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「私は主にあって大いに喜んでいます」ピリピ4:10〜13

更新日:2月6日

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ4:10〜13

あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。 私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

この箇所を理解して楽しむために、パウロの背景とピリピの教会の背景をまず思い出していただきたい。

⚫️パウロの背景

・タルソのパウロ

パウロはタルソという町で生まれ育った。タルソは今のトルコの真ん中あたりの町で、パウロが生まれた当時は貿易の町として栄えていた。同時に、ローマ帝国がアテネを倒した時に(BC88年頃)タルソに逃れた哲学者たちがたくさんいた。それもあってタルソは教育の町として有名で、特に哲学の町として有名であった。当時の哲学や教育は、今の私たちの時代と雰囲気が違っている。道で人と人が出会うと哲学の話をしていた。パウロは天幕職人だったが、天幕を作る時も客と哲学の話をした。今のアメリカで人々がよく政治の話をするのと似ているかもしれない。それにタルソには色々な哲学の学派があって、討論もよくあったので、人々はそれに慣れていた。パウロはそのような町で育ったので、パウロの手紙にはギリシャ哲学を指したりそれを前提にしている箇所があちこちに出て来る。

・エルサレムのパウロ

パウロはユダヤ人で、エルサレムでパリサイ派のガマリエルという一番優れた学者のもとで学んでいた。(使徒22章)

ヨセフスを見ると当時のユダヤ人の子どもたちは十五歳になると学問を始めると書いてあり、それは一般的な普通のことだったので、恐らくパウロも十五歳くらいでタルソからエルサレムに行ったのではないかと思う。パウロは十二歳から父親のもとで天幕作りを学んでいたが、イエス様が親と一緒に神殿に行き、そこで学者たちに質問したり話していたことを思い出す。その時のイエス様も十二歳だった。

パウロは父の店で働いたり、客と話したり質問したりしていたと思う。タルソはスポーツよりも学問の町として有名だったので、パウロも子どもの頃から学問の話題を聞いていたはずである。

パウロは十五歳からガマリエルのもとで勉強したが、同じように教育を受けた他のだれよりも優れていた。

【使徒9:1~2】さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸教会宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出して、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。

パウロは大祭司も認めて尊敬して責任のある手紙を預けるようなパリサイ派のユダヤ人であった。

これがパウロのパリサイ人としての背景である。パウロはみことばに満ちていて旧約聖書をよく知っている。それが彼の手紙の中によく表れている。

⚫️ピリピの教会の背景

ローマ帝国の中でピリピは特別な植民地のような町だった。 他のローマ帝国の町で生まれてもローマの国籍をもつとは限らないが、 ピリピで生まれた人はすべてローマの国籍を持つことができた。そしてパウロもローマの国籍を持っていた。

ローマの国籍をもつことはピリピ2章で大切になる。2章には、イエス様が人となって十字架の死にまでご自分を低くしたことが書かれている。ピリピの人たちはローマの国籍があるので、死刑を宣告されても十字架にはかけられない。ペテロは十字架にかけられたが、パウロは十字架ではなく首をはねられた。だからピリピのクリスチャンたちは、イエス様が自分たちを罪から解放するためにそこまでご自分を低くしてくださったことを深く感じているはずだ。どんなに自分を低くしようとしても、ローマの国籍を持っている人はそこまで自分を低くできない。

ローマ帝国は理想的な国だと思われていたので、ピリピの人たちも自分たちの町を小さなローマにするために当然努力する。当時のローマ帝国で、一番尊敬されて、一番影響力があったのはストア派のセネカであった。彼はBC4年に生まれて、AD65年にネロに命じられて自害しなければならなかった。

【ピリピ4:8】兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。


これはまるでセネカが書いたもののように見える。

【ピリピ4:9】あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

つまり、正しいことや清いことなどはキリストにおいて考えなさいとパウロは言う。周りの社会の中で、クリスチャンとして、神の恵みによって与えられた祝福を覚えて、すべてをキリストから学ぼうとしなさい、と言う。これはストア派の哲学とは根本的に違うが、今日の箇所はピリピの人たちに特にストア派のような印象を与えてしまう可能性があり得た。

あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。 私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。(4:10)

ギリシャ語の文字通りに翻訳するとこうなる。

私は主にあって大いに喜んでいます。なぜなら、あなたがたの私に対する思いが今ついによみがえってきました。あなたがたは私を思ってくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。

「私は主にあって大いに喜んでいます。」は日本語では文章の終わりに来るが、原語では10節の一番最初に来る。そして独立した一つの文章になっている。

⚫️乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 (4:11~12)

パウロはどんな境遇にあっても満足することを学んだと言うが、これはストア派の理想である。そしてそれが成長した大人であることがストア派の哲学が強調するポイントである。ストア派はしばしば禁欲主義と誤解されるが実際はそうではない。

パウロは富んでいても貧しくても文句を言わず、耐えて満足することができると言うが、これを見たピリピの教会の人たちは当然セネカの教えを考えるはずだ。町で人々が哲学の話をするのは当たり前の時代で、セネカはとても有名だったので、彼の教えは一般的にみんな知っていたからだ。

