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「主にあって堅く立ってください」ピリピ3:20〜4:1

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ3:20〜4:1

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。ですから、私の愛し、慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって、堅く立ってください。愛する者たち。

今日の箇所は、パウロのピリピ人への手紙の教えと、終わりの挨拶の導入である。

このピリピ人への手紙をどのような手紙として思えばよいのだろうか。この手紙をまとめて人に紹介するにはどう言えばいいだろうか。

⚫️ですから、私の愛し、慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。(4:1a)

注解書でピリピ人への手紙は喜びの手紙と言われている。

パウロの手紙全体で「喜び」とか「喜びなさい」は29回使われているが、そのうちこの4章だけの短いピリピ人への手紙だけで9回使われている。パウロの他の手紙よりもこの手紙でよく使われていると言える。

【ピリピ4:4】いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

これがピリピ人への手紙全体のメッセージである、という言い方をしても間違いではない。

しかし他の観点からも見ることができると思う。

この手紙は他の手紙よりもパウロ自身についてたくさん書いてある手紙である。

【ピリピ3:5〜6】私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

パウロは自分自身の背景についてもよく話している。

今ローマで軟禁状態であることも話している。獄には入らず、友人の訪問を受けることもできるのだが、24時間ローマ兵に鎖でつながれていた。

そしてパウロのこの苦しい経験が福音のために用いられていると言う。

自分がそろそろ死刑になるかもしれないことも説明する。

【ピリピ1:21〜25】私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

パウロは自分のことについて話している。抽象的なことを話しているのではない。死に直面しているような状態で、パウロはこの手紙を書いている。

【ピリピ4:1a】ですから、私の愛し、慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。

このみことばはピリピの教会に対するパウロの心を深く表している。この手紙はパウロの熱心、優しさ、兄弟愛が非常に強調されていると言わなければならない。

横道になるが、ここに出て来る「冠」は王様が被るものではなく、スポーツで勝った時などにもらうものとして使われている。ピリピの教会はパウロの働きが祝福されて神様が認めてくださった冠のようなものであった。この手紙の中でパウロはピリピの教会に何回も助けられたと書いてある。だからパウロ自身についてたくさん学べる手紙だと思う。

⚫️ですから(4:1a)

ピリピ人への手紙でパウロが一番語っているのは復活の論理である。これに十分に気づかないかもしれないが、4:1が「ですから」で始まることを思い出してほしい。「ですから」は前に書いてあることを指すことばである。前にあるのは「私たちの国籍は天にあります。」である。イエス様が復活して天に昇り、神の右の座にすわったことを前提としている。私たちは神の王座にすわったキリストのものなので、「私たちの国籍は天にある」と言えるのである。

【ピリピ1:27】ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。

「国籍」と同じことばを形を変えて「生活」ということばで使っている。神の御国の国籍を持つ者としてキリストの福音にふさわしく生活しなさい、というニュアンスがある。

この1:27の「生活」と3:20の「国籍」は両方特別なことばを使っている。他のパウロの手紙の中にはどこにも出てこない。このことばがなぜピリピの人たちにとって大切なのかというと、彼らがローマの国籍を持っているからである。一般のローマ帝国のどの町の人でもローマの国籍を持っているわけではない。日本で生まれて育ったら日本の国籍を持つので私たちにとって国籍はそれほど大きな話ではないと思うが、ローマ帝国の中では特別なことであった。税金、財産、法律について特権がある。それでピリピの人たちは自分たちの国籍がローマであることを誇っていた。しかしパウロはそれ以上に誇る国籍があると言う。本当のカエサル、本当の主、本当の救い主はイエス様である。

救い主ということばはローマ帝国の中でカエサルについて使うことばである。本当のカエサル、本当の主、本当の救い主、本当のクリオス、神の右の座にすわっているのはイエス様である。

私たちの国籍が天にあるというのは、私たちはいつか天に行くということだけではない。国籍が天にあるので、私たちの毎日の生活において天に国籍を持つ者らしく歩む責任があるということである。そして天に国籍を持つ者らしく考える責任があるということでもある。

