説教者:ベンゼデク・スミス牧師
詩篇15篇
主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
全き者として歩み 義を行い 心の中の真実を語る人。
舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。
その目は主に捨てられた者を蔑み 主を恐れる者を 彼は尊ぶ。
損になっても 誓ったことは変えない。
利息をつけて金を貸すことはせず 潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。
このように行う人は 決して揺るがされない。
今日は詩篇15篇です。短い説教で、一回の説教のためにはちょうどいい長さかと思ったのですが、じつは奥が深い詩篇でした。
⚫️主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが あなたの聖なる山に住むのでしょうか。(15:1)
皆さんはこのような問いをしたことがありますか。自分の中にこの問いはありますか。
私たちは現代人として、神様のことを、親しみやすくていつでも近づきやすい存在だと思っているかもしれません。だから自分ではこのような問いはあまりしないし、申命記のモーセの言葉もあまりピンとこないかもしれません。
【申命記4:7】まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。
でも、もし百年前にあなたが天皇に会う機会があったら緊張しただろうと思います。戦前の日本を想像すると、天皇の謁見室に入り、幕の向こう側に座っている天皇のシルエットを見て、天皇に会えることは特権でありながら、同時に恐怖も覚えるのではないかと思います。
古代の王もそれと同じです。ネブカドネツァル王やクセルクセス王をイメージしてみてください。彼らと目があっただけで恐怖を感じます。自分が生きるか死ぬかはその瞬間の王の心の思いにかかっています。ネブカドネツァルは夢の解き明かしができなかった知者たちを全員殺すことを決めました。恐らく数百人だと思います。知識と影響力のある優れた人たち数百人を即座に殺すのです。
ハマンがクセルクセス王の前でどれほどおびえていたか想像してください(エステル7)。ハマンは一瞬ではありましたがペルシャ帝国で王の次に偉大な人物だったのですが、その次の瞬間彼は死刑にされて柱にかけられました。
【箴言19:12】王の激しい怒りは若い獅子がうなるよう。しかし、その好意は草の上の露のよう。
【箴言16:14〜15】王の憤りは死の使い。知恵のある人がそれをなだめる。王の顔の光にはいのちがある。彼のいつくしみは後の雨をもたらす密雲のようだ。
このようなことばはダビデやソロモンを思い出しますが、まず第一にメシア、イスラエルの王、イエス・キリストに関することばとして読むべきです。
だからこれらの王たちのことを思いながら「だれがあなたの幕屋に宿るのでしょうか。」という問い考えると、こんな恐ろしいことをだれができるだろう、と思ってしまうのです。
幕屋は旅をするときに使うので、だれが神とともに旅をすることができるのでしょうか、という問いになります。
「だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか。」天国で一番高い天に神の王座があり、その周りを炎の御使いに囲まれています。だれがその神に近づくことができるでしょうか。
地上の最初の聖なる山はエデンの園でした。その時の最初の男と女はそこに住むことができずに追い出されてしまいました。この詩篇を書いたのはダビデですが、彼は神が住む聖なる山を探していました。それがシオンの山だと聞いたので、エブス人と戦ってエルサレムを取って神の契約の箱をその山に持って行こうとしましたが、一回目は失敗しました。契約の箱を運んでいる途中で、ウザがその箱に触ったので神に殺されてしまったのです。
【第二サムエル6:9】その日、ダビデは主を恐れて言った。「どうして、主の箱を私のところにお迎えできるだろうか。」
つまりダビデは、神に近づくこと、神とともに住むことがどれほど恐ろしくて危険なことなのかよくわかっていました。ダビデは三ヶ月後にもう一度試して、今度は成功しました。ソロモンが隣のモリヤ山に神殿を建てるまでは、シオンの山で神を礼拝することになりました。それで、だれがあなたの聖なる山に住むのでしょうか、という問いはダビデにとって実践的な問いでした。なぜなら契約の箱以外に、シオンの山にダビデが住んでいる要塞があったので、ダビデ自身がその聖なる山に住んでいたのです。だからダビデはよくシオンの山についての詩篇を書いています。
【詩篇2:6】「わたしが わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山 シオンに。」
