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「私たちの国籍は天にある」ピリピ3:20〜21

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ3:20〜21

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

⚫️私たちの国籍は天にあります。(3:20a)

パウロは神の御国に属する者の生活と神の御国の望みについて話している。

「生活」ということば自体は出てこないが、意味の中に含まれている。このことを1章を学んだ時に一緒に考えた。

【ピリピ1:27】ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。

(福音にふさわしく)「生活する」ということばは3章の「国籍」と同じことばの動詞形である。だからただ単に生活しなさいと言っているのではなく、御国を相続する者としてふさわしく生活しなさい、というニュアンスが含まれている。そして「ただ」は一つのことだけ言います、というニュアンスである。

「生活する(1:27)」と「国籍(3:20)」は同じことばが元になっているが、このことばが使われているのは新訳聖書の中でこの2カ所しかない。七十人訳の中で動詞の形で6回出てくるが、全て聖書の外典である。名詞の形で1回出てくるが、それも外典である。つまり私たちが持っている旧約聖書の中には一切使われていないということだ。しかしピリピの教会の人たちにとっては意味が深くてピンとくる。なぜならピリピの人々はローマの国籍を持っているからである。

ピリピの人々がローマの国籍を持っているのは、BC44年3月15日ににジュリアスシーザーがカシウスとブルータスの陰謀によって暗殺されたことと関係する。シェイクスピアの劇によると、ジュリアスシーザーの葬儀でマークアントニーの演説を聞いた人々が、シーザーの復讐を求めてカシウスとブルータスに戦いを挑んだので、二人は自分たちの軍隊と共にローマから逃げた。オクタウィウス(後のアウグストゥス)とマークアントニーの軍隊はカシウスとブルータスを見つけてマケドニアのピリピの近くで衝突した。これがピリピの戦いと呼ばれ、この町がローマ帝国の時代に有名になった。この戦いでカシウスとブルータスは殺される。それがBC42年である。オクタウィウスたちは兵をローマに連れ帰らず、ピリピに残したので、ピリピはローマの国籍を持つ特別な町となった。リタイヤした兵士たちがそのまま住んでいたり、さらに多くのローマの兵たちがピリピの町に行って住んだので、町はローマのようにデザインされ、ローマ帝国の中でピリピは有名でプライドの高い町になった。この町で生まれた子どもたちはみんなローマの国籍を持つし、この町はローマ帝国の法が適用された。これはローマ帝国の中で特別な祝福で、国籍はピリピの人たちにとってとても大切なものであった。ピリピの人たちはローマの国籍を誇りに思っている。

だからパウロはピリピの教会に、あなたがたの国籍は天にあると言う。その国籍を持つ者らしく、福音にふさわしく歩みなさい。

国籍の話は誤解しやすいかもしれない。確かにピリピの教会の人々は死んでから天に行くが、国籍が天にあるとパウロが言っているのはその理由だけではない。ローマの国籍を持つピリピの町がローマ人らしくローマを表す町でなければならないのと同じように、天の国籍を持つピリピの教会は天に国籍がある者らしく歩まなければならないのである。だからパウロはキリストの福音にふさわしく生活しなさいと言っているのである。ローマの国籍を持つならローマの法に従わなければならない。天の国籍を持っているなら神の御国の法を守らなければならない。

先ほど、七十人訳で「生活する」という動詞形が出てきたと言ったが、それは外典のマカバイ記にある。ユダヤ人はユダヤ人の法を守って歩むという箇所で繰り返し使われている。私たちは国籍が天にある者らしく神の律法を守って生きる。東京ではある意味でモーセの十戒を守って偶像礼拝をしなくても特に目立たないが、田舎で祭りに行かないとか偶像礼拝に参加しないと目立ってしまうかもしれない。(東京でも会社で行う偶像礼拝に参加しなければ目立つことはあるかもしれない。) 日本ではモーセの十戒の中では偶像礼拝をするかしないかが一番目立つかもしれない。日本では殺人はそれほど頻繁には起きないと思うからだ。日曜日に神を礼拝することによって私たちが神の法を守っていることは周りの社会の証しにもなると思う。自分の国籍が天にあることを覚えてそれにふさわしく歩むことによって、証しの機会が与えられている。だからただ国籍がどこにあるのかというだけではなく、それにふさわしく歩みなさいとパウロは教えている。

⚫️そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。(3:20b)