ピリピ人への手紙の中ではどのように考えるかが強調されている。「考える」ということばはローマ人への手紙で9回使われている。16章の長い手紙であるが、教えのところは最初の3章である。しかしピリピ人への手紙は4章の短い手紙で、教えるところは最初の3章なのに「考える」ということばは10回使われている。その一番中心的なところは2章にある。イエス様が私たちのことをご自分より大切だと思ってくださったので、イエス様のようにあなた方も考えなさいと言われている。イエス様が私たちのことをご自分より大切だと思ってくださって、十字架の道を歩んで、復活して、神の右の座にすわった。それはすべてのものが膝をかがめて「イエス・キリストは主です」と告白する日が来るためである。

イエス様は十字架上で死んでくださったことで終わるのではない。神様がイエス様の贖いを喜んで、復活させて天に昇って、神の右の座にすわった。だから私たちの国籍は天にある。王なる主なる主イエス・キリストの国の国籍を持っている。そのような考え方を持ってこの世の中で神の御国を表すように生活しなさい。それが主イエス・キリストの復活を信じる信仰の歩み方である。

同じ思いが第一コリントに出てくる。コリントの教会のある人たちがイエス様の復活を疑っていたことについてパウロは次のように言う。

【第一コリント15:16〜19】もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

イエス様が復活したので、イエス様を信じて歩む意味がある。キリスト教のすべては主イエス・キリストの復活にある。全人類の歴史の中で復活した人間はイエス様以外だれもいない。私たちがイエス様の復活を信じる根拠は聖書にある。イエス様の復活の証人はたくさんいる。彼らは繰り返し復活したイエス様と一緒に食べて、教えを聞いた。イエス様は四十日間ご自分を弟子たちに現して交わりをもってくださった。イエス様が復活したことを宣言した弟子たちは、大きな教会を作ってお金持ちになったわけではない。パウロは驚くべきやり方で人を癒した。人にハンカチを渡して、その人がそれを家に持って帰ったら癒された。パウロはハンカチ1枚につき百万円もらったわけではない。お金を儲けて偉くなったわけでもない。弟子たちはイエス様の復活を繰り返し証言して、最後にみんな死刑にされた(ヨハネは間接的に殺された)。キリスト教の土台はイエス様ご自身がよみがえって、よみがえったイエス様に会った弟子たちがそれを繰り返し証言することにある。

⚫️このように主にあって、堅く立ってください。愛する者たち。(4:1a)

第一コリントの手紙でパウロはピリピと同じ論理を言う。

【第一コリント15:58】ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

主イエス・キリストにあって動かない。堅く立つ。一生懸命実を結ぶ働きをしなさい。それは主イエス・キリストが復活して、私たちに復活のいのちを与えてくださるからである。信仰をもって堅く立ってイエス様に仕えなさい。

【コロサイ3:1】こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

天の王であるイエス様を求めなさい。つまり御国を求めなさいとパウロはコロサイの教会に言う。キリストとともに復活して、神の御国のために実を結ぶ働きをしなさい。これが復活の論理である。基本的にすべてのパウロの手紙の中にこの論理が出てくるがコリントは長い箇所でそれを強調している。ピリピ人への手紙の終盤は「ですから」で始まり、天からイエス様が下ってくるのを待ち望んでいる。イエス様が下る時、すべてのものをご自分に従わせる。全てのものがイエス様は主であると告白する。神の御国は下ってくる。黙示録でヨハネが見た幻で新しいエルサレムが下ってくることによってそれがわかる。その時イエス様は全てのものをご自分に従わせる。そして私たちに主イエス・キリストのような栄光のからだを与えてくださる。そのことを知っているので、「ですから」主にあって堅く立ちなさいという。愛する者、私の喜び、私の冠、と呼びかける。妥協せず、堅く立ちなさい。「堅く立ちなさい」が2回繰り返されているのはピリピ人への手紙だけである。なぜそれを強調するのかというと、迫害されていて、もっと迫害されるからである。はっきりした信仰をもって、動かされず、罪との妥協もしないで、迫害されても堅く立つ。なぜなら復活を信じているからである。イエス様は殺されても復活した。ステパノが殺されてもイエス様のところに行った。パウロの首が離れてもイエス様のところに行った。私たちに死に対する勝利が与えられている。私たちはイエス様とともによみがえる。そのことを信じているので、堅く立つ。実を結ぶ生き方をする。天の国籍を持つ者らしく生活をしなさいという1章のメッセージは3章、4章のメッセージと同じである。

聖餐をいただく時、私たちが復活することを覚えて、復活したイエス様を信じる心をあらたにする。




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