説教者:ラルフ・スミス牧師
コロサイ3:22〜25
奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。…
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
最近、教会の何人かの若い人に奴隷についてどう思うかと尋ねたら、19世紀のアメリカが自分の奴隷制度の具体的なイメージだと答えた人がいた。19世紀のアメリカの奴隷制度は、20世紀の教科書通りの理解で良いと思う。しかしパウロが奴隷について話す時、それと全くちがう話をしていることを認識して読まなければならない。つまり、パウロの時代の奴隷制度は昔のアメリカに比べて非常に厳しいものだったということを私たちは知らなければならないと思う。パウロが奴隷たちに「主人に従いなさい」と命じる時、決して楽なことを話しているのではない。
先週はピレモンへの手紙に書かれていることを少し見た。オネシモはピレモンの奴隷であったが、ピレモンから逃げてローマまで二千キロの旅をしてパウロのところに行った。オネシモはローマでパウロに仕えているうちにはっきりした信仰を持つようになったので、パウロもオネシモを「獄中で生んだわが子オネシモ(ピレモン10)」と呼んだり、「忠実な、愛する兄弟オネシモ(コロサイ4:9)」と呼んだりしている。コロサイ人への手紙やピレモンへの手紙にオネシモの話が出てくるのでこの二つを一緒に見る必要がある。
これらの手紙が書かれたのはAD60年で、パウロがローマに軟禁されて裁判を待っているときだった。コロサイ人への手紙とピレモンへの手紙のほかにピリピ人への手紙とエペソ人への手紙もパウロは書いている。パウロは24時間鎖につながれてローマ兵に監視されていたが友人が訪問したりすることは許されていた。ルカ、マルコ、テモテもいたし、他にも何人か一緒にいた。
パウロは、奴隷たちに、ただ単に自分の主人に従うのではなく、キリストに仕える者として主人に従いなさいと教える。奴隷は神の摂理において奴隷になっているので(パウロはそこまではっきりとは言っていないが)、奴隷として主に目を留めて、主に仕えるように主人に従いなさいと言う。このように教えるパウロを、アメリカでは19世紀からずっと悪人だと思われていたし、パウロの教えはとんでもないものだと思われていた。彼らは、このような教えは聖書のみことばであるはずはないと言う。パウロはすべての奴隷を解放するように教会に教えないので、ひどいクリスチャンであるとされていた。主人に心から忠実に仕えなさいというパウロの教えは人々のつまずきになっていた。
【コロサイ1:12~13】また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この何週間か、コロサイの手紙から奴隷について説教しているが、イスラエルがエジプトから解放されてカナンに導かれたように、コロサイの人々も、もともとは罪の奴隷で、悪魔の暗闇の支配の下にいたのに、イエス様によって解放されたのである。
だから、キリストにあってはギリシア人もユダヤ人も割礼の有り無しも、未開人もスキタイ人も、奴隷も自由人もない。みんな罪の奴隷であった人たちが、イエス様にあって救われて、解放された。
【コロサイ3:10〜11】新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちに従って新しくされ続け、神の知識に至ります。そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人もスキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
キリストにあって新しい人類となった。パウロは奴隷たちが聞いたことのないことを教えてくれている。
ちょうどパウロがこの手紙を書く20年ほど前に、ローマ帝国の有名な政治家トライニーが友人に送った手紙が残っている。友人が解放した奴隷が元主人(友人)に大変失礼なことをしてしまったので、奴隷は元主人より地位の高いトライニ―のところに行って涙を流して、元主人が自分を許してくれるように手紙を書いてほしいと頼んだ。それでトライニーは元主人である友人にこの奴隷をさばかないでほしいと頼む手紙を書いたのだ。
その手紙は今でも残っていて英語にも翻訳されているが、その手紙はパウロが書いたピレモンへの手紙やコロサイ人への手紙とどれほどちがうのかを、N.T.ライトは本の中で強調している。トライニーは社会的な地位の話を前提に、ただ「さばかないでください」と頼むだけの手紙である。主人と元奴隷が和解することは求めていない。
