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「私を思い出してください」ルカ23:32〜43

説教者:ギャリー・ヴァンダーヴィン牧師


ルカ23:32〜43

ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。

「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」

兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、

「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。

「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。

すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」

そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」



今日は、カナダのバンクーバーの郊外にあるラングレーという町の、クライスト カバネント チャーチ(Christ Covenant Church)という教会の、ギャリー・ヴァンダーヴィーン(Gyary Banderveen)牧師に説教をしていただきます。

このカナダの教会は、私たちがCRECでアンセルム地区会に属していたころに一緒でした。今、ヴァンダーヴィーン牧師は、CRECのJEEPの役員として働いています



こんにちは。クライスト カバネント チャーチから皆さんに挨拶を送ります。

ラルフ・スミス牧師とは昔からの友人です。40年以上に渡るラルフ牧師の働きに感謝します。

皆さんにもう一人のスミス牧師を与えて下さったことを神に感謝します。神の恵みによってもう一人のスミス牧師がここでもう40年働くことができますように。

ここで皆さんとともに過ごすことができるのは、私にとって大きな祝福です。私たちはお互いに兄弟姉妹であり、同じ神を礼拝し、同じ救い主を賛美しています。

私が皆さんにみことばを説き明かす特権が与えられたことは感謝です。

今日、神がみことばを通して私たちに語りかけるとき、一人一人の徳が高められることを確信しています。

今朝の説教箇所はルカの福音書23:32~43です。

この四旬節の時期に、イエスの十字架からの最後の7つの言葉について考えていました。そのうち3つは御父への祈り。あとの4つは周りの人へかけた言葉です。


「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(23:34)イエスが罪人にどういう思いを持っているかがわかります。イエスはご自分を十字架にかけた人たちの救いのために祈っていました。そして御父はもちろんこの祈りに答えてくださいました。イエスが死んだ時、百人隊長が信仰を持ったのです。その後ペンテコステで三千人以上が救われました。そして使徒の働き6章では多くの祭司たちが救われました。御父はイエスの祈りに応えて、御霊を通して罪人に救いを与えてくださいました。



十字架が立っている場所はドクロと呼ばれる場所でした。そこには十字架が3つありました。イエスが背いた者たちとともに数えられた、というイザヤのことばが成就するためです。

【イザヤ53:12】それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのためにとりなしをする。

犯罪者はイエスの右と左にいました。一人はイエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。

マタイの福音書を読むと、後から悔い改めた犯罪者も最初はイエスをののしっていました。

【マタイ27:44】イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスを罵った。

しかしそのうちの一人に変化がありました。最終的にこの犯罪者は、もう一人の犯罪者とは別の態度に変わりました。

今日はこの二人の犯罪者について一緒に考えたいと思います。



⚫️「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(23:39)

これは犯罪者の一人の言葉で、彼はイエスを自分の奴隷のように思っていました。自分を救え、私たちを救えと、まるで自分がキリストに命令を出せるかのような態度です。キリストが自分の得のために、自分を救うためだけに存在しているような言い方です。へりくだっていないし、どうか〜してくださいと言わないし、頼んでもいません。自分が支配者であるかのように命令をしました。

彼は自分の罪から救われることを望んでいませんでした。自分には十字架の罰がふさわしいと認めていませんでした。ただ自分の罪の結果だけを気にしているのです。早く、今、私の条件で私を救いなさい。

この犯罪者の要求は、決して彼に限った考え方ではありません。神は自分を喜ばせるために、自分に仕えるために存在すると思っている人が、じつはたくさんいるのです。お金、幸せ、これもあれもくださいと神に要求する人がたくさんいます。自分の罪を認めないし、神に従いたいという思いは何もなく、ただくれ、くれ、くれ、と要求します。

自分がどのように生きるべきかは言わないでほしい。ただ私のほしい物をくれ。私が自分のお金や財産をどのように使うかは何も言わないで私に幸せをくれ。友をどのように選ぶかは言わずに友をくれ。日曜日に時間をどのように使うべきかは言わないでただ私に休みをたくさんくれ。何の要求もせず、私の要求だけを聞いて、自分がほしいときに、ほしいものを、ほしいだけくれ。それ以外は神は黙って邪魔しないでくれ。

このような人が身近にいるかもしれません。あるいは自分がこのような人だったかもしれない。今でもこのようなのかもしれない。

彼にとって大事なことは、ただ神が私たちに仕えることだけです。

それで、犯罪者はイエスをののしって、あなたがキリストなら自分と私を救え、と言います。ここで私たちが気づかなければならないことは、イエスがこの犯罪者に何も答えなかったことです。イエスは彼に慰めを与えないし、希望を与えないし、未来を与えないし、いのちを与えません。

それで彼はとんでもない死に方をして、パラダイスには受け入れられませんでした。皆さんにこのようなことが起きないように祈ります。



もう一人の犯罪者は、マタイに書かれているように、最初は周りの人々と同じようにイエスをののしりました。しかし何かが変わりました。御父は彼にあわれみをもちました。御霊が彼の霊にいのちを与えて、新しい人になったのです。

もしかしたら「父よ、彼らをお赦しください。」というイエスの祈りが彼の心に響いたのかもしれません。イエスの祈りは彼の心に届きました。ルカは何が起きたのかは教えてくれませんが、何かが起きたことをはっきりさせます。この犯罪者はまったく違うことを言いました。

特に二つのことを考えてほしいと思います。まず神を恐れる心です。



⚫️「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。(23:40)

