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「子どもたちよ。父たちよ。」コロサイ3:17、20〜21

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:17、20〜21

ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

マタイ、マルコ、ルカ、パウロ。この四人のこと、そしてこの四人が書いた書物のことをまず考えてみようと思う。

マタイの福音書はイエスが十字架にかけられたAD30年のペンテコステ後に書かれた福音書である。イエス様が昇天してから御霊を与えてくださって、たくさんのユダヤ人が救われたが、彼らはペンテコステのときにあちこちからエルサレムに集まった人々だったので、伝道熱心だったマタイがすぐに福音書を書いた。

同じAD30年に、パウロはクリスチャンを迫害する目的でダマスコに旅をしていた。途中でイエス様が現れて、パウロは罪を悔い改めて、サウロであったこのユダヤ人はクリスチャンになった。その後30年間、パウロはイエス様の弟子として何千キロも福音を伝える旅をして、AD60年にコロサイの手紙を書いた。その時パウロはローマで軟禁され、裁判を待っている状態だったが、ローマ帝国は友人がパウロを訪ねることを許可していたので、何人もパウロを訪ねてたくさんのことを話し合っていた。コロサイの教会からも人が来て、コロサイ教会のことをパウロに相談したり、他にも伝道の旅をしている人がパウロを訪ねたりしていた。その中で特に目立つ二人の友人はマルコとルカである。パウロがコロサイの手紙を書いていた時、マルコとルカと一緒に交わりをもって、この手紙のことについて話していたに違いない。同じときにエペソ、ピリピ、ピレモンの手紙も書いた。それを覚えておいて、パウロとマルコとルカが子どもたちへの教えについてどんなことを話したか、想像してみようと思う。イエス様が子どもたちについて教えているストーリーがあるからだ。そのイエス様の教えは二つあって、マタイ、マルコ、ルカの福音書に出てくるので、その教えは大切で非常に強調されていると思う。今日はマルコの福音書からその教えを見ていく。なぜマルコの福音書なのか。マルコの福音書は四福音書の中で一番短いが、箇所によっては一番詳しく書いてくれている。その背景にはペテロの目撃者としての細かい観察と証しがあるからだ。

【マルコ9:33〜37】一行はカペナウに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。「だれでもこのような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

【マルコ10:13〜16】さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちなものなのです。まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

ルカの福音書に同じストーリーがあるが、ルカには「幼子(おさなご)」と書かれているので、イエス様がここで「子ども」というとき、それは広い意味の子どもではなく、小さい子という意味である。

古代教会においてなぜこのストーリーが大切なのかというと、一つは神の国に入るにはバプテスマが必要であるということだ。子どもたちにもバプテスマを授けるのだが、使徒の働きの中に、福音を聞いて信じてそれを告白してバプテスマを受けると書いてあるので、幼い子や赤ちゃんの洗礼について明白に教えられているわけではない。まるで大人になってからバプテスマを受けるのが基準であるかのように考えてしまいがちである。今の時代の福音派はそのように考えている。

しかし古代教会は、先ほど読んだマルコの二つの箇所を指して、子どもたちにバプテスマを授ける理由を説明する。主イエス・キリストは子どもたちを受け入れる。古代教会は、イエス様が赤ちゃんを抱いて頭の上に手を置いて祝福してくださったと話していた。

私たちの教会も子どもたちにバプテスマを授ける時に、同じように考えるが、今後コロサイ人への手紙を読みながら、そのことを一緒に考えていきたいと思う。

パウロ、マルコ、ルカは、ローマでパウロの軟禁中にこの二つの福音書の箇所を一緒に思い出していたかもしれない。それでパウロが子どもたちと両親たちのことを考えてこの命令を書いたのかもしれない。

イエス様の教えを覚えて、パウロのコロサイ人への手紙をもう一度見たいと思う。


⚫️ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(3:17)

