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「キリストのことば」コロサイ3:16

説教者:ラルフ・スミス牧師


コロサイ3:16

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。


●キリストのことば

「キリストのことば」は、聖書全体でこの箇所にしか出てこない。「キリストのことば」というと、新約聖書を指すと思われやすいが、じつは聖書全体を指している。「キリスト」は「油注がれた者」という意味のギリシャ語で、ヘブル語訳では「メシア」である。つまりパウロはメシアという意味でキリストと言う。ヘンデルが作曲した「メサイア」を聞いたことがある人は、このオラトリオが旧約聖書の預言を歌っていることに気づいただろう。聖書全体はメシアを中心にしているので、「キリストのことば」は聖書全体を指している。この箇所を理解するために、三つの言葉でまとめることができる。

1、預言

メシアが来ることを最初に預言しているのは、創世記3:15である。

【創世記3:15】わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。

アダムとエバがサタンに誘惑されて罪を犯したときに、神様が現れてサタンに対するのろいを宣言した。サタンは女の子孫に害を与えるが、女の子孫はサタンの子孫を殺す。これが一番最初の救い主の預言で、サタンをさばいて人間を救ってくださる神の約束である。このストーリーの後、アダムの名前はあまり出て来ないし、女の子孫ということばも、メシアということばも出て来ない。

次に神様はアブラハムに子孫を与えると約束してくださったが、アブラハムと妻には子どもが生まれなかった。神様がアブラハムをウルから連れ出したとき、アブラハムはすでに75歳だった。それから神様はずっとアブラハムを助けて、導いてくださり、アブラハムが百歳になったときにイサクを与えてくださった。アブラハムも妻も子どもをもつことが不可能になってから子どもが与えられた。これは女の子孫の一つの成就である。

イサクは大きくなって妻リベカをめとったが、リベカも不妊の女だった。イサクが神様に祈ったので、神様はイサクとリベカにヤコブとエサウという双子の息子を与えてくださった。

ヤコブも大きくなって妻ラケルをめとったが、ラケルも不妊の女だった。ヤコブが神様に祈ったので、神様はヤコブとラケルにヨセフとイシュマエルを与えてくださった。このように創世記の中で不妊の女のストーリーが繰り返されている。子どもを生むことができない女が子どもを生むという奇跡によって女の子孫が与えられる。

創世記の中で一番最後の子を生めない母親は、タマルである。今度はタマルが不妊の女だったのではなく、夫が与えられないことで子どもを生めなかった。最初の夫は悪い男性だったので神様に殺されて、二番目の夫も罪を犯して神様に殺された。タマルはアブラハムの子孫の約束を信じて普通ではない形で子どもを求めて、神様は彼女にペレツとぜラフを与えてくださった。マタイの福音書の系図で一番最初に出てくる女性はタマルである。

聖書の中で子どもを生めなかったのに与えられた奇跡的な女性はもちろんマリアである。イエス様は女の子孫の預言の成就である。神様は、旧約聖書の中でだれも想像できなかった形で女の子孫を私たちに与えてくださった。イエス様が与えられたので、私たちには創世記や他の旧約聖書の歴史のすべてがイエス様のためであることがわかる。二百以上の旧約聖書の預言はずべてイエス様において成就された。どこで生まれるか、いつ生まれるかもすべて預言されている。実際にイエス様がその預言を成就されたときに、旧約の全てがイエス様を中心にしていることがよくわかる。


2、ひな形

メシアがどのようなものかをストーリーにおいて表している。パウロの手紙の中で、アダムはひな形だと言われる。最初のアダムは人類の頭として罪を犯し、罪を犯したことによって私たちに死をもたらした。最後のアダムは人類の頭で、正しいお方で、私たちに永遠のいのちを与えてくださるお方である。対比的な意味で、最初のアダムと最後のアダムの関係があるが、普通はひな形は似ているものである。創世記の中で一番目立つ、主イエス・キリストを表すストーリーはヨセフである。ヨセフは正しいかったので兄弟たちに憎まれた。ヨセフの兄弟はヨセフを殺す計画を立てた。結果的に奴隷として売ったのだが、これも象徴的に殺すことである。ヨセフは地獄のような獄に入れられたが、神様がそこから救い出して、王の右の座にすわらせて国を治める者となった。そして王の右の座にすわったヨセフは自分の兄弟たちを救う。イエス様も救いを世界に与える。ヨセフのストーリーは創世記の中で非常に特別で、モーセがこれを読んだときに、神がこのように特別な導き方をしたのは、さらに大きな計画があるからだと思っただろう。

私たちは主イエス・キリストがこの世に生まれて、十字架にかかって死んでくださって、天に昇って神の右の座についてくださったので、イエス様を信じる者に永遠のいのちを与えてくださったことがわかる。私たちはそれを知っているので、このヨセフのストーリーを単なるヨセフのストーリーとして読むことはとてもできない。ヨセフだけではなく、モーセもダビデもイエス様を表すひな形である。油を注がれたのは、祭司、王、預言者である。すべての祭司、すべての王、すべての預言者は何かの意味でイエス様を表すひな形であることを覚えて聖書を読むべきだと思う。アダムのような対比的なひな形もあるし、ヨセフ、モーセ、ダビデのようにメシアに似ているものとしてのひな形も聖書の中にたくさんある。その意味で、聖書全体はメシアのことばである。


