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「頌栄とアーメン」ピリピ人への手紙4:20

説教者:ラルフ・スミス牧師


ピリピ人への手紙4:20

私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

今日の箇所は二つに分かれる。頌栄とアーメンである。

今日はこの二つについて考えてみようと思う。

まず、アーメンから始める。

●アーメン

礼拝で繰り返し唱える言葉であるし、クリスチャン同士で会話している時に相手の言葉に賛同してアーメンと言ったりする言葉でもある。このアーメンという言葉には、考える価値のある深い意味がある。

アーメンはヘブライ語であるが、それをギリシャ語で発音している。ちょうど日本人が外来語をカタカナで発音するのと同じである。聖書では大切な言葉を大切なところから借りている。

アーメンは旧約聖書で30回、新約聖書の中で130回以上使われている。

新約聖書の方がずっとたくさん使われている。パウロは手紙の中で30回使っている。なぜ聖書でこれほどたくさんアーメンを使っているのだろうか。

頌栄は毎回アーメンと言う。なぜだろう。パウロがなぜこんなにたくさんアーメンを使っているのかというと、イエス様が使っていたからである。イエス様は100回くらい使っている。山上の説教の中で使うし、マタイ、マルコ、ルカの福音書の中でもよく使われている。「まことににわたしはあなたがたに告げます。」という時の「まことに」がアーメンである。ヨハネ福音書では「まことに、まことに」と2回繰り返して言う。

イエス様はそのようにアーメンをたくさん使っていた。イエス様がこんなにアーメンを使っているのは、旧約聖書で使われているからではなく、旧約聖書のどこで使われているかを考えるとわかる。驚くかもしれないが、最初にアーメンが出てくるのは、民数記の5章で妻の姦淫を疑った夫の話の中である。

【民数記5:20〜22】しかし、もしあなたが夫のもとにあるのに、道ならぬことをして身を汚し、夫以外の男があなたと寝たのであれば──』ここで祭司はその女にのろいの誓いを立てさせて、その女に言う。『主があなたのももを痩せ衰えさせ、あなたの腹をふくれさせ、あなたの民のうちにあって、主があなたをのろいと非難の的とされるように。また、のろいをもたらすこの水があなたのからだに入って腹をふくれさせ、ももを痩せ衰えさせるように。』そしてその女は、『アーメン、アーメン』と言う。

最初に使われたのは契約の呪いの言葉としてであった。

そしてその次は申命記27章で、カナンに入る前の儀式についての話である。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンの六部族はゲリジム山に立ち、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリの六部族はエバル山に立ってレビ人が大声で宣言する。

【申命記27:15〜26】「職人の手のわざである、主が忌み嫌われる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな答えて、アーメンと言いなさい。

「自分の父や母を軽んじる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「隣人との地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「目の見えない人を道に迷わせる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「寄留者、孤児、やもめのさばきを曲げる者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「どのような動物であれ、それと寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「父の娘であれ母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「賄賂を受け取り、人を打ち殺して、咎のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

どちらも契約の呪いの場面で使われているが、決して呪いを求めているわけではなく、祝福を求めている。自分は呪われるような行動はしません、という呪いの契約の誓いである。だから自分を呪って契約を結んでいる。この契約を守らなければ呪われてもいい、と言って契約を結んでいる。

モーセの五書の中でイエス様が一番好きな申命記も不思議である。イエス様がバプテスマを受けた後で荒野に行って悪魔に誘惑を受けたときに、この申命記から引用して悪魔に答えていた。イエス様は申命記をよく引用している。申命記でアーメンは12回使われている。民数記では2回。モーセの五書の中で使われているアーメンは契約の誓いの箇所である。 「そうだよね」という軽いものではない。イエス様はアーメンという時に、ご自分の言葉の重さを強調している。それを聞いて守るものは祝福される。イエス様は決して呪うためではなく、祝福するために話しているのだが、人々にはアーメンを聞いて答える責任がある。そうでなければさばかれる。アーメンは契約の責任を伴う言葉なのである。契約の責任を要求する言葉なのである。イエス様の言葉の重さ、大切さの表れである。これを聞く時に私たちは責任を持つのである。

