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「教会の中の一致」ピリピ4:2~

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ4:2~

ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。

パウロは、自分の人生において、最初から最後まで教会の一致のために戦ったり教えたりしていた。ガラテヤ人への手紙、ローマ人への手紙、コリント人への手紙の三つの手紙でそのことを考えたい。

⚫️ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙はパウロが一番最初に書いた手紙である。AD43~44年頃にパウロとバルナバはガラテヤに行って伝道していくつかの教会を設立した。ところが二人がアンティオキアに戻ったら、エルサレムから来たある人たちがガラテヤの教会に来て、異邦人は割礼を受けなければ救われないと教えるようになった。エルサレムから来た人たちの言うことなのでガラテヤの異邦人たちはその教えを聞いて心を動かされて、自分たちも割礼を受けなければならないと思ってしまってエルサレムの教会の人たちの教えに従う思いになってしまった。パウロはそのことを聞いてガラテヤに手紙を書いた。AD45年頃のことである。

その手紙を書いたあとでパウロとバルナバはAD48年にエルサレムでの大きな会議に出席した。最初の教会会議である。その会議で話し合われたのは、異邦人は割礼を受けなければ救われないのかどうかということであった。会議の結論は、パウロがガラテヤの手紙の中で教えたように、異邦人は割礼を受けなくても主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということになった。

ガラテヤ人への手紙はパウロの手紙の中で色々な意味で特別である。その一つは、ローマ人への手紙やコリント人への手紙に書いたような教会に対する感謝の言葉を、ガラテヤ人への手紙には書いていないことである。ガラテヤの教会が福音そのものから離れてしまうような感じだった。ガラテヤの教会に、異邦人は主イエス・キリストを信じることによって救われることを強調して福音をもう一度伝えたりした。その手紙の中でキリストにある一致も強調している。バプテスマを受けた者は主イエス・キリストにあって一つである。異邦人もユダヤ人のバプテスマを受けることによってキリストにあって一つである。それが教会の直面している問題だった。アブラハムから主イエス・キリストの時までユダヤ人と異邦人は完全にわかれていた。バベルの塔の事件でいろいろな国が分かれてしまった。しかし神様はアブラハムを選んでくださった。アブラハムとその子どもたちは割礼を受けたので、アブラハムの子孫たちは特別な祭司の民となった。

異邦人とユダヤ人の違いについて誤解してはいけないことの一つは、例えば異邦人がユダヤ人になりたいと思うなら割礼を受けて良いということだ。ユダヤ人になるのは血のつながりがあるかないかではない。

そしてもう一つは、異邦人とユダヤ人が一緒に食べてはいけないというルールは旧約聖書にはどこにもないということだ。使徒の働きを読むとペテロもそのように考えていたことがわかるが、それはパリサイ人たちが作った規則であった。もちろん一緒に食事をすることは複雑になりうる。ユダヤ人は豚肉を食べないし、食べ物の作り方が決められていることも大きいが、一緒にご飯を食べてはいけないというルールはない。

過ぎ越しの祭りは、ユダヤ人だけが神様の特別な祭司であることを記念する祭りなので異邦人は参加できない。しかし仮庵の祭りとペンテコステの祭りには参加できる。異邦人は祭りに参加して神様を礼拝することができた。だから異邦人とユダヤ人は完全に分かれて違う神々を礼拝していたわけではない。同じ神様を一緒に礼拝することができる。そしてほかの時にいけにえを神殿に持ってきて神様にささげることができる。神様は唯一なので、異邦人でもユダヤ人でも神様を求めるなら恵みが与えられて祝福される。イスラエルは祭司の民を定義する割礼を受けているので、イスラエルだけは特別な神の祭司の民であった。しかしイエス様が十字架上で死んでくださってよみがえってくださったときに祭司の民を定義する契約の儀式が変わってバプテスマになった。主イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける者はイエス様の祭司になったので、異邦人もユダヤ人も一つであることをパウロはガラテヤの手紙の中で強調する。だから一緒に同じ聖餐をいただく。異邦人とユダヤ人は一つ。男性と女性も一つである。旧約の中で女性は祭司になることはできない。祭司は男性のみであった。しかし、主イエス・キリストにあってバプテスマを受けたら、女性もイエス様に仕える祭司になって天の至聖所に男性と同じように入って祈りをささげることができるようになる。コロサイの手紙の中に野蛮人が何人か出て来て、この人たちもバプテスマを受けると私たちと一つである。ある意味で驚く。この人たちは、汚くて、臭くて、マナーは一切ないし、隣に座ったら恥ずかしくなるような人たちであった。でもこの野蛮人たちがイエス様を信じてバプテスマを受けたらあなたたちも受け入れなさいと言う。主イエス・キリストにあってバプテスマを受けたら一つである。同じように神様に近づくことができる。同じ聖餐をいただくことができる。それが教会の一致を表す食事である。パウロはガラテヤの教会に、異邦人もユダヤ人も一つであると強調している。

