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「大人として考える」ピリピ3:12〜16

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ3:12〜16

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。

この箇所だけでも、ピリピの教会とパウロが親しい関係であることがわかる。

ピリピの教会がどのように始まったか、そしてその後のパウロとピリピの教会の関係について思い出していただきたいと思う。

AD50年頃にパウロはシラスと共に二回目の伝道旅行に出た。途中のデルベでテモテを連れて行き、トロアスでルカが合流してマケドニアに向かった。

マケドニアに着いた四人は最初にピリピの町に行き、安息日にユダヤ人の祈り場があると言われた川岸で、集まって来た女たちに福音を伝えていた。この町にはユダヤ人が少なかったので会堂がなかったからである。そこに紫布の商人でリディアという神を敬う女性がいた。主が彼女の心を開いてパウロが語ることに心を留めるようにされたので、彼女とその家族はバプテスマを受けた。彼女の家はお金持ちだったので、パウロたちを招いて彼らがピリピにいる間ずっと世話をした。

同じくピリピの町に占いの霊につかれた女奴隷がいて主人たちに占いで大きな利益をもたらしていた。この女がパウロたちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道を、あなたがたに宣べ伝えています(使徒16:17)」と何日も叫び続けるので、パウロは困り果て、この女からその霊を追い出した。すると金儲けの見込みがなくなった主人たちがパウロとシラスを「町をかき乱すユダヤ人だ」と町の長官に訴えたので、パウロたちはむちで打たれて獄に投げ込まれた。

ある夜、真夜中に地震が起きて牢の扉が全部開き、すべての囚人の鎖が外れてしまった。看守は囚人が逃げてしまったと思って自害しようとしたが、パウロが「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだので看守は二人の前にひれ伏した。パウロは看守と看守の家にいる者全員に主のことばを語り、その家の者全員がすぐにバプテスマを受けた。

このようにしてリディアや看守の家族が中心になって始まったのがピリピの教会である。

ピリピの教会が始まったのがAD50年頃で、パウロがこの手紙を書いたのがAD62年頃なので、ピリピの教会は12年間パウロととても親しく歩んでいた。そしてこの教会だけはパウロを経済的に支え続けてくれた。パウロがAD60~62年までローマで軟禁状態だったが、その時もこの教会が献金を続けてくれた。

パウロはこのピリピの教会に手紙を書いて、大人(完全)になることについて話している。「大人(完全)」ということばはこの中でとても大切である。

パウロがローマで軟禁されている間に、ピリピ人への手紙のほかに、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、エペソ人への手紙、ピレモンへの手紙を書いた。特にコロサイ、エペソ、ピリピの手紙の中では大人になることについて話している。

コロサイ人への手紙の中では、個人について話し、教え、戒めて、一人一人がキリストにあって大人になるように話している。

エペソ人への手紙では、個人ではなく教会全体が大人になることについて話している。イエス様が教会に使徒や教師を与えてくださったのは教会全体がキリストに似た者になるためであると話す。

個人一人一人が成長して、それによって教会全体が大人として成熟するのである。

⚫️私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:12)

「完全(大人)」ということばがキーワードである。つまりパウロは自分が完全な者になっているとは思っていない。

⚫️ですから、大人(完全)である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。(ピリピ3:15)

・ここで注目してほしいことばの一つは「完全」である。

12節でパウロは自分が完全ではないと言うが、15節では逆に自分が「完全」であると言う。これはパウロが間違えたのではなく、みんなが完全ということばに注目するように話しているのである。パウロはもちろん完全ではない。イエス様のように復活したときにパウロは完全になる。その意味でパウロは自分についてもピリピの教会についても同じことばを使うことができる。「完全ではない」「完全である」という全然逆の言い方をしてピリピの教会の人たちに考えさせようとしている。ピリピの人々はこの言葉に注目して、果たして自分たちは大人のクリスチャンになっているだろうか、と刺激を受けて考えるはずだ。

パウロ自身の模範もあった。後ろのものを忘れて、前を向いて走っている。これがピリピの教会のための模範である。どんなに成長したクリスチャンであっても、続けて成長を求めて前を向いて走るべきである。

・もう一つ注目してほしいことばは「考えなさい」である。

パウロのように後ろのものを忘れて前を向いて走り、神様が下さる賞を求めることを考えるべきである。このことばは新約聖書で26回しか使われていない。そのうち23回がパウロの手紙で使われており、ピリピ人への手紙では10回も使われている。この喜びを中心にしている4章しかない短い手紙の中で、パウロは繰り返しどう考えるべきかを話している。私たちは主イエス・キリストが考えるように考えるべきである。

【ピリピ2:3】何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

イエス様は私たちのことを自分より大切だと思ってくれて、十字架上で私たちの罪のために死んでくださった。3章を読むとパウロ自身もそのように考えている。だからあなたたちもそのように考えなさいと言う。イエス様の思いは十字架によって表されている。神様がイエス様に与えた道は十字架の道であった。だから神様は私たちにもその道を歩むように教えてくださっている。十字架の道を歩むとは、御父のみこころに従って歩むことである。他の人のことを自分より大切だと思って、他の人の祝福を願う。これが十字架の道である。

毎週日曜日の礼拝の中心は聖餐式である。イエス様が十字架上で私たちのために死んでくださり、よみがえって神の右の座についてくださって、今もご自分を私たちに与えてくださっていることを記念して感謝して聖餐式を受ける。




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