私たちの礼拝では、アーメンを12回以上使っている。アーメンと言う時に契約の誓いを一緒に表現している。 アーメンと言う時に契約の責任がある。だからその言葉を軽く言ったりしない。みんな罪人なので、だれでも失敗したり罪を犯したりする。契約を新たにしたのにすぐ罪を犯してしまう。でもだからといって私は誓えないという意味ではない。 罪人でありながら何も気にしないで神の言葉に逆らえばさばかれるが、罪人が悔い改めて赦しを求めるなら赦される。ダビデはウリヤを殺してバテシェバを奪ってしまったが、神は彼を赦してくださった。イエス様は罪人の罪を7の70倍赦しなさいと言う。

ルカ15章でイエス様は、羊を一匹失くした人のたとえ話、銀貨を一枚失くした人のたとえ話、放蕩息子のたとえ話を話されたが、その最後にこのように言われた。

【ルカ15:10】あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

み使いたちの前には神様ご自身がいる。神の罪の赦しの深さを感じる。

●頌栄

私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。

頌栄の話はたくさん出てくる。礼拝が始まる前の頌栄は、御父、御子、御霊なる神への賛美である。祝福の言葉、栄光の言葉である。

「父、御子、御霊の神に、み栄えあれ。初めも今ものちも、世々にたえず、アーメン。」

私たちはこのように歌って御父に栄光を帰する。御父に栄光が世々に限りなくあるように。 

なぜ御父に栄光を帰するのだろうか。

【第一ペテロ1:3】私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。

栄光は父なる神に帰するというのが基本である。それが聖書では典型的な普通のことである。旧約聖書でイスラエルが神を指すときは「(ヤハウェ)」と呼んで、御父、御子、御霊はまだ区別されていなかった。ヤハウェはギリシャ語でクリオスである。クリオスは新約聖書ではおもにイエス様を表す言葉である。

マタイは福音書の中で一番最初に書かれたが、その5〜7章の山上の説教の中で、イエス様は御父という言葉を17回使っている。一つの説教の中で、「天にいます私たちの父よ。(マタイ6:9)」と神を「父」と呼ぶように教えてくださった。私たちもイエス様の教えに従って神を父として見ている。

申命記の中では、イスラエルは神の息子である。出エジプト記では神はイスラエルを初子と呼んでいる。神がイスラエルをご自分の子として見ていることは明らかである。イスラエルは神を父と呼ぶことはしないが、イエス様が神を父と呼ぶ祈りを教えてくださった。

イエス様が弟子たちに、このように祈りなさいと言って主の祈りを教えてくださって、その中で神を父と呼んでいる。そしてその祈りの最後には、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン(マタイ6:13)」という言葉で結ばれている。

私たちは神にどのように祈るべきなのだろうか。

【ガラテヤ1:3〜5】私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。

この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

パウロがこのように祈るのは、永遠なる神の栄光に向かっているからである。礼拝の中でも頌栄を歌う時に、永遠なる神の栄光に向かって歌っている。最終的な目的は神の栄光を表すことである。教会が神の栄光を表すようになり、歴史の終わりに完成する。

【ヘブル1:3】御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

御子は永遠なる神の完全なる栄光の現れである。頌栄の中で毎回それを語っている。

礼拝が始まって、司式者が頌栄を唱え、私たちはアーメンという契約の重い言葉で答えている。これが歴史の終わりまでの望みを表している。毎週「アーメン」と語るときに、その深さを覚えて唱えたいと思う。大きな歴史の意味を覚えて、永遠の栄光を祈り求めて生きる者として「アーメン」と唱える。



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