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「主は私の羊飼い」詩篇23:1~6

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


詩篇23:1~6

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。

たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。

私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。

まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。


23篇はみんなが大好きで愛している詩篇です。じつにどんな人でも、どんな時でも賛美できる詩篇だと思います。詩篇23篇は、敵の前にいても、死に直面していても、慰めと平安を与えてくれます。そして最終的に私たちの敵が死であることも教えてくれます。

この詩篇は、敵と戦うこと、死、そして復活と永遠のいのちまで語る詩篇です。だからイースターに相応しい詩篇なのです。みなさん、ぜひ暗記してください。いつか皆さんの目が弱くなって読むのが難しくなった時に、あるいは入院してベッドから起き上がれない時に、この詩篇を暗記していればいつでも口ずさむことができますし、必要のある人に語ってあげることもできるのです。


私たちがこの詩篇23篇を読むとき、歌うとき、大体の人は、柔らかくて安心できる慰めの詩篇だと思うでしょう。そして和やかなメロディで歌われることが多いのも特徴です。優しい羊飼いが白い服を着て、先が尖った杖を持って、片手に子羊を抱えている、このようなイメージを持つ人も多いと思います。もちろんこのイメージは間違いではありませんが、じつはそれ以上のものが含まれています。

まずこの詩篇には敵も死も出てくるので、羊飼いは羊を導き守り養うために強くなければなりません。

旧約聖書で羊飼いは王として国を導く人を表します。アブラハム、ヨセフ、モーセ、ダビデは王として自分の民を導き、羊たちを養って彼らに喰べ物や飲み物を与え、安らぎを与え、正しい道に導きます。だから私たちが聖書で羊飼いについて読むときに、必ずそこにライオンや熊や狼が出てきます。そして羊たちは敵に囲まれて死の陰の谷を歩いています。それで羊飼いはむちと杖を手にしているのです。この詩篇は争いと苦しみのうちにいる者たちの詩篇なのです。特に悪魔と死に直面している者の詩篇なのです。


この詩篇はダビデを二つの方向から表しています。ダビデは羊飼いであり、子羊でもあるからです。

・羊飼い

実際にダビデは羊飼いで、文字通りに羊を飼う者で、自分の羊をライオンや熊から守り切った良い羊飼いでした。そしてイスラエルの羊飼いでもありました。悪霊に支配されている国から彼らを守り、蛇のような巨人からも守りました。そしてイスラエルという土地が平和で安らぎがあって食べ物が豊かになるように導きました。

・子羊

ダビデは平和と豊かさだけではなく、神がイスラエルとともにおられるために神の家も準備しました。詩篇23篇の中心は4篇ですが、そこにこのように書いてあります。

【詩篇23:4】たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。

良い羊飼いがどういうものかをダビデはよく理解していました。なぜなら彼には羊飼いがいたからです。主が彼の良い羊飼いでした。そしてダビデは良い羊飼いに導かれている子羊なのです。実際にダビデは良い羊飼いとともに死の陰の谷を歩んで救われました。


⚫️たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。(23:4a)

ダビデには力の強い敵がいました。一番最初に出てくるダビデの敵は兄エリアブでした。エリアブは創世記のヨセフの兄たちを思い出すような振る舞いをします。エリアブにはダビデに対する憎しみがあり、彼を見下していました。恐らくダビデの子ども時代もエリアブとの関係は楽ではなかったはずです。

ダビデの敵はエリアブだけではありません。ゴリアテのような軍人やペリシテ人の軍隊も神とイスラエルとイスラエルの民を憎んでいました。 さらに大変なことに、神に油注がれた王であり、ダビデの義理の父であるサウロが自分を殺そうとしました。それで七年以上の間、ダビデはいのちを守るために逃げ回らなければならなくなりました。洞窟に隠れたり、荒野に隠れたり、敵の町に隠れたりしました。しかし次はさらに深刻になります。やっと平和になって敵がいなくなったと思ったら、最愛の息子がダビデを裏切って殺そうとしたのです。ダビデと長年ともにいて支えてくれた人々もダビデを裏切りました。そしてダビデが守ってきたイスラエルの民、ダビデがいのちをかけて守ってきた羊たちの大半も裏切ってダビデを殺そうとしました。それで老人になっていたダビデはまた洞窟に隠れて逃げまわることになってしまいました。

ダビデは人生の中で何度も死の陰の谷を歩き、そこを通ってきました。それなのにダビデがわざわいを恐れないと言えるのは、神が常にともにおられると確信していたからです。神はいつも彼のたましいをパンとぶどう酒と油と香油で満たしてくださいます。パンとぶどう酒と油と香油は明らかに礼拝を思い起こします。ダビデの霊は常に満たされていました。


