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「生きることはキリスト、死ぬことは益」ピリピ1:21〜23

説教者:ラルフ・スミス牧師



ピリピ1:21〜23

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。

私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。


横道から始める。

1933年のドイツにErich Auerbachという学者がいた。彼はヒトラーの時代のユダヤ系ドイツ人で、大学の教授だったが、ユダヤ系だということでヒトラーに辞めさせられた。そしてユダヤ系として危険な目に会うことを心配して、イスタンブールに行き、その大学で文学を教えることになった。イスタンブールの図書館はベルリンなどのドイツにある図書館とは比べものにならないくらい小さかったが、彼はイスタンブールに住んでいる間に20世紀で一番影響力のある、一番尊敬される文学の本を書いた。天才的なとても素晴らしい本である。その本の一番最初の章は、昔のギリシャ文学ホメロスと聖書を比較するものだった。

ホメロスはすべて言葉で表現されて、簡単に明白にすべて表に出るので解釈の必要がなく、非常に美しい文学である。

それに対して聖書は美しい文学的な書き方ではないが、表現されていない不思議、奥義による、理解できない非常に深い驚くべき書物だとAuerbachは言う。

この人は神様を信じていないし、聖書も信じていない。それなのに文学者として他の文学と比較すると聖書の素晴らしさは非常に驚くべきものであると言う。

さらに彼は、聖書は絶対的な権威のある書物であると言う。

普通の文学は自分の下にあってそれを読んで判断するが、聖書は私たちの上にあって私たちに光を照らし、服従を要求する。聖書に書かれていることを信じないで従わなければ神様に逆らうことになる。それを未信者の文学者が言うのである。



神様ご自身は聖書の中で一番不思議で一番素晴らしい。そして現れていると同時に隠されている。聖書を読むと、なぜこのように書かれているのか、これはいったいどういう意味なのかと思う箇所がいくつもある。それを考えてゆっくり意味を求めながら読まなければ、本当の意味で聖書を読んでいることにならない。ただ目を通しているだけである。

聖書はすべてを含む書物である。

聖書の初めは世界の初めである。

【創世記1:1】初めに神が天と地を創造された。

聖書の最後は歴史の終わりでイエス様のさばき。

Auerbachは、聖書のような書物は他にはなく、ギリシャの文学とも他の古代の文学とも全然違うと感じるのである。

彼は本の中で、聖書は世界観を宣言すると言う。だから聖書に従って聖書の神を求め、聖書を信じなければならないと説明している。本当にその通りだと思う。

今朝の朗読で、アダムとエバの誘惑の箇所(創世記3:1~7)と、イエス様の誘惑の箇所(マタイ4:1~11)と、ダビデが罪を犯してその罪を悔い改める詩篇(詩篇32)まで読んだが、それがすべてつながっていて、深くて素晴らしい。

何千年も前に、ヘブル語やギリシャ語で書かれた聖書を、現代の私たちは日本語の翻訳で読んでいる。それなのに御霊の働きによってこのように深いメッセージが届くのである。私たちがこの不思議な書物を読むときに、その意味を深く一緒に考えたい。Erich Auerbachの比較文学の本を読んで、神様がじつに素晴らしい聖書を与えてくださったことに改めて感動した。



私たちは2千年前に書かれたピリピ人への手紙を読んでいる。この手紙を書く前に、パウロは逮捕されてカイサリアで2年間牢につながれたままだった。裁判でパウロは無罪を訴えてカエサルに上訴したので、ローマに送られ、そこで軟禁状態で裁判を待っている。ピリピ人への手紙はそのときに書いた手紙である。

その手紙の中に裁判が近いことが書かれている。パウロが、自分がそろそろ死ななければならないかもしれない、自分の人生はこれで終わりかもしれないと書いていることでわかる。すでに書かれているエペソ、コロサイ、ピレモンの手紙にはそのような言い方はない。



私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)

パウロは100%、心を尽くして、思いを尽くして、人生を尽くして主イエス・キリストに仕える奴隷である。パウロにとって生きることはキリストという表現の意味は、常に熱心にキリストの福音を伝えるということである。この手紙を書いたのは62年頃だが、それまでの30年間、あちこちに旅をして福音を伝えてきた。この教会は今年の5月で、設立42周年になる。パウロの伝道の働きより長く伝道している。

生きることはキリスト、つまりパウロは常に福音を伝えている。ローマで軟禁されているときも、ローマ兵に福音を伝えていた。

パウロがキリストのために逮捕されていることはローマ兵たちに知られている。カエサルの家の者たちにも知られている。

【ピリピ4:22】すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。

パウロは逮捕され大変なはずなのに、喜んで熱心に福音を伝えている。それが生きることはキリストという姿である。パウロはそれを喜んでいる。どんなに苦しくても、自分に与えられた状況の中でキリストの栄光のために生きている。

その告白をこの教会の人たちに話して励ましている。

【ピリピ1:29〜30】あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

ピリピの教会も迫害されて苦しみにあう。オリーブ山の説教で、迫害されてもはっきりした信仰をもって愛をもって主に仕えなさいとイエス様は語っている。私たちがそこまで主を主と告白して、主を求める生き方をするようにパウロは模範を示している。



