説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ3:10~11
私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
パウロはピリピ3章の初めからずっと自分のことを語っている。
【ピリピ3:17】兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
パウロが自分の経験を話す目的は、自分の模範を示すことによって彼らが成長するためである。
彼はキリストのゆえにすべてを失ったが、ユダヤ人が誇りに思うものすべてを損だと思っている(3:8)。
今日の箇所をギリシャ語の原語の通りに訳すとこうなる。こちらの方がニュアンスが伝わると思う。
「それはキリストを知るためです。そしてその復活の力を。そして苦しみの交わりを。キリストの死の姿にあやかり、何とかして使者の中からの復活に至りたいのです。」
「キリストを知るためです。」というところから始まる。他は全てキリストを知るとはどういうことか、どういう意味なのかを語っている。パウロは自分のことを語っているが、同時にピリピの教会に模範を示している。
書き方として、この四つが並行しているわけではないが、並行しているものとして考えてみる。
・復活の力
・キリストの苦しみの交わり
・キリストの死の姿になるように
・死者の中からの復活に至る
⚫️復活の力
パウロは「私の主であるキリスト・イエスを知っていること(3:8)」と前のところで言う。パウロが書いた手紙の中で、私たちの主イエス・キリストとか、私たちの主イエスという表現が5~6回使われていると思うが、私の主という表現はパウロの手紙の中でここだけである。それは自分とキリストとの親しい交わりを通して、キリストを知ること、キリストご自身に近づくことを表している。知識ではなく親しい愛の交わりにおいてキリストを知ることについて話して、その中でキリストの復活の力について話す。この復活の力をパウロの人生においてよく見ることができる。パウロはダマスコに行く途中で復活したイエス様に出会い、イエス様を信じて福音を伝え、御霊の力を与えられて、復活の証しをした。そしてパウロを通してイエス様の復活の力を見た人々がたくさん救われた。そして復活して神の右の座にすわっているイエス様の御名によって多くの奇跡を行った。それもイエス様の復活の力を表している。いのちなるイエス様がパウロを通して働き、福音を用いてたくさんの人が復活したイエス様を信じるようになった。復活したイエス様の力を知ることは福音においてもパウロの奇跡においても表れている。
⚫️キリストの苦しみの交わり
パウロがイエス様とともに苦しむということは、パウロが回心した時に、主がダマスコの弟子アナニヤに幻の中で語られたことである。
【使徒の働き9:15〜16】「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」
コロサイ人の手紙の中でも、パウロは「教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている(コロサイ1:24)」と言っている。パウロが救われた時からキリストのために苦しむことが使命の中に含まれていた。パウロだけでなく、ペテロもステパノもそうだった。キリストのために苦しみを受けて、十字架を負ってキリストに従って歩む。苦しみを受けることはキリストとの交わりである。キリストのような者になっているので、キリストと親しくなって同じようにキリストの苦しみを受けなければならなかった。
●キリストの死の姿になるように
パウロは第二コリント4:11で「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。」と言っている。パウロはキリストのために迫害を受けて殺されそうになったことが何回もある。苦しみの交わりとキリストの死はオーバーラップしている。
【第二コリント11:21b〜28】何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
パウロは、キリストと共に死に、共に苦しみ、キリストが経験した大変なことを全て経験した。パウロは教会のことも心配している。教会の中に問題があると、その重荷はパウロの肩に乗る。それもイエス様と同じである。パウロが教会を心配して、教会のために自分のいのちをささげることは、キリストと共に苦しみの交わりをもつパウロの証しである。
⚫️死者の中からの復活に至る
未来の復活のことであるが、堅忍の話である。パウロ自身は最後まで信仰を守って、最後までキリストに従って、キリストの御心を行うことができるように堅忍して、神の御国で復活することを求めて歩んでいる。それでパウロはピリピの教会に模範を示している。
パウロはピリピに書いた四つのことを、同じようにエペソの教会にも書いている。
【エペソ3:16】どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
私たちの内に働く力は、主イエス・キリストの復活の力、神様の御霊の力である。ピリピの教会の人たちも主イエス・キリストの復活の力を、自分たちの体験によって知ることができるように。自分たちの心の中に働く神様の御霊の力は復活したイエス様の力である。復活したイエス様は御霊を教会に注ぎ出して、ピリピの人々がその御霊の力を知って、神の御国を求めるようにとパウロは求めている。