⚫️主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。(23:2)

他の詩篇と同じように、詩篇23篇も最終的にキリストを表す詩篇です。イエスこそが神の子羊で、私たちの大牧者、良い羊飼いです。イエスは何度もご自分がイスラエルの牧者であることを示してきました。ご自分が詩篇23篇に書いてある牧者であることを、ことばによって行いによって明らかにしたのです。イエスが五千人を食べさせた時のことをマルコはこのように書いています。

【マルコ6:39】するとイエスは、皆を組みに分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。

マルコはこの場所に青草がたくさんあったと教えてくれます。つまりイエスは文字通りイスラエルを緑の牧場に伏させたのです。


⚫️私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。(23:5)

イエスはご自分の羊を養いました。

【マルコ6:41~42】イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。そして彼らは食べて満腹した。

彼らは満腹するまで食べました。きっとたくさん食べたのでしょう。つまりイエスは彼らに荒野の中で食卓を整えたのです。

【ヨハネ6:13】そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。

つまり、溢れているのです。

【マルコ6:40】人々は、百人ずつ、あるいは五十人づつまとまって座った。

このように座らせたので、パンを食べた男性が五千人だとはっきりしました。良い羊飼いはだれ一人失われないように自分の羊を数えるのです。


⚫️たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。(23:4a)

ヨハネ10章で、イエスはさらにはっきりさせています。

【ヨハネ10:11】わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

これでユダヤ人は、ひょっとしてイエスは自分が王である、つまりイスラエルのメシアであると主張しているのではないか、と気づき始めます。

【ヨハネ10:24】ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきり言ってください。」わたしは話したのにあなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざがわたしについて証ししているのに、あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。

イエスはヨハネ10章でずっとご自分がキリスト(メシア、油注がれた者、神が立てた王)であることを話していました。この数節前にもはっきり話していたのにユダヤ人は信じませんでした。

信仰をもってイエスを見るなら見逃せない主張だったのに、ユダヤ人は自分の王を拒否しました。イエスが与えようとしているものは要らなかったのです。それよりも自分の腹を満たすパンを求めていました。そしてローマからの独立だったり、ローマに税金を払わないようにしてくれる王がほしかったのです。イエスはただ慈しみと恵み、永遠に神の家に住むことしか提供していませんでした。


イエスは羊飼いですが、私たちのために子羊となられました。死の陰の谷を歩んで十字架の苦しみと死に直面しても、羊のように黙って自分を救おうとしませんでした。イエスが怒り狂っているユダヤ人に囲まれていた時も、打たれて軽蔑されていた時も、何を感じていたのでしょうか。私たちがホラー映画を見ると悪霊の存在に恐怖を覚えますが、イエスは実際に十字架で悪魔に直面して悪霊に囲まれていました。その時のイエスは、痛みや疲労や悲しみは感じていたと思いますが、恐れと恐怖は一切感じなかったのです。イエスは神のみを恐れていました。思い起こすシーンはダビデがゴリアテとの戦いに挑む時のことです。ダビデはペリシテの軍人ゴリヤテが、生ける神の陣をそしっているのを聞き、王に許しを得て、ゴリヤテの前に走って出ます(第一サムエル17章)。ダビデは全く恐れていませんでした。

イエスはご自分を裏切るためにユダを送り出します。イエスはわざわいを恐れません。主よ、私たちにもそのような信仰をお与えください。


⚫️あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。(23:4b)

ダビデは何度も死から逃れましたが、この詩篇は最終的には預言です。ダビデは実際に死にました。そしてシェオルに下っていきました。しかしダビデの詩篇23篇の信仰告白は、自分がいつか主の家に永遠に住むことでした。イエスが復活して天に上られた時に、ダビデを一緒に天に連れて行ったので、その預言は今はもう成就されています。だから私たちもわざわいや悪魔を恐れません。死そのものが滅ぼされたからです。

悪魔は私たちを恐怖に陥れるための武器は何も持っていません。イエスのむちとイエスの杖が私の慰めです。イエスが杖を使うのは羊をたたくためではありません。それは抑圧する王のすることです。イエスはご自分の羊を守って救い出すために杖を使います。そして敵を滅ぼして支配します。それが詩篇2篇に書いてあります。

【詩篇2:9】あなたは 鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする。

イエスの杖は王笏です。昔も今も王様がいるところでは王笏を手にしていると思います。最近の人類は唯物論者になっていて、世界は物質でしかないと思っているので、大統領は何も手にしていないのですが、そんな世界でも場合によって裁判官は小槌を使ったりします。CRECの議長ジャック・フェルプス氏が連盟会の監督牧師だった時、地区会や連盟会を導くときに小槌を用いていました。司教は現代でも羊飼いの杖を持ったりします。