パウロの場合は、キリストにあっては奴隷も主人もなく、ユダヤ人と異邦人もなく、キリストがすべてであると言う。
ピレモンへの手紙で、パウロはオネシモを「獄中で生んだわが子オネシモ(ピレモン10)」と呼んでいる。これがどれほど驚くべきことであるか、みなさんに伝わっているだろうか。オネシモはローマ帝国の奴隷であった。ローマ帝国では奴隷は人間以下で、ロバや犬と同じレベルの存在であった。しかしそのオネシモのことを、パウロは獄中で生んだわが子と呼ぶ。パウロは自分が獄中にいることを恥とは思っていない。普通だったらローマ帝国で逮捕されて獄に入れられた者は見下されて恥と思うのであるが、パウロは福音のために獄中にいるので、獄にいることを誇りに思っている。同時に、オネシモがパウロから福音を聞いてはっきり信じたことを神様に感謝している。
【ピレモン12】そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
ローマから手紙を書いているので、オネシモの旅は二千キロになる。船に乗るところもあるので全部で二十日間ほどかかる。パウロはローマからコロサイにいるピレモンのところにオネシモとティキコを送る。二人は教会に行ってパウロの様子を伝えたりする。
【ピレモン15~16】オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟としてです。特に私にとって愛する兄弟ですが、あなたにとっては、肉においても主にあっても、なおのことそうではありませんか。
「永久」は「永遠」ということばである。オネシモが神を信じたので、彼を永遠に一緒に生きる兄弟として見なさいという意味が含まれている。永遠の兄弟関係の方が、この世の主人と奴隷の関係よりもはるかに大切で、主人が奴隷を兄弟として歓迎するのは愛の話になるのである。
【ピレモン17】ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるように、オネシモを迎えてください。
17節はピレモンの手紙の中で一番大切なところだと思う。
「仲間」という訳は軽すぎるような気がするが、適切な言葉が思い浮かばない。要するに、パウロはピレモンたちと兄弟の交わりをもっているということを一番深い意味で考えている。ピレモンがそのように思っているなら、パウロを迎えるようにオネシモを迎えてほしいとパウロは言う。「迎える」という言葉はローマ書の中で何回か使われているが、「受け入れる」と翻訳されているので、パウロを仲間と思っているならオネシモを受け入れてくださいとピレモンに頼んでいる。パウロは和解の福音をはっきりと普通の人間関係に適用している。奴隷たちはキリストに仕えるように生きなさいと教えられて心が解放され、体は別としてもはや罪の奴隷ではない。主人たちも奴隷を兄弟として受け入れるように励まされて悪い思いから解放されて、兄弟愛をもって生きることができるようになる。それが奴隷制度を簡単にやめさせるよりもずっと意味がある。ローマ帝国の歴史の中で、奴隷を解放することがあったが、自由になった奴隷は奴隷の時よりも生活が難しくなってしまう。単に奴隷を自由にするだけでは社会が良くなったとは限らない。アメリカでも同じようなことが起きた。政治的に自由になることが本当の意味での自由ではないのである。
キリストにあって一つになって、兄弟愛をもって互いを愛し合うことができなければ自由ではない。まだ罪の奴隷である。コロサイ人への手紙とピレモンへの手紙を一緒に見る時、パウロは和解の福音を強調している。ピレモン、オネシモ、コロサイの教会の人たちが、キリストにあって神様と和解したことを強調して、ピレモンとオネシモのことを通して兄弟愛を教える。
【コロサイ1:19~】なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためなのです。ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。
和解の福音は、奴隷と自由人の正しい兄弟関係の土台である。私たちの地域教会には日本人も中国人もアメリカ人もいる。毎週の聖餐式のとき、お互いを受け入れて、神様が与えてくださった聖餐をいただいて、兄弟であることを行動において表し、愛のうちを歩むように励まされる。キリストにあって和解が与えられた私たちは、その和解を意味する食事をいただいてお互いを受け入れ合う。そのことを覚えて聖餐式を受ける。
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