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「栄光とは何か」詩篇8篇、ローマ5:1〜5

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


詩篇8篇

主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。

幼子たち 乳飲み子たちの口を通して あなたは御力を打ち立てられました。あなたに敵対する者に応えるため 復讐する敵を鎮めるために。

あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに

人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉の冠を かぶらせてくださいました。

あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。

羊も牛もすべて また野の獣も

空の鳥 海の魚 海路を通うものも。

主よ 私たちの主よ あなたの御名は全地にわたり なんと力に満ちていることでしょう。


詩編8編には、私たちが人生のどこかで一度は聞いた質問が書かれています。

【詩篇8:3~4】あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

実際に天を見上げると、私たちがどれほど小さいかを感じますし、大きさだけではなく、時間の長さにおいても私たちは短いものです。今、自分が見ている星までたどり着くためにどれだけの年数がかかるかを考えるだけでも自分のちっぽけさがわかるでしょう。なぜこんな私が大事なのか、なぜ神様はこんな私を顧みてくださるのか、そのように感じることはあります。それに対する答えは色々ありますが、この詩篇8篇では次のような答えがあります。

【詩篇8:5~6】あなたは 人を御使いより わずかに欠けがあるものとし これに栄光と誉の冠を かぶらせてくださいました。

あなたの御手のわざを人に治めさせ 万物を彼の足の下に置かれました。

神様は私たちに栄光と支配を与えてくださいました。

今日は栄光とは何かについて考えてみたいと思います。


皆さんは「栄光とは何ですか」と聞かれたときに答えられるでしょうか。なぜ今日の説教で栄光について語りたいかというと、「栄光」ということばは聖書に何度も出てくるし、教会でもよく使うし、何度も読んでいるのに、言葉にするのが難しい概念だからです。

今日礼拝で読んだ箇所の四つのうち三つに栄光の話が出て来ます。しかも栄光ということばが出て来なかった箴言8:1~4,22~31でも、世界の創造の話をしていますので、栄光に満ちた箇所なのです。「栄光」はなじみのあることばですが、じつは理解しづらい、私たちから遠いことばでもあるのです。特に21世紀の先進国に生きる私たちにとっては、遠いことばです。というのは「栄光」は私たちの生活環境にはほとんどないものだからです。

栄光はだれのものなのでしょうか。創世記1章で、創造の六日目に人をお造りになるとき、神様はこのように言われました。

【創世記1:26】神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」

これは今日読んだ箴言8章にも詩篇8篇にも同じようなことばが出てきます。。

【創世記1:27】神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

人は神のかたちであって、神の栄光の現れなのです。一方で第一コリントに書かれているように、女は男の栄光の現れです。

【第一コリント11:3】しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

神様は王の王で、全世界を支配されるお方です。私たちをご自分の似姿として造られて、ご自分の下で世界を支配するものとして創造されました。神様は人間を通して世界を支配するのです。

これが現代の私たちが栄光を理解できない一つの手がかりになります。まず、現代の私たちの社会は王様を信じていません。支配と上下関係も信じていません。これらはおもに西洋の話ですが、神の代わりに平等という偶像を立てています。平等という偶像を礼拝するから、ゲイの結婚を認めようとするし、男女の平等を間違った方法で求めるから離婚や中絶を受け入れます。社会の平等を求めて社会主義に走ったり、生き物の平等を求めてヴィーガンになったりします。これらの問題は比較的日本では少ないのですが、徐々に日本でも増えています。先進国のリーダーでも一般の民と同じような姿をしてスーツを着て演説します。歳をとった金持ちのCEOの中で、TシャツとGパンで演説をする人も目立ちますし、その真似をする人もたくさん出て来ます。彼らはそれで、人々への共感や近づきやすい人物像を表しています。だから彼らを見ても、栄光と力ということばは思い浮かびません。尊敬できる人、影響力のある人、ということだけです。聖書の世界と、私たちが生きているこの文化の間にはだいぶギャップがあって、私たちの周りには栄光はないのです。

