「罪人を赦す神の喜び」ルカ15:1~3、11b~32
- churchmitaka
- 3月30日
- 読了時間: 15分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ルカ15:1~3、11b~32
さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
…
「ある人に二人の息子がいた。
弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
今日は四旬節の第四主日です。私たちが自分の罪を覚える時、神の赦しに信頼して悔い改めます。今日読んだ放蕩息子のたとえ話は、罪人を赦す神の喜びについて書いてあります。
まず、喜ぶ神とは反対に、喜んでいないパリサイ人の姿から始まります。
⚫️すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。(15:2)
イエスは罪人たちと食事をしていました。罪人というのは、遊女や取税人など当時の社会で見下されていた人たちのことです。イエスはそのような人たちと共に食事をして、彼らを受け入れていました。それを見たパリサイ人や律法学者たちが文句を言っています。彼らに対してイエスは三つのたとえ話を話しました。今日、私たちはそのうちの一つを一緒に考えようと思います。
⚫️ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。(15:11b~13)
この放蕩息子が犯した罪はどこから始まっているのでしょうか。
まず父に「財産をください」と頼むところからです。これは当時でも今でも考えられないことです。あなたが二十歳だと考えてください。あなたの親は生きていて元気です。その状況で親に生活費や学費をくださいと言うのは普通かもしれませんが、でも「私の相続分を全て今ください」と言えますか。「あなたの財産はいくらですか。」と父に聞いたり、そこから計算して「では三千万円ください。」と息子が言ったなら、父はそれを聞いて喜ぶはずはありません。実際にはこのように聞く息子はいないでしょう。
なぜこれがそんなにひどいことかというと、息子は自分の父より財産を大切にしていることが明らかだからです。与える人よりももらう物の方を大事にしています。だから彼はお金だけ取って遠い国に行ってしまいます。お金だけが欲しくて、父のことはどうでもいいと思っていました。
そしてそのお金は全て自分の快楽のために使ってしまいます。とても自己中心的な息子です。贅沢な家に住んで、ご馳走を食べて、そして遊女と遊んでいます。そんな生活を続けていたのです。じつはイエスと一緒に食べている人の中にもそのような人がいました。私たちの中にも、似たようなことをしている、またはしたことがある、または機会があればする、という人たちもいるでしょう。私たちは自分の手にあるお金は自分のもので、自分のために使うものだと思うかもしれません。そして時間、健康、富は神様が幸せを求めるために私に与えたと思ってしまうかもしれません。それで私たちは神から遠く離れて、神からいただいた賜物だけで自分を満たそうとします。友を探して一緒に飲んだり、噂話をしたり、人をコネとして見て利用したりします。あるいは、ただ心地よい生活をしたいために自分の家の中だけが平和で豊かであれば十分で、ほかの人の苦しみから目を逸らそうとするかもしれません。自分だけが良ければそれで良い。そのような生き方をします。これらの人々の共通点は、神よりも神が与えるものだけが欲しいということです。神を求める霊的な鍛錬はしたくない。荒野を通って約束の地までついて行きたくない。それで エジプトに戻って、エジプトの肉、ニンニク、ニラを食べたい。
そんな息子がいる父は、その財産を渡してしまいます。息子が遠い国に行っても止めませんでした。手放したのです。父親にはこの息子が何をするかわかっていました。放蕩でお金を使い切ることも知っていました。それなのに息子を引き渡したのです。
きっとこの時点で息子は大喜びで出発したでしょう。さようなら。自分がどれだけ運がいいのかと思ったかもしれません。大金を手にして、責任からは遠ざかり、働く必要もなく、父からも離れて、だれも自分をさばく人はいません。
私たちも気をつけなければいけません。自分が求めていたものが手に入ったからといって、それが神の祝福とは限らないということです。私たちが求めているものはだいたいが毒なのです。
父は息子が離れていくときに深い悲しみがあったはずです。父は門で息子を見送りますが、息子は振り向かなかったでしょう。父は息子が自己破壊の道を歩んでいることがわかっています。