ではこれは私たちにとって実際的な問いなのでしょうか。はい、その通りです。私たちはここで、神の聖なる山に集っているからです。私たちは今、神の御前にいて、神の聖なる御使いたちに囲まれています。神の炎はネブカドネツァルの炎よりも熱いことはわかっています。だから私たちもこの問いを問う必要があります。「私たちはここにいていいのですか。ここにいられるものなのですか。」
私たちがアダムとエバのように追い出されないためには、どのような者でなければならないのでしょうか。
もう一つ、大切なポイントがあります。ダビデが王となったときに、自分に神の神殿を建てる責任があることがわかっていました。だからエルサレムを奪い取って、一生をかけて神殿を建てる準備をしたのです。恐らくダビデは天にある神の王座の幻を見たでしょう。モーセ、イザヤ、エゼキエルのように。他にも聖書に何人も天の王座の幻を見た人はいます。天にある神の王座を見て、その周りにいるセラフィムを見て、そこで歌われている賛美を聞いたりしました。つまりダビデはその幻を見て、神の栄光と美しさを知っていたのです。この世にあるものはそれとは何も比べることはできないこともわかっていました。この世にあるすべてのものよりも求めるべきものであることがわかっていました。
【詩篇84:1〜2、4】万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。 私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。…なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。
恋い慕う心を想像してみてください。目が見えなくなって、朝日の美しさや花の美しさ、自分の愛する家族の顔を見ることができなければ、どれほどそれを慕い求めるでしょう。
【詩篇27:4】一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。
【詩篇23:6】まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
私たちが、主の美しさ、栄光、美、きよさを求めていないなら、それを見たことも味わったこともないということです。この世の栄光や良さに囚われていて、洞窟の中でろうそくを持って歩いているような感じなのです。神の栄光を見るのは、洞窟から出て急に太陽を見たような感じです。それを見たらもう戻ることはできません。つまり、だれが神の宮に住むのか、という問いを持つなら、神と住むことがどれほど祝福なのかを思いながら問わなければならないのです。
私たちが神とともに住むならどのようなものでなければならないのでしょうか。それが2節からのところになります。
⚫️全き者として歩み 義を行い 心の中の真実を語る人。(15:2)
いきなり「全き者」つまり完全な者でなければならない、というところから始まります。
ヤコブのように完全な者にならなければならないのですか、と思うのと同時に、驚かないのではないでしょうか。
確かに神は完全で全きお方なので、まっすぐに歩く人とともに歩くなら、自分もまっすぐに歩かないといけません。
【マタイ5:48】あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
だれが完全なのでしょうか。詩篇を読んでまず気づくのは、私はここにいていいものではないということです。私にはここにいる資格はないと気づきます。この中に完全な人はいません。ここに大胆に入る権利を持っている人もいません。私たちはすべての罪を犯しています。
【マルコ7:20〜23】イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
この中で私たちが心の中で犯していない罪はありません。汚れている者はきよい神とともに住むことはできません。
ダビデは自分の罪深さをよく知っていました。じつは私たちは今日すでにダビデが書いた詩篇51篇を使って罪の告白をしました。私たちが神に近づくためには罪の悔い改めをしなければならないのです。それは神が恵みをもって私たちを赦してきよめてくださるからです。詩篇51篇を見ると、私たちをきよめるのが神であることをはっきり見ることができます。
【詩篇51:5、7】ご覧ください。私は咎(とが)ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。…ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。
詩篇51篇の中で、ダビデが自分の罪深さを告白しているのと同時に、神様がそれを赦して取り除いています。だからなぜ私たちがここにいることができるのかと言うと、私たちが悔い改めている罪人として入っていて、神様が赦してくださったからです。
51篇がその後どうなるかというと、ダビデは神を賛美して、いけにえをささげて礼拝します。私たちも同じように神に応えます。神の赦しに対して感謝といけにえで応えて、神に忠実に従うしもべとして自分を神にささげます。