私たちが栄光を考えるとき、教会に行って神を礼拝する時にしか見つからないものになっているのです。

昔にさかのぼると、例えばソロモンは自分の栄光を表そうとしていました。ヘンリー八世も国の栄光を求めていろいろな建物を立てたりしました。

昔の王のいる時代は目の前に栄光があったのですが、王がいない社会では、栄光というものをどこかで探さなければいけません。下手をすると神を見る見方がこの世の文化に影響を受けて、神は天にいるナイスガイ、天にいる良いお方で、人をさばかず赦すだけのお方になってしまいます。イエスについても、いつでもあなたのために存在する友ということになってしまいます。地上の親に甘えるように天の父に甘えて、自分たちが世界の中心だと思ってナルシストとして育ったりすることもあるのです。その結果、神の栄光が見えなくて、どのように歌えばいいか分からず、どのように神に栄光を帰するのかわからなくなります。栄光を表す建物の建て方もわからない。私たちは栄光がどんなものなのかわからなくなっています。

しかし、私たちは神の栄光を受けたものです。神の栄光が内に宿る器なのです。栄光は私たちから輝いて出ていかなければならないのです。

だから私たちは栄光を取り戻さなければなりません。理解しなければなりません。ではどうすればそれができるのでしょうか。聖書に戻りましょう。聖書を読んで、この文化によって変えられるのではなく聖書によって変えられるものとなりましょう。


それでは栄光とよくセットになっているものの連想を通して栄光を考えてみましょう。

・栄光と力

国と力と栄えはとこしえにあなたのものだからです。アーメン。」マタイ6:13

礼拝で使っている三聖唱でも「聖なる、聖なる、聖なるかな。万軍の神。主の栄光天地に満てり…」と歌っているように、栄光のあるものは力があります。

【詩篇24:8、10】栄光の王とは だれか。強く 力ある主。戦いに力ある主。

           栄光の王 それはだれか。万軍の主 この方こそ栄光の王。

私たちが神の栄光の器であるなら、力がなければなりません。どういう力かというと、神のような力です。単純な武力ではありません。神は奇跡を通して私たちを無理矢理に振り回すお方でありません。私たちの力が神が持っているような力であるなら、それは善から生まれて、人の心の中から動かして人を変えて世界を変えていく力なのです。


・栄光と美しさ

【イザヤ28:5】その日、万軍の主は、民の残りの者には輝かしい冠、栄えの飾り輪となり、…

面白いのは、神様が私たちの美しさや栄光になっていることです。先ほど、女が男の栄光の現れだと言いましたが、教会は美しい花嫁としてキリストと結婚しますが、じつは王様も美の対象になります。ソロモンやヘンリー8世をイメージすればわかるでしょう。

さらに、油注がれた王だけではなくて、油注がれた祭司も美しさをもつのです。

【出エジプト28:2】また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。

それで栄光と美しさもセットになります。だから人間は美をも求めるものでなければならないのです。その美とは客観的なもので、神が一番美しいものなので、神を見る以上の幸せはないということです。


・栄光と光

【イザヤ6:1~4】ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた御座についておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上のほうに立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔を覆い、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。

これは神の謁見室でイザヤが聞いたことです。天使がこのように呼び交わしていました。聖さ(きよさ)について以前説教で話しましたが、神のきよさが燃える火なら、栄光は光です。火や光があれば必ず煙があります。火と煙は分かるのですが、光のあるところに煙はあるでしょうか。煙や雲を指しているのですが、それは私たちを守るためにあるのです。神の光に耐えられないで私たちが消えてしまわないために、栄光の光が雲という衣を着ているのです。私たちの服も私たちの栄光を隠すものなのです。

私たちは裸の神様には耐えられないので、神様は衣を着ます。同時に服は私たちの栄光でもあるので、私たちは栄光を隠しながら現しているのです。

雲があると夕日が美しく見えます。雲に沿って光が広がっていくのがとても美しいと感じます。雲のない空は意外とつまらないのです。雲が光を美しく捉えています。


・栄光と音

栄光を目ではなく、耳で聞くとどうなるでしょうか。

敷居の基が揺らぐような音。雷、津波、大水の音です。

【詩篇29:3】主の声は水の上にあり 栄光は神の雷鳴をとどろかせる。主は大水の上におられる。

【エゼキエル43:2】すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。その音は大水のとどろきのようで、地はその栄光で輝いた。