コロサイ3:17は、その後に続く教えの土台である。パウロは、すべてのクリスチャンは何をするにも主イエスの名において行いなさい、と教えてから、親子、夫婦、奴隷と主人について教える。

これは革命的な驚くべき教えであると前に話した。水の中で生きている魚に「あなたは水の中にいるからぬれているよ」と説明しても、魚は水の中しか知らないのでピンとこない。私たちも聖書の世界観を前提としてもっているので、驚くべきところなのに驚かない危険がある。

夫が妻を愛する基準はイエス様の十字架である。十字架は愛の基準である。ローマ帝国の偉い人たちは、十字架という言葉も避ける。あまりにも残酷であまりにもひどい死刑の仕方であるからだ。私たちがイエス様を信じて救われるのは、この十字架上でイエス様が私たちの罪のために死んでくださったからである。しかし、ユダヤ人にとってはつまずきでメシアは死ぬはずがない。異邦人にとっては愚かでローマ帝国に死刑にされたのなら世界の救い主ではありえない。

愛の基準が十字架であるなら、夫が妻を愛すべき基準は十字架である、というのは驚くべきことである。


⚫️子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。(3:20)

パウロが子どもたちに直接話しているのも驚くべきである。パウロの手紙の中で、ポンテオ・ピラトやカエサルのようなクリスチャンではない人に直接話しかけたりしないが、妻や夫や子どもたちには直接話している。子どもたちもその両親と同じようにクリスチャンであるという前提がなければこのような言い方はない。この子どもたちよ、というだけでも、パウロは子どもを地域教会の一員として見ている。そして子どもたちがすべてのことにおいて両親に従うことが、主に喜ばれることだと言う。子どもたちも両親と同じように主を喜ばせる生き方ができる。つまり彼らのこともキリストにある兄弟として見ているのである。子どもたちも小さい時から神を喜ばせることができるように励ましている。


「主に喜ばれる」という言い方は翻訳に問題はないが、難しい部分でもある。

【コロサイ3:18】妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

この18節の「主にある」と20節の「主に喜ばれる」は同じことばである。主にある者とは、バプテスマを受けて、神の契約の子どもであるということだ。バプテスマによって主の契約の一員になっている。主に喜ばれるというのは、「主にある者として喜ばれる」ということなのだ。子どもたちは、主にある者としてバプテスマを受けて教会員の一人になっている。神の子どもとして見て、子どもたちを励まして、正しく歩むように導く。子どもたちも大人と同じように神様を喜ばせることができる。


イエス様の子どもへの話とコロサイ人への手紙は、子どもたちもバプテスマを受けて主にある者となったので神様に受け入れられている、と教えている。

イエス様が、子どもたちを来させなさいと言ったのは、子どもたちがイエス様に近づくのを弟子たちが許さないで親を叱ったからである。イエス様は憤って子どもたちを招く。子どもたちにバプテスマを授けるとき、子どもたちをイエス様のところに来させる。イエス様は喜んで子どもたちを受け入れて祝福してくださる。


コロサイ書を読んで、福音書に書いてあることを思い出すとき、子どものようにならなければ神の国に入ることは決してできない、ということばの意味は何だろうか。ある意味で、すべてのバプテスマは子どもの洗礼である。今の時代に、あなたが大人のように考えることができなければ、バプテスマを受ける資格はないというが、イエス様は逆のことを言う。子どものようにならなければ、バプテスマを受ける資格はない。神の御国に入るのは、自分を低くすることだとイエス様は説明している。

【マタイ18:4】ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

これは驚くべきことである。ローマ帝国の時代には、子どもには価値がなかった。子どもは誇ることができない。客観的に低い。自分を低くして、神の前に素直に出て、みことばを100%信じるのは、異邦人にとって愚かな十字架の話であり、ユダヤ人にとってつまずきである。でもパウロは、十字架は私たちにとって、神の知恵、神の愛であると言う。私たちはみんな子どものようになって、バプテスマを受けて、主にある者になった。