3、モーセの教え

モーセの教えの中で十戒もメシアのストーリーである。なぜならイエス様のみが十戒を完全に守ったからである。しかしいけにえ制度全体もメシアのストーリーである。黙示録の中で、イエス様の名前の一つは神の子羊である。バプテスマのヨハネもイエス様を「神の子羊」と紹介した。

神の子羊の話は一番最初の過越の日からはじまる。当時のイスラエル人たちはエジプト人と同じように神のさばきを受けるべきものだった。しかしイスラエル人をさばきから解放するために、羊をいけにえにしてその血を家の門につける。さばきを行う御使いは血を見たらその家をさばかない。エジプト人がイスラエル人かの違いではない。エジプト人も神を信じて門に血をつけたらイスラエルと人と同じように救われると思う。イスラエルの代わりに子羊が死んだのでその家はさばかれない。私たちにとって、イエス様はほふられた子羊である。イエス様が私たちの代わりにさばきを受けてくださったので、私たちは救われる。いけにえ制度すべてはイエス様ご自身を表している。

過越の日から始まったストーリーは、レビ記で複数のいけにえになるが、全てちがう形においてイエス様の十字架を表している。

預言、ひな形、モーセの教えによって、聖書のすべてはメシアを中心に書かれている。


パウロは、コロサイの教会に悪い影響を与える教師たちに反対している。悪い教師はキリストを引き下げて、一番大切なのはキリストではないと教えていたので、パウロはすべてのことにおいてキリストが第一であると話す。そのことがわからなければ聖書について何もわかっていないという意味で、「キリストのことば」という特別な表現を使った。


●あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。

「キリストのことば」と同様に、聖書の中でここにしか出てこない。

「豊か」と「住む」は一緒に使われるようなことばではない。豊かに住むことを通して、パウロは何を強調しようとしているのか。

豊かではない住み方もよくわからない。キリストのことばが豊かに自分のうちに住むようにしなさい。皆さんはこれに似た表現を旧約聖書で思い出すだろうか。

【申命記6:4〜6】聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。

「心にとどめなさい」はヘブル語の直訳では「心の上にあるようにしなさい」となる。みことばが自分のうちに豊かに住むように、と同じ意味だと思う。

【申命記6:7~9】これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の戸口の柱と門に書き記しなさい。

言いかえれば、みことばを豊かに住まわせなさい、ということになると思う。モーセがみことばいっぱいの生活をしなさいと教えているように、パウロも私たちに教える。みことばを心に刻み、とどめ、豊かに住むように。これはすべてのクリスチャンに対する命令である。一生学び、一生求め、繰り返しみことばを読んで、瞑想して、寝る時も、起きる時も、食べる時も、歩く時もみことばを語るというのは、神を愛することである。心を尽くし、思いを尽くして神を愛するということは、みことばを中心にする生活を送ることである。勉強会もするし、自分で聖書を読んだりするし、祈りをもってみことばを求めるが、みことばが心の中心となるようにとパウロは言う。キリストのことばが自分の中に豊かに住む。みことばに何が書いてあるかよくわからなければ、瞑想することもできないし、語ることもできない。私たちは生きている間に真剣にみことばを求めるようにパウロに命じられ、教えられている。


●互いに教え、忠告し合う

毎週、教会員が交代で聖書を教えるということではない。礼拝後にいっしょに食べることは今はできていないが、この食事の交わりは、教会員が自然に教え合い、自然に忠告し合う場所、自分たちの証を教え合う場所として求めて与えられたものであった。

【コロサイ1:28】私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。

ここに出てくる「諭し」は「忠告する」ということばである。パウロの務めをコロサイ教会のみんなに教えている。地域教会の交わりの中心はキリストのことばである。すべての教会員がパウロの模範に従い、心にみことばを豊かに住まわせて、心から教え合い、忠告し合うように。申命記の中にあるように、それが神を愛することであり、神を愛する歩み方なのである。私たちは毎週の礼拝でモーセの十戒を唱えるが、最後に司式者が「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言うことも思い出す。


今日の礼拝の福音書の朗読はヨハネ14章だった。

【ヨハネ14:23~24】イエスは彼らに答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。

イエスの命令を守る人は、本当の意味でイエス様を愛している。そしてイエス様の命令を守る者は御父がご自分を表してくださり、その人と一緒に住んでくださる。イエス様を中心にする聖書の読み方や考え方は、三位一体の神様を中心にしている。イエス様は御父を表し、イエス様は御霊を与えてくださって、御霊を通して私たちにみことばを教えてくださる。三位一体の神のみことば、キリストのことば、メシアのことばが心の中に豊かに住むようにしなさい、という命令は、私たちを愛してくださるキリストの愛に応えることである。教え合い、忠告し合うことはお互いを愛することである。




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