「欲望を神としない生き方」ピリピ3:17~4:1
- churchmitaka
- 3月16日
- 読了時間: 11分
説教者:ボグミウ・ヤルムラク牧師(CREC フス地区会監督牧師)
ピリピ3:17~4:1
兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。
今日の説教は、ピリピ人への手紙3:17~4:1です。
先ほど朗読されたばかりの箇所です。
⚫️その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(3:19)
パウロは自分の腹を神としている人に言います。この前後関係を見ると、ユダヤ人について話しています。 彼らは私たちが考えるような暴食の罪は犯していなかったかもしれません。そんなに
たくさんの砂糖を食べていなかったかもしれません。どちらかというと暴食と反対のことを気にしていました。何を食べないかを気にしていたのです。このユダヤ人たちはユダヤ教からキリスト教に変わった人たちでしたが、キリストを信じながらユダヤ教も守ろうとしていた人たちで、さらにキリストを信じた異邦人も割礼を受けてモーセの律法に従う必要があると思っていた人たちでした。このユダヤ人たちは、食べてはならないものを避けて、清いものだけを食べていれば、それで天国に入れると思っていました。福音書でこの話がよく出てきます。しかしイエスの復活の後、教会時代になっても、パリサイ人の伝統に従っていきたい人たちはたくさんいました。この考え方の一番の問題はイエスの死と復活と昇天を結果的に否定してしまうことです。というのも、食べ物に関するモーセの律法も割礼も、イエスを指すものだったからです。これらの律法はそれまでの一時的な命令だったのです。
今では、食べ物に関する律法は聖餐式についてのみです。そして聖餐式はイエスがすでに死んで復活して昇天したことを覚えるためにあります。ユダヤ人の問題の一つは、イエスがすでに来てくださったことを否定したことでした。彼らには新しいぶどう酒のための新しい皮袋が必要でした。
ユダヤ人の二つ目の問題は、神が与えたしるしや象徴に気をとらわれすぎて、それが何を指すのか、そこに目を留めていなかったことでした。割礼や食べ物や洗い清めのことを気にしすぎて、それが何を指すのかを忘れてしまったのです。
これは私たちクリスチャンにも起こり得ることです。例えば日曜日に教会に集まる時に、そこで実際に何が起きるのかを忘れたり、ここでやっていることの意味を忘れてしまうことです。
しかしパウロは、より大きな問題について話しています。19節の日本語では「欲望を神とする」と書いてありますが、ギリシャ語ではそのまま「自分の腹を神する」と書いてあります。
この表現は聖書のある人物を指しているかもしれません。今、私の頭にはこの原則を完全に表すある聖書のストーリーが思い浮かんでいます。そのストーリーのある登場人物の神は自分の腹であって、この人は自分の将来を完全にダメにしました。ある双子の兄弟がいて、神様は兄が弟に仕えると預言しました(創世記25:23)。しかし兄はその父と一緒に神の預言に逆らって、みことばよりも人の伝統に従って生きようとしました。それで兄を相続人にするつもりでした。この父親は貧乏ではなく、むしろ金持ちでした。またこの家族は代々祝福されるという神の約束がありました。
弟は羊飼いで、父の家を管理していました。兄の方はヒッピーのような生活で、狩りが好きでした。狩りは羊を飼うよりも楽しいと思っていました。この兄はエサウ、弟はヤコブです。
【創世記25:29~34】さて、ヤコブが煮物を煮ていると、エサウが野から帰って来た。彼は疲れきっていた。
エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を食べさせてくれ。疲れきっているのだ。」それで、彼の名はエドムと呼ばれた。
するとヤコブは、「今すぐ私に、あなたの長子の権利を売ってください」と言った。
エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。
ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮った。
兄は「死にそうだ」と言って、もし食べ物をあげなかったら弟が罪悪感で一生過ごさなければならないような言い方をします。
しかし弟の方は神の約束を覚えていました。それで弟は煮物と引き換えに兄から長子の権利をゆずり受けました。この家族の将来の相続がどうなるかはわかりませんが、兄は食べ物を、弟は長子の権利をゆずり受けました。
ところが、兄が煮物を食べ終わった後で面白いことが起きました。兄は立ち上がってそこを去ったのです。もし彼が本当に飢えて死にかけていたのなら、一食だけ食べてこんなにすぐに回復するはずはありません。兄はお腹はすいていたかもしれませんが、飢えてはいませんでした。彼は待ちきれなかったのです。お腹がすいていたので、すぐにその食欲を満たしたかったのです。ただ単に待ちたくなかっただけなのです。腹が自分の神であるとはこのようなことです。
兄は自分の腹にすべて従いました。腹はエサウに「私を満たしなさい」と言い、兄はすぐに聞き従いました。自分の腹に奴隷として仕えたのです。この瞬間に彼の将来は意味のないものになりました。まるで買い物をしているときにレジの前で泣き叫ぶ小さな子どものようです。目の前にあるアメが欲しくて仕方ないのです。
しかしその子の父親は、ここでアメを買うよりも家でステーキを食べましょう、と言うかもしれません。
皆さんはマシュマロ実験を知っていますか。
今すぐにマシュマロを一つもらうことができる。しかしもう15分待てば二つもらえる。あなたならどうしますか、という実験です。これは約束する相手にかかっています。この提案をしてきた人が信じられる相手なら15分待つ方が良いのですが、信じられない相手が言うなら今すぐに一つもらった方がいいと思います。
エサウは待たずにすぐに一つ食べるような人物でした。彼は自分の腹の奴隷だったからです。神の約束に描写されていた将来の約束を、今のために捨てることを選択しました。
【ヘブル12:16】また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
英語の聖書では、清くない者にならないようにと書いてあります。ギリシャ語ではディベロスという言葉で、世俗的なものや神のない状態を指すときに使います。