パウロはピリピの教会に言う。あなたがたは信仰が与えられただけではなく、キリストのために苦しむことも与えられた。これは当時の教会にとって特別な意味がある。
【マタイ23:34〜36】だから、見よ、わたしは預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
アベルの時から、正しい人が殺されたその血の責任はすべてこの時代に来る。イエス様のためだけではなく、イエス様に従った聖徒たちのためでもある。イエス様が十字架につけられたあとで御霊を送ってくださったが、この御霊が教会の中で働いてその証しがその世代に与えられたが、人々はその証しを聞かずに聖徒たちを殺したり迫害したりした。この殉教者の時代にたくさんのクリスチャンが殺された。この時代に特に神様のさばきを招いた。パウロが作ったたくさんの教会がイエス様の御名のために迫害されたが、特にAD64年から70年まで激しく迫害された。最初の世代はたくさんの苦しみを受けて、キリストとともにキリストのために苦しむことを経験した。それはキリストの死と同じ形になる。たくさんの殉教者がキリストのように神様にいのちをささげることになった。しかし最後まで堅忍する者はキリストと共に栄光を受ける。パウロが堅忍の模範を示すことによって、迫害を受けても殺されても最後まで信仰を保ち、復活したキリストとともに永遠の栄光を受けるためである。死んで天国へ行くことがポイントではない。死んだら天国に行くが、私たちは復活の栄光を求めている。それがポイントである。教会全体が復活して、イエス様の花嫁が完全に一つになって永遠の栄光に入るのが私たちの求めている最終的なところである。
パウロはこのようにピリピ書に模範を示してこのことを話したが、私たちにも同じように話している。
私たちは主イエス・キリストを知ることを求める者として、主イエス・キリストの復活の力を働かせることを求めるようにパウロの模範とピリピの教会の模範がある。福音を伝えることもそうだし、毎日の生活において感謝と喜びをもって神様に従って歩むことが復活の力を働かせることである。奇跡を行わなくても、人々が驚くようなことをしなくても、感謝の心をもって神様の御恵みを喜ぶ者として、御国を求める者として毎日の生活を真剣に歩むと、私たちは神の御国のために実を結ぶ。
私たちにとって主イエス・キリストの苦しみの交わりにあずかることとは何か。日本にいる私たちの教会の場合は、ピリピなどの最初の時代のクリスチャンのようではない。むしろ第二次世界大戦後の日本や北アメリカは大変恵まれた時代である。アフリカは今でもイスラム教に攻撃されたり迫害されたりしているし、ウクライナの教会も苦しんでいる。私たちほど恵まれているところは、全世界の中にも人類の歴史の中にもない。私たちは明日の食べ物の心配をしない。逆に明日どうやって食べ過ぎないようにするかを心配する。私たちは非常に恵まれて祝福されているので、神の恵みであることを感謝して歩むことが復活の力を経験することだと思う。苦しみに会うことは当然である。病気になったり、愛する者が天に召されたり、だれでも苦しむことはある。その中で、イエス様が私たちの苦しみは大したことではないと思って、私たちを憐れまないということはない。
【ヘブル4:14~16】さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
イエス様は三十歳になるまで、ナザレの大工として生活し、普通の生活の苦しみをすべて知っている。イエス様には五人の弟と少なくても二人の妹がいた。父親はイエス様が十五歳くらいの時に死んだので、その後は父親代わりに兄弟の世話をしなければならなかった。母マリアの相談相手になったり、弟妹たちに教育を与えたり、家族を経済的に養い、そのような毎日の生活をイエス様は経験している。だから私たちの生活の小さな苦しみをイエス様は知っているし、見下さない。イエス様は私たちに同情して、祈りを聞いてくださる大祭司である。だから私たちは大胆に恵みの御座に近づこうではないか。
私たちがキリストの死の姿になるというのは、パウロはピリピ2章の言い方を指している。
【ピリピ2:3〜5】何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
これに続けてパウロはイエス様の十字架の話をする。
【ピリピ2:6~8】キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
イエス様が他の人を自分より大切だと思ってくださったように、私たちも毎日の生活の中で自分のことだけではなくて他の人のことも考える。それはイエス様と同じ十字架の思いをもってあゆむことであるとパウロはピリピの教会の人に話す。私たちがキリストのような思いをもって正しく歩むなら、私たちは十字架の苦しみの交わりをしていることになる。そして私たちは未来に主イエス・キリストが再臨して、復活の栄光が完全に表れることを待ち望み、求めるのである。私たちがこの世から召されたときに、イエス様のところに行くが、復活はもっと未来にある。望んでいることは最終的なキリストの栄光である。そのことを望んで歩んで神様の御国を求める。
毎週の聖餐の時に、私たちはキリストの御国を第一に求める心をあらたにする。主イエス・キリストの十字架の道を歩む心をあらたにする。他の人は自分より大切だと思って、正しく神の御国を一緒に求めるように、毎週の聖餐式において励まされる。
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