⚫️舌をもって中傷せず 友人に悪を行わず 隣人へのそしりを口にしない人。 (15:3)
詩篇15篇に書かれているのはどれも私たちが簡単に犯してしまうような罪です。どれも普通の人が犯すような罪です。
この3節は特に言葉に関する罪について書かれています。言葉だけで取り扱われるのか、と思う人もいるかもしれませんが、言葉こそ大事なところなのです。
口を制することがどれほど大切なのか、ヤコブから見てみます。
【ヤコブ1:26】自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
自分は宗教に熱心だと思っても、心の中に真実を持たずに自分を欺いているなら、偽りしか口から出ないのです。
中傷について考えるとき、よく私たちは、中傷するつもりはなかった。そんなつもりはなかった、と自分を弁護します。人を傷つけようとはしていない、ただ本当のことをはっきりさせようとしただけだ、人を傷つけるつもりはなかった、と自分の意図を言ったりします。しかし中傷するつもりで中傷する人はほとんどいません。その意味で中傷はとても複雑で危険な罪なのです。ではどのようにその危険を避けることができるのでしょうか。いろいろな方法がありますが、一つだけ言うとしたら、自分の心にある怒りを取り除くことです。あなたが兄弟に怒りを抱いていたら、他の人にも同じ怒りをいだくようにさせたくなってしまうのです。周りにも同じ怒りを感じてほしくて人を中傷するのです。
しかしヤコブはこのように言っています。
【ヤコブ1:20】人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。
⚫️損になっても 誓ったことは変えない。(15:4)
神のことばは真実です。神のことばの扱い方を私たちもしなければなりません。そのためには、損になっても誓ったことを変えないことが一つのポイントです。
【申命記4:1〜2】今、イスラエルよ、私が教える掟と定めを聞き、それらを行いなさい。それはあなたがたが生き、あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えようとしておられる地に入り、それを所有するためである。 私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。
今日の申命記の朗読の箇所です。神様のことばに付け足してはならないし、減らしてもいけない。神様がそのような神だからです。神も一度発したことばは最後まで守ります。たとえそのことばを守るために自分の愛するひとり子をこの世に送らなければならないとしても。
【ヤコブ1:17】すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。
私たちが忠実でなくても神は忠実です。だから私たちは救われるのです。
イエスは私たちにこう教えます。
【マタイ5:37】あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。
これはどういう意味でしょうか。神に誓いを立てない限り言ったことを守る必要はないというユダヤ人の考え方に対してイエスが諭していることばです。ユダヤ人は、誓いを立てていないから破っても大丈夫、あるいは誓いは立てたけど軽い誓いだったから守らなくても大丈夫、といったりします。しかしイエスはそんなことはないと言います。「はい」か「いいえ」と言っただけでも、最後までそれを守りなさいと言います。神はそのように語るからです。だからどんな約束でも約束は固いものです。特に自分の誓いを守らなければなりません。私たちは自分の洗礼で、神に従ってすべてをささげることを誓います。また、自分の子どもの洗礼でも、この子を神のために育てて神にささげることを誓います。結婚式でも互いを愛することを誓います。その誓いは「私はいつまでもこの人と離婚しません。いつまでも我慢して耐えます。」という誓いではなく、「私はこの人を愛して敬います。」と誓っているのです。死が二人を分かつまでそれを続けるのです。
⚫️利息をつけて金を貸すことはせず 潔白な人を不利にする賄賂を受け取らない。このように行う人は 決して揺るがされない。(15:5)
5節にはお金の使い方について書いてあります。
私たちがこの詩篇15篇のようにきよい生き方を真剣に求めるなら、私たちが本当に悔い改めていることを表しているのです。悔い改めてもまた同じ罪に戻るのは本当の悔い改めではありません。だからこのようにきよい生き方をするのはまことの悔い改めであり、まことの信仰の現れでもあります。このような人が神と住むことができるのです。このように行う人こそ決して揺るがされないのです。つまり、神の幕屋から取り除かれることはないということです。
私たちも悔い改めと感謝をもってだれも近づくことのできない神に近づきましょう。
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