続く。

【ピリピ3:5~6】私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

●八日目の割礼

リストの最初は、イスラエル人でもなく、ベニヤミン族でもなく、八日目の割礼のことであった。まずこれを言う。割礼はそこまで大きな問題であった。

●イスラエル民族、ベニヤミン部族、へブル人

原語では「~から」という前置詞で始まっている。自分はイスラエル民族から生まれた者である。自分はベニヤミン族から生まれた者である。自分はへブル人の中からのへブル人である。

これこそ異邦人に割礼を受けるように教えるユダヤ人の誇りである。イエス様の時代のパリサイ人は異邦人を犬と呼んで見下していた。モーセの時代は、モーセの律法の中では、異邦人はペンテコステの祭りに参加できる。仮庵の祭りにも参加できる。過ぎ越しの祭りには参加できないが、毎週の安息日でも他の祭りでも異邦人がいっしょに参加できるという律法だった。全世界に救いを与えるために神様はアブラハムを選んで契約を与えてくださった。全世界を見下すためではなかった。

しかしイエス様の時代のイスラエルは、自分たちの歴史の役割を忘れている。アブラハムの子孫であることに傲慢になって、アブラハム契約の本当の意味を完全に曲げてしまった。この人たちがイスラエルであることを誇りに思うなら、パウロはそれ以上である。最初の王サウルはベニヤミン族出身だった。だからベニヤミン族は自分たちのことを誇りに思っていた。

次のリストは「~について」が三つ続く。

●律法についてはパリサイ人、熱心については教会を迫害したほど、律法による義については非難されるところがない者。

・律法についてはパリサイ人。

パリサイ人は当時のイスラエルの中で一番忠実にみことばを守っていた。そして一番深く律法を学んでいる律法の専門家であった。パリサイ人であることは一般のユダヤ人よりも特別なことであった。以前パウロはユダヤ人の前でこのように弁明していた。

「私はキリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町(エルサレム)で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした」(使徒の働き22:3)

ガマリエルは当時のパリサイ人の中で一番優れた学者であり、パリサイ人の中のパリサイ人で一番尊敬されていた。この人のもとで学んだパウロも尊敬されるべきパリサイ人であった。

・熱心については教会を迫害したほど。

パウロは教会を迫害するほど熱心であった。これはユダヤ人の観点から考えなければならない。

旧約聖書で熱心ということばが使われているイスラエル人は二人いる。

一人は民数記25章のピネハスである。イスラエルの民が偶像礼拝をしていた時、あるイスラエルのリーダーの一人がモアブ人の女を連れてきて、みんなの前で罪を犯そうとした時、熱心なピネハスは神の栄光のために妬みをもって二人を殺した。偶像礼拝の律法のさばきは死刑である。ピネハスは祭司で、その熱心が熱心の定義になっていた。

もう一人はエリヤである。エリヤはアハブの時代の預言者だった。偶像礼拝をしているイスラエルを止めるためにエリヤとバアルの預言者が戦って、お互いに神の名を呼び、火をもって答えるのがまことの神であるということにした(第一列王記18章)。バアルの預言者たちは自分の神を呼んでも答えがないので、彼らの習わしで自分の身を血が出るまで傷つけてバアルに騒ぎ立てたが答えはなかった。ところがエリヤが神の名を呼ぶと、わざと水に浸した全焼のいけにえの雄牛が焼き尽くされた。エリヤは民に命じてバアルの預言者たち四百五十人を集めて殺した。

熱心だから教会を迫害する。教会がユダヤ人のリーダーたちが偽物であると訴えているからだ。イエス様が本当のメシアで、そのイエス様が神殿でリーダーたちに繰り返し偽善者であると言って訴えた。そのようなイエス様はユダヤ人にとっては耐えられない預言者だったので殺した。しかしイエス様はよみがえった。教会が福音を伝えるときに、ユダヤ人のリーダーたちはイスラエルのメシアを殺したと伝えた。だからユダヤ人のリーダーたちはペテロもヨハネも迫害する。

パウロはステパノが殉教したときにユダヤ人の側に立ってそれに賛成していた。さらにダマスコに行って主イエスを信じる者を捕らえて会堂からエルサレムに引いて来るつもりだった。それほどパウロは熱心だった。しかしパウロがダマスコに行く途中にイエス様が現れて、その時からパウロは救われてイエス様を信じて100%変わった。ダマスコについてバプテスマを受け、今度はイエス様がメシアであることを聖書から説明したりした。これを見たユダヤ人たちは非常に驚いた。

【ピリピ3:7~8】しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。

パウロはそれまで得だと思っていたものをすべて損と思うようになった。実際に使徒の働き9章のパウロのストーリーでそれを見ることができる。パウロは熱心において教会を迫害したパリサイ人であったのに、それを捨てる。イエス様が本当のメシアであると伝えるパウロを、イスラエルのリーダーたちは許せなかった。それでパウロは何度も殺されそうになり、迫害された。

・律法による義について非難されることがない者だった。

律法による義とは罪がないという意味ではなく、律法を守っているということである。例えばモーセの十戒を考えると、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、むさぼるな、という命令があるが、これらはある意味で守りやすい。パウロは偶像礼拝もしなかったし、安息日も真剣に守っていた。父と母を敬って、律法による義について非難されていない。これもすべて、パリサイ人であることなどと同じように誇ることができる得として考えることができるものだった。しかしそれらをパウロは損と思って完全に捨てた。主イエス・キリストにある正しさ、主イエス・キリストとともに神の御前に立つこと、イエス様の弟子として歩むことの方が大切だと思い、誇ることのできることを今では損(原語では)と思うようになった。マイナスと思うようになった。ユダヤ人で割礼を受けていて律法を守っていることを誇るなとピリピの教会に教えて、イエス様がすべてであることを伝えている。ユダヤ人はそのためにパウロを迫害してパウロを殺そうとするが、パウロの模範は私たちにも与えられている。私たちも同じように主イエス・キリスト以上に誇ることがあってはならない。イエス様のみを誇る。主イエス・キリストを信じる信仰のみによって永遠のいのちを得る。主イエス様のみが十字架上で私たちの罪のために十字架にかかってくださった。全人類の中でイエス様だけがよみがえった。そして天に昇って、信じる者に永遠のいのちを与えてくださる。私たちは毎週の礼拝の聖餐においてそのことを記念する。主イエス・キリストを覚えて一緒に聖餐をいただきたいと思う。




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