⚫️ローマ人への手紙

ローマ人の教会にも問題があった。強い兄弟と弱い兄弟の違いである。ユダヤ人と異邦人の違いのように見える部分もあるが、もしそうだったらパウロははっきり言うと思う。そうではなくて、弱い兄弟は食べ物や安息日の教えを守らなければならないと思っている兄弟のことで、強い兄弟は何を食べても良いしどの日でも神様を礼拝することができると思っている兄弟である。礼拝することは大切だが、安息日とは旧約聖書の土曜日の話であり、クリスチャンは昔からイエス様の復活を記念して日曜日に礼拝している。でもユダヤ人のクリスチャンは土曜日も日曜日も礼拝を守ることがあった。強い兄弟は弱い兄弟を見下してはいけない。弱い兄弟は強い強い兄弟をさばいてはいけない。弱い兄弟と強い兄弟は一緒に同じ聖餐をいただいて、お互いを兄弟として認め合って愛さなければならないことをパウロはローマの教会に話している。

⚫️コリントの教会

コリントの教会にも問題があった。コリントの教会には、あなたがたはまだ子どものようだと言って叱る。パウロはローマの教会は叱っていないが、コリントの教会は叱っている。しかしガラテヤの教会のように叱ってはいない。ガラテヤ教会はあまりにも問題がひどくて、救いについての教理の違いは許されないのでパウロはガラテヤの教会に感謝しない。

コリントの教会はあまりにも未熟で、変なことについてお互いにけんかしたりする。教会の中には道徳の問題もあったが、何よりグループに分かれてしまっていたことが問題であった。私はパウロにつく、私はケパにつく、私はキリストにつく、と言うように分かれてしまって、教会の中に一致がなくて無意味なけんかがあったりした。パウロはコリントの教会に主イエス・キリストのからだの話をする。からだはたくさんの部分に分かれているが、目が手を必要としないことなどないし、手が足を必要としないことなどない。そしてからだは一つであることをパウロは強調する。キリストにあってバプテスマを受けた者は一つのからだである。一緒に同じ聖餐をいただいて、同じ神様をほめたたえて、心を一つにして神様に従って歩むようにパウロはコリントの教会に教える。

⚫ピリピの教会️

今日の箇所でピリピの教会にどんな問題があったのかはわからないが、パウロは二人の女性に同じ思いになってくださいと言う。原語では、同じことを考えなさい、という言葉である。何のことで二人が違う考えになっているのかは4章では説明していない。問題の内容をパウロは言わないので注解書でいろいろな推測があるがわからないことはわからなくてよい。パウロは教会の人たちにこの二人が一致を持つことができるように助けてほしいと言う。彼らは福音のために一緒に戦った同労者だからである。だから一つの心を持って神の御前で続けて働くようにパウロは勧める。一致について考える時、皮肉なところがある。それはパウロとバルナバの話である。AD48~49年頃、パウロとバルナバはエルサレムの会議が終わってからもう一度ガラテヤの教会に行って皆の信仰を励まそうとした。バルナバはマルコを連れて行こうとしたが、パウロはマルコは連れて行かないと言う。二人のけんかは大きな問題になってしまって、結局二人は別れて、バルナバは従妹のマルコを連れて行き、パウロはシラスを連れてガラテヤ、マケドニア、コリントに行った。二人が別れて働いたが一緒に聖餐をいただかないということはないし、兄弟として認め合わないということもないし、一緒に礼拝しないということもない。しかし働きを別にする。パウロはマルコを同労者として認めなかった。どちらが正しかったのか、パウロなのかバルナバなのかと注解書に書かれているが、60年頃になるとパウロはマルコと一緒にローマに行く。そしてパウロの軟禁状態のときにマルコも一緒にいた。テモテへの手紙の中でパウロはマルコが福音の働きのために役に立つと言っているので、最終的には一緒に働いている。最初の伝道の旅の時にマルコが途中で帰ってしまったので、責任が与えられたのにそれを捨てたマルコをパウロは無責任だと思って一緒に旅に出なかったのだが、バルナバと共に働いているうちに、マルコが自分の罪を悔い改めて福音のために働く者として成長した。それでパウロはマルコを許して10年ほどたって一緒に働くことができたことが結論である。バルナバもパウロも両方正しかったと思う。意見が違う。見方が違う。しかしマルコにはバルナバの助けが必要だったし、パウロの厳しさも必要だった。二人とも神様に用いられて、マルコは悔い改めて成長して神様に仕えることができるようになった。しかし二人が違う意見のときにどちらが正しいかはわからないし、良い結末になるかもわからないということは非常に面白い。一致を非常に強調するパウロは妥協しない。福音の定義について、罪について、パウロは妥協しないではっきりみことばを教えて、兄弟がはっきり互いを愛し合って、同じ聖餐をいただいて、同じ神様に仕える。

同じ思いになってくださいとパウロは4章で言うが、じつは同じことを2章でも言っている。

【ピリピ2:2~3】あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も自己中心的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストのようにほかの人の方が自分より大切だと思いなさい。パウロは4章の二人の女性にも同じように相手を自分よりも大切だと思いなさいと教えている。

毎週聖餐をいただくとき、主イエス・キリストのからだが一つであることを覚える。御父、御子、御霊の名によってバプテスマを受けた者は私たちの教会の教会員ではなくても一緒に聖餐をいただくことができる。考え方はちがっていても、主イエス・キリストに仕えるからだは一つであるので、毎週一緒に同じ聖餐をいただく。そして聖餐をいただくときに、私たちが主イエス・キリストのような思いを持つように心をあらたにするという意味も含まれる。ほかの人の方が自分より大切だと考えて、主イエス・キリストのように歩む誓いをあらたにする。そのことを覚えて一緒に聖餐をいただきたいと思う。




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