これが常に天にある神の栄光なのです。天の栄光をどのようにこの地上に持ってくればいいのでしょうか。そして私たちがその器としてそれをどのように現せばいいのでしょうか。

その一つは礼拝です。礼拝で神を賛美をすると地が揺らぎます。実際にロンドンのセントポール大聖堂でオルガンがなると、自分のからだの内臓も壁の石も振動して、まるで建物全体が一つの楽器になっているかのようでした。私たちも神を礼拝するときに楽器と声を使って神の栄光を現します。

別のときに千人以上が集まる教会に行ったことがありますが、みんなが大声で賛美すると自分の声も全く聞こえません。


神殿には常に灯火(ともしび)があって香から煙も出ます。神の家の中は光と煙と雲に満ちています。さらにイエス・キリストが来る時に、雲に乗って栄光と力を持って来るのです。それを私たちは待ち望んでいます。主よ、早く来てください、と祈ります。


・栄光と肉

つまり人です。栄光と肉のつながりを理解するのは難しいのですが、もっと知りたければエゼキエル1章を読んでみてください。

【ヨハネ1:14】ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネのこの箇所はエゼキエルよりもっと肉の栄光を現しています。

神のひとり子は完全なる御子で、御父の栄光をすべて受けている御子なのです。この御子が人となりました。ギリシャ語の直訳では「肉となりました」と書いてあります。なぜ肉となるのでしょうか。エゼキエルを見ると色々な要素が出て来ますが、その一つは肉は死ぬことがでるからです。肉は衣で、洋服のようなもので、神の栄光に被しています。御子は神の栄光を隠しながら現しているのです。だからイエスが地上にいるときに、神の栄光が現れているけれど、人にはそれが見えませんでした。肉となったので、神は死ぬことができます。死は究極の自己犠牲です。愛の現れなのです。だからキリストの栄光は十字架の苦しみから始まります。私たちも肉があって苦しんで死ぬものとして造られています。だから神の栄光を表すことができるのです。私たちは罪を犯していて、もはや神の栄光の器としてはふさわしくありません。この器は欠けていて、ひびが入っているので栄光がもれてしまいます。

【ローマ3:23】すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、…

「神の栄光を受けることができず」は、ギリシャ語では「神の栄光に及ばないものとなった」と直訳することができます。つまり神の栄光の器としてふさわしくないし、機能していないのです。

人が偶像を礼拝すると偶像のようになります。昔の偶像は金や銀でできていましたが、現代の偶像はプラスチックのクレジットカードなどです。

聖書の中の一つの原則は、自分が礼拝しているものに自分がなる、ということです。栄光のないものや死んだ者を礼拝すると、その人はそのようなものになってしまいます。

だから私たちは神の栄光を仰ぎ見て礼拝しなければ、その栄光を受けるものにはなれないのです。その栄光に戻る道があります。私たちをその罪から解放する道があるのです。

【ローマ5:1〜2】こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。

つまり私たちは神の栄光にあずかることができると信じて、それを待ち望んでいるのです。でもどうやってそこまでたどり着けばいいのでしょうか。

【ローマ5:3〜5】それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

これはとても長い道で、苦難から始まっています。つまりイエス様と同じ道をたどらなければならないのです。苦しみと死の十字架の道を通って栄光にたどり着くのです。それでも私たちが希望を持てるのは、すでに神の愛が聖霊を通して私たちの心に注ぎ込まれているからです。私たちは常に御霊を通して神の愛を受けています。

聖餐式の時、その愛を口から受けます。神の肉の苦しみと死を祝います。この肉は神の栄光です。これはイエス・キリストがささげた平和のいけにえです。これによって私たちは神と平和をもつことができます。神殿の中に入って、神の御前に来て、神の謁見室まで入って、モーセのように神の栄光を見て、神の栄光を受けて、神の栄光を発するものになります。だから私たちは神の栄光を受ける器になるために、教会に来て神を礼拝して、御言葉を聞いて、聖餐式を受けます。そうすれば、私たちはなるべき王となります。栄光の冠を受けるものとなります。そして正しくこの世界を支配することができるのです。私たちは礼拝を通して、神の似姿と神の栄光を受ける器になります。




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