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「七つの大罪シリーズ:強欲」

説教者:ベンゼデク・スミス牧師



強欲(物欲、欲望)とはそこまで大ごとなのでしょうか。確かに十戒に強欲であってはならないという命令はありません。しかし聖書の中では、強欲は最も人を腐敗させる罪です。

【第一テモテ6:9】金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また、人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

この聖書箇所から、金銭を愛する心と強欲と傲慢は、どれが罪の源なのかという議論が昔ありました。その結果、傲慢があらゆる罪の根であるということになったのです。

【ルカ16:13】どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。

歴史を見ても、社会を見ても、お金はよく出てくる危険な偽りの神です。富という偶像(悪魔)が多くの人々を惑わして、自分に仕えるように誘惑します。パリサイ人たちでさえ、神ではなくお金を選びました。



別の箇所でも神がどれだけ強欲を憎んでいるかが分かります。

【第一テモテ3:2〜4】ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳を持って子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

強欲の罪を持っている人は、教会のリーダーにふさわしくありません。

【テトス1:7】監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず

こちらにも似たようなリストがありますが、「不正な利を求めない」という部分はどちらにも重なっています。

「不正な利」とは特にお金を指すことばです。監督者は腐敗しない者、賄賂に手を出さない者です。



強欲の例をいくつか見ていきましょう。

• アカン

【ヨシュア7:20〜21】アカンはヨシュアに答えた。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。」

アカンは神様から盗みました。これが一番いけない強欲です。その結果イスラエルはたたかいに負けました。この罪について説明したいことがたくさんありますが、また別の機会にします。



• サムエルの息子たち

【第一サムエル8:1〜5】サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやってきて、彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

サムエルの息子たちは利得を追い求めてさばきを曲げていました。それで民は神に王を立ててほしいと頼み、神が民にサウルを王として与えました。それがイスラエルにとって大変な試練となりました。



• アハブ

【第一列王記21:18〜19】「さあ、サマリアにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。彼にこう言え。『主はこう言われる。あなたは人殺しをした上に、奪い取ったのか。』また、彼に言え。『主はこう言われる。犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる。』」

アハブは宮殿の隣のぶどう畑が欲しいというだけで人殺しをしました。その結果、神様はアハブの家を滅ぼしました。



このように聖書のあちこちに出てくる強欲のたとえですが、今日は二つだけ取り上げます。

1,新約聖書のアナニアとサッピラという夫婦

【使徒の働き5:1〜5、7〜10】ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知の上で、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足元に置いた。すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。…

さて、三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入ってきた。ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。そこでペテロは彼女に言った。「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか。見なさい。あなたの夫を葬った人たちの足が戸口まで来ている。彼らがあなたを運び出すことになる。」すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた。入ってきた若者たちは、彼女が死んでいるのを見て運び出し、夫のそばに葬った。

ペンテコステでペテロの説教を聞いた人々が三千人もバプテスマを受けました。そして教会が始まりましたが、そこには貧しい人たちがたくさんいました。そこでエルサレムの教会のお金持ちたちが、自分の財産や土地を売って献金し、教会はそれを必要に応じて皆に分けていました。エルサレムが滅ぼされると預言されていたので、エルサレムに土地を持つのは意味がなかったからです。

アナニアとサッピラはその頃クリスチャンになった二人です。だれかが自分の土地を売って大金を献金すると、周りの人は感謝しますし、その献金によって助かった多くの人はその人を尊敬します。

自分の畑を売り、その大金を献金した人の中にバルナバがいました。アナニアとサッピラはそれを見て対抗心を燃やしたのかもしれません。アナニヤたちは富を通してステータスを手に入れたかったのです。バルナバのようにみんなに感謝されて尊敬されたい思いがあり、それと同時に貧乏になりたくないという思いもありました。それで、彼らは土地を売って手に入れたお金の一部を取っておき、残りを代金のすべてだと言って献金しました。それでどうなったのかでしょうか。神様はアナニアもサッピラもその場で殺しました。神はこの罪を許しませんでした。強欲の罪には次の二つの要素があります。

1、お金は手放したくない。金持ちになりたい。

2、尊敬されたい。

お金は手放さずに尊敬が欲しい。強欲の罪はこれがセットになっていることが多い。

お金持ちはみんなから頼られるステータスが欲しいので、お金をすべて使い果たして貧乏にはなりたくないのです。お金を出すときも目立つ出し方をします。そうしないと、自分が求めている報い、つまり人からの尊敬を得ることができないのです。このような思いで献金するなら、その人のたましいは危険なところにあります。神様はこのような者を見る時、その場で殺したくなるほど怒りを感じるのです。

アナニヤとサッピラ以上に強欲の罪を犯している人物がいます。



2,イスカリオテのユダ

聖書の中で一番強欲なのは、イスカリオテのユダです。彼は貧しい人に行くべきお金を盗んでいました。苦しい人や貧しい人がどれだけ苦しむかは考えもしません。それはユダにとって関係ないことでした。そして最終的にイエスを銀貨三十枚で売りました。人より物を大切にしました。本来は、神が創造した人間も神様も愛の対象であるべきです。そして物は人を愛するために使う手段であるべきなのに、強欲はこれをひっくり返します。求めているものが物で、人間や神様がその手段となるのです。