彼は信仰者のレベルまで来ています。彼自身は神を恐れていて、もう一人が神を恐れていないことを叱っています。日本もカナダと同じようにだれも神を恐れていません。神はもはやサンタクロースのように、ただ人に良い物を与える存在になっています。神は私たちの友になることに必死で、何でもしてくれるお方です。確かにイエスは罪人の友です。聖書の中で、アブラハムも神の友であったと書かれています。しかし、神の友は聖書の中では神の前で恐れおののいて神を礼拝しています。私たちが神を恐れるから神から遠ざかるとか、神を恐れて神から逃げる、というようなものではありません。正しい恐れとは、私たちを神に引き寄せるものです。神の栄光に対して恐れています。

神は万物の造り主で、罪人の救い主で、人類のさばき主です。決してサンタクロースではありません。飲み友達でもありません。そういう意味の友ではないのです。神はあまりにも永遠で満ちているので、神に会うとき私たちは倒れてひれ伏します。

それで悔い改めた犯罪者は、もう一人の犯罪者に、あなたは悔い改めないのか、と聞きます。



もう一つ気づいてほしいのは、悔い改める犯罪者は自分の罪を認め、それにふさわしい罰を受けることを認めていることです。自分のしたことの報いを受けていることを認めているのです。悔い改めた犯罪者は、自分の罪を認めながら、神の罰が正しいことも認めています。

対照的に悔い改めない犯罪者は、自分の罪の責任を取らずに、いつも言い訳をします。そして、不正に対して文句を言い、罰がおもすぎるといいます。常に神が公平ではないと言い訳をするのです。クリスチャンたちも同じようなことをします。自分の罪を説明することと正当化することは全然違います。私が疲れて牧師に失礼なことを言ったとします。疲れているから失礼なことを言ってしまったと説明することはできます。でもこれを正当化することはできません。悔い改める必要があります。自分の罪の責任を取る必要があります。牧師と神に犯した罪を悔い改めなければなりません。悔い改めない罪人は説明を自分を正当化するために使います。私たちが忠実に生きているなら、自分の人生の中で起こることはすべて私たちにふさわしいことを認める必要があります。



⚫️おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(23:41)

私たちに起きたすべての良いことはすべて神の恵みです。神は私たちの思いを超えて豊かに祝福してくださいます。じつに御父は私たちすべてに良いものを与えてくださいます。悔い改めた犯罪者は、神を恐れて罪を認めます。神の正しいさばきも認めたので、イエスに恵みを与えてくださるように祈ります。



⚫️「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(23:42)

まことの悔い改め、まことの信仰を表す言葉です。この言葉では足りないかもしれませんし、そのまま祈るとは限りませんし、子どもに教えるとは限りませんが、これは自分のすべてを救い主に任せていることばです。

ところが私たちはもっと言うべきことがあると思ってしまいます。もっと成長した言葉で悔い改めを表現してほしいかもしれません。しかしこれがまことの悔い改めと信仰の言葉であることを覚えてください。ここに大切な教訓があります。私たちはみんな、様々な道を通して信仰にたどり着きました。私の祖母は1923年にクリスチャンホームに生まれ、信仰者として育ちました。イエスを自分の救い主として告白しない日は1日もなかったのです。それは素晴らしい証しです。私たちの子どもたちもこのような証しをすることを望んでいます。しかし信仰に至る道はこれだけではありません。サウロはダマスコに行く途中でイエスに出会い、奇跡的に救われました。今見ているこの十字架の犯罪者は死ぬ直前に悔い改めました。ただ、「私を思い出してください」と言っただけでした。この言葉によって、私たちは、悔い改めのストーリーが人それぞれみんなちがうことを学ぶことができます。私たちがよくやる間違いは、自分のストーリーや歩む道を他の人に押し付けることです。他の人の信仰の歩みが自分と同じになるように押し付けます。自分の感情を他の人にも感じて欲しい。自分が使った告白の言葉を他の人にも言ってほしい。自分と同じ言葉を使わないなら、私ほどの良い信仰者ではないのかもしれないと思っています。



⚫️「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)

これはイエスが十字架上で発言した二つ目のことばです。

イエスは「アーメン(まことに)」と言います。

彼にも永遠のいのちがあります。とんでもない犯罪者でさえ救われることがわかります。ふさわしい罰として死刑となった犯罪者も救われます。

(パラダイスが何かというと少し複雑です。今日はそれにはふれません。スミス牧師はパラダイスについて、12回の講義をしてくれるでしょう。どの講義も3時間です。)

「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」ということばを通して、イエスは一つの単純な真実を表しています。私たちは恵みのみによって救われるということです。この犯罪者は悔い改めましたが善を行う時間はありませんでした。バプテスマも受けていないし、教会にも行かないし、聖餐式も受けませんでした。兄弟に仕える機会もないし、執事や長老にもなりませんでした。何も人に与えず、一つも善を行わずに死にました。しかし神は彼にすべてを与えられました。救いは一方的な恵みだからです。悔い改めるのに遅すぎることはありません。罪を認めるのに遅すぎるということはありません。イエス・キリストにある神の恵みに自分をゆだねるのに遅すぎることはありません。息がある限り、主よ、私を思い出してくださいと祈ることに遅すぎることはありません。

今まで、罪からイエスに向きを変えたことのない人でも、今日からできます。

今日、あなたがこの言葉を祈れる日です。イエスよ、私たちを思い出してください。信じる私たちにとっても、今日は救いの日です。私たちは毎日悔い改める必要があります。私たちは毎日十字架のもとに自分を投げつける必要があります。自分の罪を認めて、イエスよ私を思い出してください、と祈ってください。

御父、御子、御霊の名によって、アーメン。




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