【第一テモテ6:20】テモテよ、委ねられたものを守りなさい。そして、俗悪な無駄話や、間違って「知識」と呼ばれている反対論を避けなさい。
「俗悪な無駄話」と訳されている言葉がそれです。自分の腹に従って生きたエサウは意味のない人生を送りました。自分の食欲を制することができなかったのです。聖書では私たちの食欲は必ずしも悪いものとは言っていません。しかし私たちは赤ちゃんとして生まれて、次第に自分の欲するものを正しい順番で求めていくように成長していきます。アメリカの副大統領バンスが最近話していたことですが、西洋の中心的な一番の問題は、愛の順番についてだそうです。これは正しい優先順位とか、整えられた愛ということらしいのですが、西洋ではこれが間違っていたことが問題だそうです。もともとはアウグスティヌスが作った表現ですが、C・S・ルイスもよくこのことを話しています。言い換えると、優先順位を正しくしないと迷ってしまうということです。エサウがその後ヤコブに会ったときにある程度は罪を悔い改めているように見えますが、エサウの人生は意味のないものになってしまいました。
神が天と地を創造したときに、地は形もなく何もありませんでした。しかし神のみことばによってすべてのものが創造されました。空(から)のものが満たされたのです。そして一週間後には園ができて、その外にハビラというところがあって、とても良質な金がありました。神はアダムにそのことを話して、アダムが良い金を望むように導きました。ポイントは、私たちが正しい優先順位によって物を愛することを神が望んでいるということです。より大切な物とそうでない物ががわかるように、目的と手段を区別することができるように。
これをしないとエサウのように意味のない者、迷う者になってしまいます。最終的に創世記1章の形のない最初の状態に戻ってしまうのです。パウロはこのことに関して警告を与えています。私たちがエサウのように生きるなら、人生は破壊に向かいます。パウロは、エサウの模範に従うのではなく、パウロの模範に従いなさいと言います。もちろんパウロは自分がキリストのようだとは思っていません。
【ピリピ3:12】私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
パウロのように宣教師になりなさいという意味ではありません。とにかくなんでも真似しなさいと言っているのでもありません。パウロが目標に向かって進んでいるように、あなたがたもそうしなさいと言っているのです。
【創世記15:5】そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」
星空は単なる比喩ではありません。創世記からわかるように、空は天を表すものです。ピリピ3章でパウロがこのことを話します。天を見上げなさい。天だけに正しい優先順位のためのパターンがあるからです。パウロはほとんどの手紙でこのように繰り返しています。
【コロサイ3:2】上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
またピリピ人への手紙にはこのように書かれています。
【ピリピ3:20】私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
これはパスポートの話ではありません。ある文化、ある価値観のことを指しています。私たちは自分が何のために造られたかを忘れてはなりません。
【詩篇8:5~6】あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。
私たちは神のご栄光のために造られました。 人は地のちりで造られたので私たちは地のものです。犬や猿と変わりません。 野良犬のようなものです。ただ自分の欲に導かれているにすぎません。家で飼うような犬は私たちの友となることはできますが、それは犬が私たちに忠実だからです。しかし神様は私たちに霊も与えてくださいました。だから私たちは天のものでもあります。キリストにあって私たちは天使よりも高くなります。だから私たちの故郷は天にあるのです。 自分たちはただ早く死んで天に行きたいと思うのではなく、どちらかというと、アメリカに渡ったピルグリムたちのように地上を天の植民地にするのです。それが私たちの召しなのです。これがパウロがやっていたことでした。私たちも同じようにしなさいとパウロは言います。
イエスは私たちに、天の御国を求めなさいと言います。
それで私たちの前にある道は二つです。一つはエサウの貪欲な道です。この道を行くと私たちは自分の欲の奴隷になります。この道を歩む人は未熟なままでいられます。パウロはピリピの人にも言いますが、この道は自分の得になることだけを考えている道です。しかし私たちが自分の得だけを考えているなら、実際には何も得にはなりません。
もう一つの道はパウロが模範を示している自己犠牲の道です。パウロは目の前のもので満たされることを拒否して、永遠の報いを求めています。これは犠牲を払うことによって天に入る栄光のことです。そのためにはどうすれば良いのでしょうか。パウロが言うように、天にあるものを求めることです。本当に良いもの、徳となるものを求めなさい。全てはみことばに耳を傾けることから始まります。パウロの模範は色々あります。日々の習慣を良くすること、それはすべて日曜日の朝に教会に来ることから始まります。天にあるものに思いを留めることは神を礼拝することから始まります。
礼拝が私たちを形作ります。私たちの欲するものを決めます。それによって正しい優先順位も決まります。私たちの人生のカオスを美しい秩序のあるものに変えてくれます。
だからみことばを聞きましょう。感謝をもって神の恵みを受けましょう。それが神が私たちに与えてくださった恵みを讃えることです。そして良い模範となる人と共に時間を過ごしましょう。
そして、天で神の御心が完全に行われているように、地でも完全に行われる日が早く来るように今よりもっと祈りましょう。私たちが何者で何を求めるべきなのかを常に思い出さなければならないことを、パウロはピリピ人への手紙の中で話します。十字架の道はまことの栄光への道だからです。そして腹に従う道は、意味のない無駄な人生につながります。
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