私たちには強欲の罪があるのでしょうか。

じつは私たちがこの点においてどれだけ罪深いかを理解するために、私たちの社会がどれだけこの罪に浸っているのかを知るべきです。

自分がどれだけ悪いのかを知るために人と比べます。自分の強欲が周りの人とたいして変わらないなら問題ないと思うかもしれません。その社会の有様を見て、私はそれほど悪くないと自分を正当化するかもしれません。

しかしそれは危険です。私たちが今生きている社会は強欲で満ちている社会だからです。罪は、人から人にうつるものです。良い行いも悪い行いも人に伝染します。私たちが生きているこの社会は唯物論を信じていて、物欲に満ちている社会なので、霊もたましいも存在しないなら強欲の道しかないのです。マルクスのお陰なのか、現代の経済のお陰なのか、すべてをお金のように見てしまいます。

例えば、歴史を高校の生徒に教えている時に貴族の話が出てきたのですが、生徒たちは貴族を昔の金持ちだと考えていました。貴族が何かもわかっていませんでした。昔は、金持ちだった人が社会の上にいた、という理解でした。

私たちの社会には貴族はいなくなったので、私たちは金持ちであっても貧乏であってもみんな強欲に満ちている農民ということになります。

この社会は広告で動いています。広告がしようとしているのは、「好きでもない人の気を引くために、持っていないお金で、必要でもないものを買わせようとすること」です。これで経済がまわるという考え方です。何でもお金が目的になります。

学校も、いつの間にか、教育を与える以上にお金を儲けることを大切にしています。

病院の目的も製薬会社の目的も、いつの間にか健康よりも利益を大切にしています。

アートのギャラリーでさえお金儲けになっています。世界中の政府も腐敗の問題があり、人に仕えるよりも自分の懐を温めるために権力を使います。

民主主義でこれが治るでしょうか。選挙で公約するのは、お金をいくらばらまくか、これの無償化、あれの無償化、結局人々の強欲にアピールして、小さな賄賂を通して私たちの票を買おうとしています。残念ながらこれが効果的です。

教育も変わりました。昔の教育は人々に自由を使う方法を教える場だったのです。だからリベラルアーツ(自分に与えられた自由をどのように使うべきか)という教育や、人間としてどのように生きるべきなのか(ヒューマニティ、人文科学)という教育でした。そのために歴史、音楽、美術、哲学、神学を勉強していました。そうすると、目の前にあるもの以上のものが見える人間になるはずなのです。この世の中全体、世界まで見えるはずなのです。そして天国を創造できる人間になることが目的だったのです。その天国を地上に持ってくる、つまり御国を建て上げるための教育でした。

ところがどんどんリベラルアーツや人文科学を学ぶ人が少なくなって、教育はお金を稼ぐ方法を教えるためのものになりました。結局は職業訓練のための学校になっています。生徒も親も大学も政府も、教育の目的はどれだけの富に結びつくか、それだけなのです。逆説なのですが、富を求めるとその社会は乏しくなります。人間性も霊も乏しくなり、富もなくなり、貧しくなっていきます。

共産主義の一番の罪がねたみだとしたら、共産主義ではない国の一番の罪は利己的で独善的な強欲ではないかと思います。ぼくは共産主義ではない国と言いましたが、資本主義の国とは言いませんでした。資本主義が問題ではなく、社会全体に広まって腐らせている強欲の罪が問題なのです。売り手に金持ちになりたいという欲があって、買い手もその製品が欲しいという欲がある。この欲が一緒になって私たちは金持ちになれる。これが私たちの罪を正当化する手段であって、クリスチャンとしては何かが違うと感じるはずです。彼らは、「自分のものは自分だけのもので、自分が使いたいように、自分のために使う権利がある。」と思っています。

しかしこれはとんでもない偽りです。私たちが持っているのは私たちのものではなく、神様のものです。私たちの力で手にいれたものではなくて、神様からの賜物で、私たちはその管理人なのです。

森のすべての獣も家畜も、私たちの持っているものもすべて神から来ているなら、なぜ神はこれを与えるのでしょうか。

それを考えなければいけないのです。この世界の中で目立って変わらない生活をしているのであれば、私たちも強欲の罪に満ちているということなのです。



では私たちはどのように強欲に対抗すべきなのでしょうか。

クリスチャンはどのように周りの人とちがう生き方をすべきなのでしょうか。

1、天に宝を積むことです。

【マタイ6:19〜21】自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは、虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは、虫やさびで傷物になることはなく。盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