ここで少々横道ですが、象徴について少しお話ししたいと思います。というのは、今日の箇所には象徴の話がたくさん出てくるからです。聖書を読むとき、象徴として気づかないこともありますが、じつは象徴だらけです。だから聖書を読むときに物質はただ霊的なものを指しているだけと思わないでください。そして礼拝では物質的なものを避けなければならないという考え方をしないでください。神様は霊の世界と物質の世界を結び合わせて造られたのです。ダビデは羊飼いとして実際に杖を持っていましたし、王になった時には王笏を持っていました。ダビデは実際に油を注がれました。そしてサウロから逃げている時に、敵をよそにダビデは実際に天幕で神の食卓からパンをいただきました。

黙示録7章では、神を礼拝する者たちが白い服を着ています。そして手になつめやしの枝を持っています。これは単なる比喩ではありません。イエスが五千人を食べさせたのはすごい奇跡ですが、今イエスはご自分のからだと血で何億人も食べさせて養っています。つまりイエスの恵みは無限なのです。実際に溢れる杯です。だから私たちは香油や白い衣を避けたり恐れたりする必要はありません。これは神様から私たちへの賜物なのです。象徴は物や行動や言葉のように実際にあるものですが、それ以上の意味を持つものです。無神論者はそのように世界を見ることはありません。無神論者には物質の世界しかないので、物に究極的な意味を持っていません。だから彼らにとって香油は単なる香油です。しかし神様がお造りになったこの世にあるものには全て意味があり、そして神様がご自分を表すために造られて、それを用いるための神の器として造られたのです。特に人類は神の特別な器であり、象徴です。私たちクリスチャンにとって物は単なる物ではなく、香油も単なる香油ではありません。御霊が与えられることを意味します。だから神様は私たちの頭に油を注ぐのです。


詩篇23篇に戻ります。イエスは王笏を手にして国々を支配しています。だからこのイエスを信じてついて行き、イエスの平和、平安を得ることができます。イエスを信じなかったユダヤ人たちは何の平和も慰めも受けませんでした。彼らは牧者について行かなかった羊たちでした。

私たちがイエスの声を聞いてついて行くなら、イエスが与えようとしているすべての恵みと永遠のいのちまでも受けることができます。

その信仰と信頼の反対は恐怖です。恐怖から何も良いものは出ません。私たちが臆病になった時、真実を語りません。弱者を守りません。自分に嘘をついて周りの人にも嘘をつきます。怖いから、逃げたいから。それが臆病なのです。臆病の罪といえば、黙示録では地獄に落ちる人たちのリストの最初にある罪です。

【黙示録21:8】しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。

臆病な者は最終的に自分の兄弟に背を向けて、神を否定します。三度もイエスを否定したペテロの話に似ています。

【第二テモテ1:7】神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。

臆病に対するのは力と愛です。力と愛は臆病と共存することができません。「恐るな」とはよく聖書に出てくるので、いつか一つの説教として話したいと思っています。


死の陰の谷とは何でしょう。大変な苦しみを指します。そして一番大変な苦しみは、愛している人を失うことです。愛する者の死を指します。そして最終的に自分の死を指しています。


⚫️まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。(23:6)

私たちにとって死というものが永遠に主の家に住むことであるなら、何も恐れる必要はありません。ダビデは明らかに墓の向こうに目を留めています。よくダビデの詩篇は死の向こうに何があるかを話してくれます。私たちにとって、自分の中にも自分の周りにも苦しみはあります。しかし自分の死も周りの人の死も遠くはありません。このようなものによって、敵である悪魔は私たちを怖がらせて、恐怖を覚えるように攻撃します。私たちが神を信頼しないように、神から離れるようにしようとします。


しかしこれが私たちの祈りです。

【詩篇56:2、4b】私の敵は 一日中私を踏みつけています。高ぶって 私に戦いを挑む者が多いのです。…神に信頼し 私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。

聖餐式で、私たちはイエスの死をいただきます。私たちの大牧者が私たちのために子羊となってほふられたことを記念します。そして私たちはイエスの死においてイエスと一つとなって、さらに復活のいのち、永遠のいのちと一つとなります。だからわざわいを恐れません。

私たちは礼拝において一時的に天に昇ります。今この場で天に上って神の食卓について養われています。それは私たちが永遠に神の御前で神の家に住む日が来ると信じているからです。私たちが死を恐れないのは、その向こうに待っているものを神様が示して下さったからです。

【黙示録7:15】それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

主に感謝します。



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