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「平和の神がともにいてくださる」ピリピ4:8〜9

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ4:8〜9

最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

今日の箇所は、ある意味で普通のような箇所であるが、珍しい箇所とも言える。普通のような箇所に見える理由は、この文章が簡単な契約の構造になっているからである。まず命令が二つある。「これを心に留めなさい。」と「これを行いなさい。」である。そうすれば、「平和の神があなたがたとともにいてくださる。」という約束がある。命令があって契約の祝福の約束があるのは普通の旧約聖書の契約の構造である。平和の神がともにいてくださるという祝福の約束は、旧約聖書に百回くらい出て来る。一番よく知られている箇所はヨシュア記1章である。

【ヨシュア1:3b】わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

神様はこのようにヨシュアに約束して励ました。一緒にいてくださるという約束が百回も繰り返されていることに驚くが、これが旧約聖書の普通の契約の構造であった。

しかし珍しいのは8節である。パウロはいくつかのリストをあげてそれらに心を留めなさいと言う。そのパウロの言い方は珍しくて不思議な言い方である。このリストの中の二つはどこにも使われていないことばである。新約聖書にも七十人訳にもない。ピリピの教会の人たちはそのことばを読むときに意味がわからないということはないが珍しいことばを使っている。パウロが明らかにこの箇所を指しているという聖書箇所もない。註解書では、パウロがなぜこのリストを選んだか、そしてなぜこの順番なのか、この二つの質問が出てくる。なぜこの順番なのかは正直に言えば私はまだ考え中である。なぜこのリストなのかを考えると、例えば「すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと」という言い方から、パウロはピリピの教会の中のことだけではなくて、外の人たちに対する証しのことも考えてこのリストを書いていると思う。「すべて愛すべきこと」は社会を広く考えることだと思う。今日はこのリストについて少し考えてみたいと思う。

すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。 (ピリピ4:8)

・最初のことばは「真実」でキリストについて言われることばである。

・「正しいこと」もキリストについて言われることばである。

・「清いこと」は、手紙の中に五回も出てくるがパウロの手紙が一番多い。第一ペテロに1回、第一ヨハネに1回出て来る。しかしピリピの人たちは、第一ヨハネの手紙はまだ持っていないと思う。ピリピ人への手紙が書かれたのはAD62年頃で、第一ヨハネが書かれたのはその後だ。ほかにはヤコブの手紙3章に書かれている。ヤコブの手紙はAD30~31年頃に書かれたので、ピリピの人たちは多分ヤコブの手紙を持っていたと思う。マタイの福音書はペンテコステが終わってからわりと早くAD30年頃に書かれた。そしてヤコブの手紙がその直後に書かれた。だからヤコブの手紙の中でマタイの福音書を指しているところがたくさんあるのではないかと思う。特に山上の説教を指しているところがたくさんある。ヤコブの手紙を書いたヤコブはヨハネの兄弟である。ヤコブはAD44年頃に死刑にされた。

【使徒の働き12:1〜2】そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

ヤコブの手紙が書かれた当時はクリスチャンはユダヤ人のみなので、ヤコブはユダヤ人の教会の中の問題について手紙を書いた。

【ヤコブ3:17〜18】しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。

ヤコブは、上からの知恵はまず第一に清いものであると言うが、パウロがピリピ人への手紙で使っている「清いこと」と同じことばである。普通の清いということばとは違うので、ヤコブは「まず第一に」と強調する。

ヤコブは清さに続いて平和をリストにあげている。パウロもピリピ4章で平和の神がともにいてくださると約束している。

本当の知恵はまず清い。そしてヤコブは平和を三回も強調する。平和はギリシャ語でエレーネ、英語でアイリーン、ヘブル語でシャロームである。シャロームは平和も平安も含む言葉である。平和は客観的な外のことで、平安は心の中の話である。だからシャロームは外だけではなく心の中も含まれる。シャロームの神様がともにいてくださるとピリピの教会に約束されている。パウロがピリピの教会に書いた手紙の中でヤコブの手紙も指しているのではないかと思う。ヤコブも清さと平和と平安を強調している。

【ピリピ4:6〜7】何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

この平安も同じギリシャ語のことばである。パウロが清さを強調する時、平和と平安も強調している。なぜならAD30年のオリーブ山の説教で、この世代が終わる前に試練が来るとイエス様が預言しているからだ。すでにピリピの教会は試練にぶつかっていた。これからも大きな試練にあう。だから彼らは神の平安で心を守られる必要がある。平和の神様がピリピの教会とともにいてくださるなら試練に向かうことができる。ピリピの教会は、真実で、清くて、正しいことに心を留めて歩むように励まされている。