お金があるのは良いことです。家族を養い、隣人を愛するために必要です。自分の子どもが健康的に食べて、安全で心地よい家を作ることを求めて、与えることは素晴らしいことです。子どもたちにいろいろな人生や経験を与えること、お金で買える祝福を与えるのは素晴らしいことです。しかしそれ以上に素晴らしい祝福は、子どもたちが親から敬虔な生き方を学ぶことです。親たちが感謝をもって生きていて、愛をもって自分のお金や時間や力を人に注ぎながら生きている姿を見て育つことが大事です。そうすれば、子供たちはどのように天に宝をたくわえることができるかを学びながら育つことができるのです。

両方の祝福を子どものために求めるべきですが、後者の方がずっと大事です。



2、不安にならないこと、心配しないこと。

【マタイ6:31〜34】ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくて良いのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

ステータス、尊敬、快楽のために尊敬を求める人がいますが、自分の不安を抑えるためにお金を求める人がいます。

私たちは食べ物や着るものについて心配します。しかし最終的に神様が面倒を見てくださることを忘れてはいけないのです。それを信じないと、御国を第一に求めることからずれてしまいます。

このマタイのみことばは慰めのことばです。イエスはここで叱っているのではありません。安心しなさい、大丈夫ですよ。

そして神の国と神の義を求めると、神が私たちの一時的なからだを養ってくださることを信じるべきです。

これまでの数週間、私たちは荒野のイスラエルの話を読んだり聞いたりしました。読むたびに、彼らは本当に信仰の浅い民だと思いますよね。神が救ってくださった次の瞬間に、もう次のことを心配しています。神様がどんなに彼らを助けてもそれをすぐに忘れて心配してしまうのです。私たちも似ていませんか。彼らの真似をしないように気をつけましょう。



3、満足すること、感謝すること

パウロとともにこのことばが言えるようにしましょう。

【ピリピ4:11〜12】乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私たちが神様のわざに目を留めて、神様は私たちにどのような祝福を与えてくださるのか、どのように守ってくださるのかに目を留めると、感謝がわいてきます。そして満足が与えられます。

もっと手に入れば満足するのに、と欲張るのが強欲の罪です。強欲は決して満足しない罪なのです。ステータスをどんなに上げても、終わらない追求が続きます。収入があとちょっとあれば足りるのに、家の中にあとちょっと場所があれば、靴箱や戸棚にもう少しスペースがあったら…。

満ち足りることについてイエスは話します。

【ルカ12:16〜21】それから、イエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

今持っているもので満足しない人は、常に満足しません。思っていたものが手に入ったとしても決して満足しないでしょう。

でも神様が今あなたに与えている祝福は十分です。

【第一テモテ6:6~8】しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。

僕は、もっと求めるように働くな、とは言っていません。一生懸命働いて、求める時も常に満足していなさいということです。そうしないと一生懸命働くことも虚しいのです。



4、寛大さと施し

強欲の罪の解毒剤は、寛大さと施しです。自分が持っているものを分け与えることです。だれに与えるかというと、第一に神様に与えます。何しろ、私たちがもっているものはすべて神様からの祝福なので、神に返すのです。

聖書の中で、一番の金持ちの二人はダビデとソロモンでした。二人は自分の富でエルサレムの神殿を建てました。良い王は神殿の金を増やします。神殿に自分の富をささげるのです。悪い王は自分の政治的な理由のために神殿の金を奪うのです。アカンのように、アナニアのように。

ベンは私たちに貧しくいて欲しいのか、思うかもしれません。でもぼくはそのように思っていません。

貧しいことは、金持ち以上にきよい状態ではありません。

貧乏でも金持ちでもない状態は一番誘惑が少ないと思います。それは箴言に書かれています。

【箴言30:8~9】むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。

しかし富むことは祝福です。自分の罪を制して、きよく生きて、より多くのものや行いを神にささげて、御国のために働くことができます。

その意味で、献金は決して税金のようなものではありません。計算をして、一番最小の金額を献金してささげ、それを受けた教会がその金額で何とかまかなう、ということではないのです。べタニアのマリアは貴重な油をイエスの足にぬりました。強欲なユダはもったいないと責めましたが、イエスは彼女をほめます。

【マタイ26:10~13】イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

金がなければ強欲の罪もないとは言いません。貧乏の人も強欲の罪を犯すことはあります。

でも同時に寛大になるためにもお金は必要ではありません。貧乏でもお金持ちでも寛大になることができます。

例えばイエスが神殿で出会った貧しいやもめはコイン2枚をささげました。これは彼女がもっていた生きるすべての手立てだったのです。

【ルカ21:2】そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。ある人たちはみは、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

イエスは彼女をほめました。



最終的に、私たちはイエスを見てイエスのように生きることが大切です。

イエスは天で富んでいたのに、自分のすべての栄光を置いて、地に降りて貧しい家庭に生まれました。貧しい大工として働き、御父から栄光を受けるように生きました。その栄光を私たちに分け与えることができるために貧しく生きたのです。

私たちは決してこの世の小さいことに対して強欲にならないで、十字架の栄光、その素晴らしさに欲を持ちましょう。

そして善を行って、天に宝を蓄えて、いつかイエス・キリストとともに永遠の祝福を手に入れることができるようにがんばりましょう。





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