死ぬことは益という表現は少し複雑である。

その意味の一つ目は、死んだらイエス様のところに行くから益である。

この世のすべての苦しみから解放されるし、迫害からも解放される。だから死ぬことは生きるよりはるかに良い。永遠の祝福に入る。

しかしその意味だけではない。二つ目の意味は、パウロが死刑にされるから益である。イエス様の福音を自分のからだで死をもって周りの人に伝える機会が与えられる。だから死ぬことは益。

どの観点から見ても、死ぬことは益であるとパウロはピリピの教会に話す。

死ぬことを怖がっていないし、死ぬことを変に求めているのでもない。死刑になるからならいかは神様にゆだねて、死ぬかもしれない時に、死ぬことは益だと言って喜んでいる。



しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。(ピリピ1:22)

この地上に残ったら実を結ぶ機会になるとパウロは言う。

パウロは実を結ぶことを第一に求めている。死刑にされても証になるし、この地で生きることも実を結ぶ。

パウロは、実を結ぶために多分神様は自分を生かすだろうと思っている。だからピリピの教会を訪ねて、一緒に神様を礼拝し、福音のために働いて実を結びたいと思っている。

【ピリピ1:24~26】しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたの信仰の前進と学びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

【ピリピ2:24】また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。



パウロはピリピ人への手紙を書く5年前(57年)にローマ人への手紙を書いた。その手紙の中で、パウロはまずローマを訪ねてからスペインに行こうとした。

【ローマ15:24~25】旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。

このあと、パウロは58年にエルサレムで逮捕され、カイサリアに連れていかれて、2年間裁判を待っていた。これはパウロの計画には含まれていなかった。

裁判を受けて、パウロがカエサルに上訴したので、ローマに連れて来られて、そこで2年間軟禁状態で裁判を待っている。ローマには行けたが、2年も軟禁されるのはパウロの計画にはなかった。

神様はパウロの計画をかなり変えた。ローマの教会で御言葉を教えてから、イスパニア(スペイン)に行こうと思っていたのに、その計画は変えられた。パウロはカイサリアとローマに合計4年間閉じ込められていた。

もし今度の裁判で自由になったら、ピリピの教会に行こうと思っている。



同じことをピレモンの手紙でも書いている。

【ピレモン22】同時に、私の宿も用意しておいてください。あなたがたの祈りによって、私はあなたがたのもとに行くことが許されると期待しているからです。

裁判が終わってからピレモンを訪ねるつもりだった。

ローマからピリピまではほとんど船で25日位の旅になる。ローマからピリピまで1カ月近く旅をして実を結ぶ働きをしてから、コロサイに行く。ピレモンはコロサイの教会のリーダーの一人で、ピリピからコロサイまでは10日間の旅になる。パウロはコロサイでも福音を伝えたりして実を結ぶ働きをする。パウロにとって、生きることはキリストである。イエス様のために実を結ぶにはどうすればいいかを考えている。

使徒の働き16章のピリピの牢の話を覚えていると思う。光もなく、苦しくて大変な場所だったが、パウロとシラスは真夜中に神様に賛美をささげていた。たとえ牢に投げ込まれても、生きることはキリストだからだ。パウロはキリストに目を留めてイエス様を礼拝している。神様は、パウロとシラスをそこから奇跡的に出してくださった。看守とその家族が真夜中にバプテスマを受けた。パウロの苦しみがピリピの教会の土台になった。パウロはどの場所でもどんなに苦しくても、福音を伝えて実を結ぶことを求めている。

福音を伝えることだけが実を結ぶとは限らないが、パウロは模範を示した。



神様が人間を創造した時、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。(創世記1:28)」と人類に実を結ぶ命令を与えてくださった。アダムとエバは世界を管理する使命を与えられた。

イエス様も十字架上で死んで、よみがえったとき、ご自分の教会に使命を与えてくださった。「わたしには、天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。(マタイ28:18~20)」すべてのクリスチャンにこの命令を与えてくださった。弟子にするのは福音を伝えることを含むが、福音の生き方は本当の意味で福音を伝える土台になる。話しているときだけ福音を伝えて、生活も心も思いもキリストはすべてであるということから離れてしまうと、本当の意味で福音を伝えているか疑わしい。

私たちは、歴史の終わりに、数えきれないほどの聖徒たちとともに、永遠に賛美して、イエス様に仕えて、違う意味で実を結ぶことになる。罪のない、苦しみのない、死のない、実を結ぶ生き方をする。



パウロにとって、生きることはキリスト。私たちもそう言えるように聖餐式を受ける。

聖餐をいただいて、心をあらたにして、生きることはキリストと告白できるようになりたいと思う。

死ぬことは益。死は敵ではあるが、死のとげは十字架によって取り除かれたので、私たちは死んでも生きる。

聖書は創世記から黙示録まで、人類の歴史全体を教えて、私たちが何のために生きているのかを教えて、生きることの意味や目的を教えている。その中で、パウロの素晴らしい模範が私たちに残されている。

それを覚えて、私にとって生きることはキリストという思いになって聖餐をいただきたいと思う。




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