神様は、私たちが何を求めるべきか、何を選ぶべきか、いつも教えてくださいます。神様は私たちに、永遠のいのちを選びなさい、天にある宝を求めなさい、と教えてくださいます。しかし私たちはこの地上の宝で自分を満たそうとし、結局死を選びます。私たちがしつこくそれを求め続けるので、神様は私たちを教えるために、私たちに譲ります。あなたの求めるものをどうぞ。それはこの道を歩んでどこに辿り着くのか、この道はどこで終わるのかを示すためなのです。この父が息子を手放したのは、息子のことをどうでもいいと思っているのではなく、あきらめているのでもなく、憎んでいるのでもありません。彼に道を教えるためだったのです。
【箴言14:12】人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。
そのような道を歩んでいることを、その子が悟るためなのです。
実際に、神様はアダムをそのように導きました。神様はアダムに、何を選ぶべきか、何を選んではならないのかを教えました。善と悪の知識の木の実を食べてはいけない、そこには死がある、とはっきり教えたのに、アダムは神のことばを聞かずに食べてしまいました。食べようとした時に、神様はアダムを止めないで、食べることを許しました。
サムエルの時代に、イスラエルが自分たちにも周りの国々のような王様が欲しいと言いました。民はあきらめずに言い張ったので、神は止めずに、譲って、サウルを王として与えました。サウルは最終的に利己的な独裁者となってしまいました。
【詩篇81:10b~12】あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。しかしわたしの民はわたしの声を聞かずイスラエルはわたしに服従しなかった。それでわたしは彼らを頑なな心のままに任せ自分たちのはかりごとのままに歩ませた。
パウロも同じように、神様が罪人を自分の罪に引き渡すと言います。
【ローマ1:28~29】また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。
求めているものが手に入ること、それが私たちへのさばきとなります。だから自業自得なのです。神様が私たちを苦しめようとしているのではなく、私たちが自分にしていることなのです。私たちは神を認めず、神を無視して、神が与えようとすることだけをもらって神から離れようとします。その時に神様は私たちを手放します。
⚫️何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。(15:14~16)
父が思っていた通り、息子は結局自分をダメにして破壊に至ります。
⚫️しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
(15:17~19)
ここでやっと変化が起こります。彼は、手に富と自由があったときには喜びましたが、それは祝福ではなく呪いでした。
私たちもいろいろな段階で自由になることがあります。自由になるとはだれもあなたが何をしているか知らない状態です。善と悪を知っている人のさばきの目から解放されて、一人暮らしを始めたり、留学したり、会社に就職したり、周りの人に自分がクリスチャンだとわからない環境に置かれたりする状態です。お金も自由です。お金で欲しいものが手に入る状況になりました。 これこそ祝福で幸いで幸せだと思ったのですが、じつはこれが呪いだったのです。
そして逆に彼が陥った不幸、その破壊こそ、祝福で救いへの道だったのです。困った状態が神の恵みでした。この世の富は早く腐ってなくなって死んでいきます。これこそが神の恵みです。だから私たちはまだ希望があるうちに、自分が神を必要とすることに気づくことができます。神に戻る機会があります。
この放蕩息子が戻ったときに何が起きたでしょうか。それがこのストーリーの一番のポイントです。父は彼のことを受け入れるが息子ではなく雇い人として受け入れると言うでしょうか。父は与えたお金を全て返せと要求するでしょうか。あるいはもっと憐れんで、反省文を書かせて、書いたものを見てこれでは反省が足りないと言ったり、土下座して渡しなさいと言うでしょうか。ちゃんとしっかり悔やんでいることを表したら受け入れると言うでしょうか。そのいずれも正義だと思うかもしれません。少し復讐心が混ざっているかもしれません。
⚫️こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。(15:20~24)