パウロと一緒にシラス、ルカ、テモテがピリピの町に伝道に行き、最初にティアティラ市から来ていた金持ちのリディアと出会った。彼女は四人を自分の家に招いたので、パウロたちはピリピに滞在している間ずっと良いものを食べ、良い家に住むことができた。このようにパウロたちはピリピに来てからずっと富むことを経験していた。

ピリピの町には悪霊につかれた女がいた。この女がパウロたちを困らせたので、パウロは彼女の悪霊を追い出した。ところがこの女は占いをして主人に多くの利益を得させていたので、儲ける望みを失った主人たちがパウロとシラスを役人に訴えてしまった。群衆も主人たちに味方したので、役人たちはパウロとシラスを捕らえて、衣をはぎ取ってむちで打ち、牢の中の一番ひどい牢に入れた。ところがパウロたちはがっかりせずに満足して、牢の中で神様に祈りつつ賛美していた。このように貧しくて大変な状況にあってもパウロは神に感謝して喜ぶことができた。

ピリピの教会の人々がこの手紙を受け取って読んだ時に、ピリピを訪ねた時のパウロの働きを思い出すことができたと思う。

【第二コリント11:】労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。…もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。

パウロは苦しみにあって弱っても、それを誇りに思っている。そしてキリストのために苦しむことが与えられてもそれを喜ぶことができる。満足だけではなく、感謝して喜ぶことができる。

私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(4:13)

11節でストア派のような印象を受けてしまっても、ここで否定される。ストア派の考え方は自分に頼るのみである。すべて他力ではなく自力。自分に頼り、自分の力と知恵によって自分は何でもできるとか、満足は自分から出るものであると考えるのがストア派である。

しかしパウロは、満足は私を強くしてくださる方によって成り立つと言う。苦しい時も大変な時も主イエス・キリストにより頼み、御霊の力が与えられることによってどんなことでもできると言う。自分の力や知恵からだとは思わない。主イエス・キリストの恵みのみによって自分が成り立って満足できる。

さらにストア派は「私は主にあって大いに喜んでいる。」とは言わない。大きな祝福を受けても喜ばないし感謝もしない。何も受けていないかのように、当然であるかのように受ける。それが成長した優れた人間であるとストア派は教える。

しかしパウロはちがう。ガマリエルの下で教育を受けたパウロは詩篇を学んでいた。神を賛美し、感謝するのは私たちの務めである。これは詩篇を要約しているような感じである。御霊の実の最初の二つは、愛と喜びである。

パウロの模範から学びなさいとピリピの教会に言うが、ピリピの教会の人たちがパウロのことを覚えて、パウロを祝福してくれていることを主にあって大いに喜んでいる。ピリピの教会がパウロを愛して祝福するのは神の働きによる恵みである。

パウロがピリピの教会のことを大いに喜び、自分を強くしてくださる方によってどんなことでもできると言い、キリストを誇りに思い、模範を示すことは、ピリピの教会にとって非常に大切である。

パウロがこの手紙を書いたのはAD62年頃である。イエス様のオリーブ山の説教はこの世代が終わる前にキリスト教が迫害され七年間の患難が来ると預言した。それがそろそろ来る。マタイ24~25章、マルコ13章、ルカ21章にオリーブ山の説教について書いてある。

苦しい時代がそろそろ来る。ピリピの教会も、コリントの教会も、ローマの教会もイエス様のことばを知っていて、迫害が近いことがわかっている。

【ピリピ2:17】たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

パウロはイエス様のために殺されることになっても喜んでいる。そしてピリピの教会にも一緒に喜んでくださいと言う。

パウロの手紙全体で、「喜ぶ」ということばは名詞も動詞も合わせて54回出てくる。ピリピの短い手紙の中で54回も出て来るのは割合的に多いので、ピリピ人への手紙は喜ぶことを強調する手紙である。横道であるが、パウロの中で「思う」は11回くらい出て来る。これもパウロの手紙全体の中でピリピ人への手紙には特に多い。「あなたがたは私を思って(案じて)くれていた。(ピリピ4:10)」はその一つ。「自分のことだけではなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリストイエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(ピリピ2:4~5)」これもその一つである。

ピリピの教会の人たちがエパフロディトをパウロのところに送ったのはパウロを大切に思っていたからである。パウロはその祝福を主にあって大いに感謝して神様の御名を賛美する。

私たちもどのような状態にあっても感謝することを学ぶようにパウロは模範を示してくれた。モーセの十戒の第十戒は「あなたは隣人のものを欲しがってはならない。」である。この訳が完全な間違いとは思わないが、正しくは「貪ってはならない」である。隣人が良いものを持っているので私も同じものが欲しい、という思い自体は罪ではない。しかし貪るのは罪である。「私の今の状態は満足できない。感謝できない。喜ぶことができない。」貪るとこのようになる。

パウロは逆にどのような境遇に置かれても、満足、感謝、喜ぶことを学んだ。そしてその模範を私たちに示してくれている。




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