私たちの地域教会では子どもたちも聖餐にあずかる。福音派の教会ではおかしいと思われているが、ローマで始まったラテン語の教会では1000年位は子どもたちも聖餐にあずかっていた。コンスタンチノープルのギリシャ語の教会は、今でも子どもたちは聖餐を受けている。私たちは教会の歴史的な伝統に立って、子どもたちをキリストにある者として受け入れて、イエス様が子どもたちを来させなさいと言われた通り、聖餐にあずかっている。

過越の日に、大人も子どもも一緒に羊を食べてエジプトを出た。イスラエルの毎年の過越の祭りにも子どもたちが参加する資格はあった。私たちは子どもたちも主にある者として認めて受け入れて、一緒に聖餐にあずかる。


⚫️父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。(3:21)

子どもたちががっかりしないように、親は子どもに厳しくしすぎてはいけないという教え。エペソの手紙にも同じような教えがある。これもローマ帝国では驚くべき教えである。考古学者たちが見つけた1世紀のローマ人が書いた手紙が残っている。父親は旅に出ていて、旅先から妻に手紙を送る。そろそろ子どもが生まれるからだ。その手紙には「男の子なら受け入れるが、女の子だったら捨てなさい。」と書かれていた。ローマ帝国において、父親には子どものいのちについて絶対的な権威を持っていた。その父親が家に戻った時、生まれた息子に何か気に入らないことがあれば、「殺せ」という命令をいつでも出すことができた。赤ちゃんでも、五歳でも十歳でも、息子が父怒りを招くなら殺すことができた。パウロは父たちに、子どもたちを怒らせる権利はあなたにはない、と言う。父たちは、自分たちには子どもを殺す権利があるのに、パウロはいったい何を言うのか、と思うだろう。正しい基準を持って、愛を持って子どもたちを育てなさいとパウロは言う。ローマ帝国の中にはそのような考え方はない。夫婦についても、親子についても、パウロの教えはローマ帝国の中では聞いたことがない教えであった。夫と妻の関係においてのモデルはキリストと教会である。親子の関係においてのモデルは天の父と神の子イエス様である。聖書の中のある赤ちゃんは生まれる前から神を知っていて、神を恐れていた。その赤ちゃんは神を愛する者としてこの世に生まれた。その赤ちゃんが十二歳になったとき、エルサレムの神殿に行って、自分は父の家にいるのだと説明した。このイエス様のストーリーを書いたのはルカだけである。

お父さんたちは天の父のようにならなければならない。子どもたちはイエス様のようにならなければならない。

ことばであれ行いであれ、何かするときには主イエスの名によって行いなさいとパウロは命令するが、子どもたちにとっても同じ基準である。パウロは父親たちに直接話しているが、女性たちや父ではない男性は含まれていないと考えてはいけない。パウロはこの世の限られた場所での話をしている。永遠の復活においては親子も夫婦もないからだ。兄弟の関係は永遠である。子どもたちのことを話すとき、私たち全員のことを話している。私たちは子どものようになってバプテスマを受けて、主イエス・キリストにあって永遠の兄弟である。子どもたちをどうすべきか、という教えは、父たちにも母たちにも他のすべてのバプテスマを受けた主にある者への教えでもある。ことばであれ行いであれ、すべてのことを主に感謝してイエス様の御名によって行いなさい、というのは私たちみんなに与えられている歩み方である。毎週の聖餐式で、心をあらたにして、子どものような心をもって自分を低くして「私は罪を犯しました。しかしあなたは私を愛して、私の罪を赦してくださった。」と告白する。天の父は私たちをご自分の愛する子どもとして受け入れてくださって、いのちのパンであるイエス様を与えてくださった。子どもの心に戻って素直にみことばを求め、みことばに従う。

【第一ペテロ2:2】生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

子どもの心を持つように、ペテロも私たちを励ましている。




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