放蕩息子の悔い改めは、とても単純なものです。ちゃんと自分の罪を理解できているかは確認できませんでしたが、父親にとってはこれで十分でした。息子は自分のセリフも最後まで言えていない状態で、父は答えているのです。父はすぐに彼を受け入れて、息子の身分として、しかも父に喜ばれている息子として、受け入れられていました。
神様は悔い改めるためにバリアを張ることはしません。この悔い改めの一言、信仰の一粒を受け入れて、喜びをもって私たちを迎え入れてくださいます。
⚫️ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」(15:25~27)
踊りや音楽などから、この宴がどんなに大きかったかがわかります。
【ルカ15:10】一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。
⚫️すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』(15:28~30)
父の方から兄に近寄っています。
ここで見えるのは、兄の方は自分が義人だと思っていて、自分に罪はないと思っていることです。兄は父の戒めを一度も破ったことはないので、自分には悔い改める必要はないと思っています。それと同時に、自分がどれほど父に愛されていて恵みを受けているか、その認識もありません。感謝がないのです。兄は子やぎ1匹もらったことがないと父に言いますが、自分に与えられた祝福は目に入らない状態でした。でもそんな息子に父は次のように答えます。
⚫️父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
そんな兄に父は愛と恵みのことばで語ります。
そしてここで弟の罪の結果を見ることができます。弟は悔い改めて戻ってきましたが、また財産をもらえるわけではないのです。お父さんの残りの財産は全て兄のものになります。神様が私たちの罪を赦す時に、私たちの罪の結果を全て帳消しにするわけではありません。私たちが自分のお金を無駄にしたなら、あるいは時間や健康を無駄にしたなら、悔い改めた後でそれが戻ってくることはありません。
このたとえ話は恵みの話です。私たちが戸惑いなく、すぐに悔い改めて御父の元に戻るように励ます話です。そして私たちが神の恵みにより頼むように招きます。
しかし同時に、私たちに対する警告でもあります。私たちが自分の罪を悔い改めないと、兄弟を愛することはできません。兄弟の罪は見えても自分の罪は見えていないので、兄弟を恨みます。その兄弟を赦す神のことも恨みます。
【第一ヨハネ2:9】光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。
神様が自分に与えている祝福が見えず、感謝もしなければ、神を恨み、神に祝福されている兄弟も妬みます。この世の富は全て腐ってなくなります。実際のお金も、この世の恋愛、結婚、快楽も全て終わります。しかし、神様が本当に私たちに与えようとしているのは神ご自身なのです。神は生ける水の永遠の泉です。
神様はパンとぶどう酒を通してご自分を私たちに与えようとしておられます。この時に私たちは、このパンとぶどう酒が自分にはふさわしくないと思いましょう。私たちは毎週罪を犯します。神様に与えられた時間、力、機会を全てむだにしたり、またはそれを罪のために使ってしまいました。そして自分の兄弟を妬んでその祝福を求めませんでした。それなのに神様は私たちをこの祝宴に招いてくださっています。
ここはイエス・キリストの食卓で、私たちはそこに招かれている罪人なのです。
私たちは約一時間前に、礼拝が始まってすぐの時に、浅く、大雑把に罪の悔い改めをしたばかりです。自分の罪にほとんど気づいていない私たちです。そして罪を告白して悔い改めても、また何度も何度も同じ罪を繰り返します。神様はそんな私たちを悔い改めるたびにすぐに受け入れてくださいます。わたしの愛する子、と呼んでみことばを語りかけてくださいます。そしてこの宴会でご自分を私たちに与えてくださいます。
最後に、ダビデの言葉です。
【詩篇32:5】私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。
だから私たちは神様に感謝しましょう。悔い改めとへりくだりをもって、神に忠実に仕えて、お互いが赦されていることも喜びましょう。
幸いなことよ。その背きの罪を赦され 罪をおおわれた人は。
正しい者たち主を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ喜びの声をあげよ。
詩篇32:1、11
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