「待ち望む」ということばは新約聖書に8回出てくるが、ペテロの手紙の中で1回だけ使われて、あとの7回はすべてパウロが書いた手紙の中で使われているので、「待ち望む」はパウロのことばである。何を待ち望んでいるのかというと、復活である。

⚫️キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。(3:21)

パウロは復活の望みのことを話している。復活が神の御国の望みなのである。日本語で待ち望むということばに「すぐに来る」というニュアンスが含まれているかどうかわからないが、パウロが話しているのは最後の復活のことである。パウロはこの後の人類の歴史が長いことがわかっている。私たちの時代は十字架から二千年たっているが、人類の歴史は明日までに終わったりしない。神様がアダムとエバに与えられた契約の責任が果たされなければならない。人類が増えてすべてを従わせて神の栄光を表す御国を築き上げなければならない。それが人類に与えられた責任である。そのために主イエス・キリストが命じて下さったように福音を伝えて、すべての口が「主イエス・キリストは主である」と告白するように福音を広めて、神様がアダムとエバに与えてくださった文化命令を果たさなければならない。その意味でこれからの人類の歴史は多分非常に長いと思う。イエス様が再臨した時に、私たちに栄光ある復活のからだを与えてくださる。それを私たちは待ち望んでいる。死んで天国に行くことを待ち望むことも良いが、天国は一時的で永遠の住まいではない。イエス様が再臨する時に、イエス様を信じる者たちを一緒に連れてきて、最後の復活がある。天のエルサレムはこの世に下って来て、新しい天と新しい地で神の輝く栄光が現れるのである。私たちにもイエス様のような栄光のからだが与えられる。

イエス様が死んで三日目に復活した時は、弟子たちと同じようなからだを持っていて、一緒に食べたり飲んだりしていた。その時に栄光のからだを現したら弟子たちは耐えられなかっただろう。ヨハネは黙示録1章で主イエス・キリストの栄光のからだのことを話す。その中でヨハネは復活して栄光のからだを持ったイエス様を見て倒れて死人のようになってしまった。あまりにも栄光が素晴らしかったので耐えられなかったのだ。同じ話はダニエル10章にもある。ダニエルは栄光に満ちている御使いを見て倒れてしまった。これらの箇所を通して栄光のからだがどんなに素晴らしいのかを見ることができる。主イエス・キリストは万物をご自分に従わせるお方である。その同じ力によって私たちの卑しいからだをイエス様と同じ栄光に満ちているからだに変えてくださるとパウロは言う。卑しいからだとは、ギリシャ語の原語のニュアンスによると、弱くて病気になったりするしいずれ死ななければならないという意味でパウロは話している。

今のからだは栄光に満ちているからだではない。そして最終的に死ななければならないからだである。イエス様はこのからだを栄光のからだに変えてくださる。私たちの復活のからだは新しくなる。新しいからだがどのようなものなのか細かいことはわからないが、絶対に文句が出ないことを約束する。からだだけではなく、心も思いもイエス様に似た者になる。それが私たちの望みである。

私たちは死んだらすぐにイエス様のところに行く。この世から離れてキリストとともにいることはこの世で生きるよりはるかに良いとパウロは言う(ピリピ1:23)。だから死んだらただ最後の復活まで待つだけではないし、それで終わりではない。私たちの望みは復活の栄光のからだである。それがイエス様の再臨の時にイエス様のからだである教会がすべて救われて歴史が終わり、その時こそイエス様に栄光が与えられる。キリストの花嫁である教会が完全に100%きよいものとして立つ時に、イエス様に栄光が与えられる。イエス様は妻ある王としてご自分の御国を治めて、神の右の座にすわって歴史を導く。イエス様はすでに神の右の座にすわっている。そしてすでに王となっている。私たちはそのイエス様の王国の国籍を持っている。だから主イエス・キリストが支配する国の国籍を持つ者として、福音にふさわしい生活を送り、神の御国のために実を結ぶ。それが神の御国の国籍を持つ者としてふさわしい歩み方である。私たちは毎週の礼拝の時に、主イエス・キリストが来るまで繰り返し聖餐をいただき、イエス様の再臨を待ち望んでいる。自分の罪を悔い改めて、イエス様に従う心をあらたにする。私たちは神の御国を求めて、主イエス・キリストの再臨を待ち望むものとして一緒に聖餐を受けたいと思う。




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