このパウロのリストを見ると、周りの社会への証しを強調していると思う。

【ローマ12:18】自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。

相手がクリスチャンでなくても平和を保つ必要はあるし、尊敬する必要はある。すべての良いものを認めて受け入れて、周りの人々と平和を保つようにパウロは励ましている。周りの人にも神の恵みは与えられている。クリスチャンではない人の中で、自分より思いやりがあって、親切で良い人はいる。自分はクリスチャンで、相手はクリスチャンではないから、自分の方が優れているとは思えない。なぜ神様を知らない人たちが思いやりがあって親切で心の良い人になり得るのか。私たちはみんな罪人で罪の心が深いのだが、神のみ恵みが働いているので、神様はクリスチャンではない人にも恵みを与えてくださるからだ。すべてこの世の中の良いものは、唯一絶対なる神様の恵みから与えられる。クリスチャンではない世界の中で尊敬するものがあれば尊敬しなさい。クリスチャンではない世界の中で正しいものや良いものがあれば、それを認めて心に留めなさい。ただし、それを考える枠組みは、真実で正しく清いことである。つまり唯一の絶対なる神様との関係において全てを考えるべきである。神の恵みにほかならないという枠組みで考える。それを神学的なことばで一般恩寵と呼ぶ。神様はすべての人間に良いものを与えてくださる。良いものはどこを見ても恵みなる神様の働きであると考えて喜ぶことができる。

・何か徳とされることや賞賛に値すること

これはパウロのリストの条件のようなものである。創造主なる神を信じる枠組みの中で、すべての良いものが恵みなる神様から与えられていると思いなさい。すべての良いものから学ぶことができるはずだとパウロは言う。

あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。(ピリピ4:9)

そしてピリピの教会に、パウロから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさいと言う。ピリピの教会はパウロから何を神を学んだのだろうか。

・学んだこと

【ピリピ1:21】私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

パウロはすべての手紙の中で主イエス・キリストについて広く深く教えている。キリストが中心であることはパウロの教えの中にある。ピリピの教会にどのような思いを持つべきかを教える。

【ピリピ2:3~5】何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけではなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

この世に人間として生まれて、人間として生まれただけではなくて、ご自分を低くして十字架の道を歩んでくださった。それはご自分のことよりも私たちのことを大切に思ってくださったからである。

【ピリピ2:9~11」それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは王です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

パウロはイエス様の復活と再臨についても教えている。

・受けたこと

ピリピの教会はパウロの教えを受け入れて、主イエス・キリストを救い主として信じた。

・聞いたこと

テサロニケの手紙を見ると、パウロが朝から晩までみことばを教えていたと書かれている。パウロはピリピを出てからテサロニケに行って同じようにテサロニケでも教えていた。

・見たこと

パウロは教えているだけではなく模範を示していた。自分で働いてお金をかせいで、ピリピの教会を教えていた。パウロは自分を否定して十字架の道を歩む模範を示している。パウロの教えの意味を考えて具体的に真似しなさいと言う。パウロのように旅をしなさいという意味ではなく、倫理的な意味である。生活において主イエス・キリストを第一にして、自分を低くして他の人を祝福する。その模範をパウロはピリピの教会に示した。パウロはピリピ2章でイエス様の模範に従って歩みなさいと言ったが、テモテの模範から学びなさいとも言う。

・行いなさい。

これもヤコブの手紙を思い出す。

【ヤコブ2:17】信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

ヤコブは信仰の行いを強調している。

・平和の神がともにいてくださる。

神様ご自身が平和である。御父、御子、御霊なる神様には永遠の完全な調和がある。神は愛であるとヨハネの福音書にあるが、三位一体なる神様が一緒にいてくださるという約束をパウロは話している。神様が三位一体の神でなければ愛なる神とはなりえない。単一の神だったら愛する相手はいない。三位一体の神様は平和の神である。存在において完全に調和して完全にシャロームなる神様である。シャロームを与えてくださる神様がともにいてくださるのである。神様との契約において約束されているのはシャロームなのである。シャロームは救い全体を表している神様である。

私たちの教会の墓地にはシャロームと書かれた石がある。私たちがこの世から召されてイエス様のところに行く時に、完全な、永遠のシャロームに入る。

パウロがピリピの町に行った時、逮捕されて獄に入れられた。そこは獄の中の獄で、パウロとシラスは一番ひどい所に投げ込まれた。そこで二人は真夜中に泣いていなかった。祈って賛美していた。平和の神がパウロとシラスとともにいてくださったので、シャロームを心にもっていた。そして神様が守ってくださった。あなたがたが見たことを行いなさいとパウロは言う。試練に会うとき、祈って感謝して平和の神を信じる。そうすれば平和の神はともにいてくださる。これは強調しすぎることがない祝福の約束である。私たちの毎週の礼拝の終わりに、どうか一緒にいて平和を与えてくださいと祈る歌を歌う。どうかシャロームの神様が私たちとともにいて下さいと祈る。

そのことを覚えて聖餐式をいただく。




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