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「待降節第一主日」レビ記23:1〜3

説教者:ラルフ・スミス


レビ記23:1〜3

主はモーセにこう告げられた。 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。 六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。

待降節に入った。今日から四週間は主イエス・キリストがこの世に来て下さったことをお祝いする心の準備をし、イエス様について考える特別な季節となる。今日はキリスト教のカレンダーについて、待降節について一緒に考えたいと思う。

先ほど読んだレビ記殿23章はイスラエルのカレンダーについて書かれている。最初は毎週の安息日についてである。安息日は自分たちの住んでいるところで集まって神様を礼拝する特別な日として与えられている。何もしないという意味ではなく、集まって神を礼拝するのである。旧約聖書の中にイスラエルの礼拝が細くいろいろ書いてあるのに、安息日に何をするのか、どういう礼拝をするのかは一切何も書かれていない。それはとても興味深いが、当然みことばを読んだり、賛美を歌ったり、祈ったり、ユダヤ人なら一緒に食事をすることになるはずだ。でも何も細かくは書いていない。

レビ記23章にはイスラエルの一年のカレンダーの基本が書いてある。

おもに一年に三回、二十歳以上の男性たちは天幕に行って、そこで特別な礼拝をする。ソロモンの時代の後では神殿に場所が変わる。二十歳以上の男性は行かなければならない。女性は行かなければならないとは書かれていない。子どもが与えられたり大変な時もあるので行かなくてもいいのかもしれない。そして二十歳未満の男性たち、特にティーンエイジャー以上の大きな子たちは二十歳以上の男性たちが留守をしている間に家庭を守る働きがあった。

春には過越の祭りとパン種が入っていないパンの祭りをする。両方で過越の祭りと呼ばれたり、両方でパン種の入っていないパンの祭りと呼ばれることもある。天幕に来て八日間祝う。

夏の祭りはペンテコステの祭りである。簡単に言えば、過越の祭りから五十日後に行われる祭りである。

秋の祭りは収穫の祭りである。収穫の後で天幕に集まって八日間祝う。

この三つの祭りは、イスラエルのカレンダーの非常に大切な祭りである。

この他の大切な日として、贖いの日がある。しかし贖いの日は集まらない。祭司たちだけが行うからである。

これが神様がイスラエルに与えてくださった一年のカレンダーの基本的なところである。

神様がイスラエルを愛して、エジプトから救い出してくださったことを記念することから始まって、神様の御恵みが中心になっている。このカレンダーによってイスラエルは神の御恵みを中心にして一年を過ごす。

カレンダーだけではない。土地も与えられる。どこに住むのかもヨシュアを通して部族ごとに場所が与えられ、部族の中の家族にも相続地が与えられた。住む場所は神様に決定される。レビ人には相続地がない代わりに、各部族から放牧地などが分け与えられた。彼らはその土地を売って48のレビ人の町に移って住むことは許される。しかし、それ以外の部族は家族の土地を他の部族に売ることができない。

服についても律法が与えられた。

食べ物についても律法が与えられた。これは食べて良い、これは食べてはいけないという細かい決まりがレビ記11章と申命記20章にある。

他にきよい物ときよくない物の細かい区別がレビ記11章から15章までのところにある。道徳についての教えは申命記にもあるが、特にレビ記17章から20章までで細かく教えられている。

このようにイスラエルは、住む場所、カレンダー、服、食べる物について全て細かく律法で決められていた。

しかし新約聖書の新しい契約の教えの中には、私たちがどこに住まなければならないかは書かれていない。その代わりに全世界をイエス様の弟子にするという命令が与えられているので、クリスチャンは世界中に行って福音を伝えなければならない。

イスラエルの場合は土地が与えられて、そこに住んで神様のみことばを守ることによって全世界に福音を伝えることになった。なぜならイスラエルは、地理的にメソポタミアとヨーロッパとアフリカの中間に位置し、貿易の要所であり、多くの商人がそこを通ったときにイスラエルから影響を受けていたからだ。イスラエルを通り抜けるのに一週間以上かかる。だから商人たちは安息日に通ったり、他の祭りの日に通ったりするだろう。そして、なぜこのようにするのかと質問するだろう。その時に、ヤハウェが私たちをエジプトから救い出して律法を与えてくださったのでこのようにしていると説明して証しをする機会になる。

新しい契約の人たちは、一つの場所にとどまって外から人々が訪れるのではなく、彼らが全世界に行って福音を伝えるのである。

新しい契約の教会にはカレンダーは与えられていない。それはカレンダーを持ってはいけないという意味なのだろうか。そうではない。カレンダーが与えられていないのは、決まった住む場所がないし、パウロの時代の教会はこれから迫害されて大変な時代になる。その時に決まった場所に住んで一年の何月何日に何をすると細かく決められてもそれを守るのは難しい。教会の中には奴隷もたくさんいて彼らは安息日に休むこともできない。教会が成長するにつれて、いろいろな文化や言葉や土地に住むようになる。だから細かい律法はない。

ガラテヤ人への手紙でパウロは次のように説明する。

【ガラテヤ4:3〜5】同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

イスラエルの律法が細かいのはイスラエルがまだ子どもの状態だったからである。キリストを信じてバプテスマを受けた者はキリストにあって大人になる。子どもには何を着るか何を食べるかを細かく指示するが、大人になってからはそれはしない。親が三十歳の息子に電話をして、これを着なさいとかこれを食べなさいと言わないのと同じである。大人は自分で決めるのである。

新しい契約では日曜日に礼拝していたことはわかるが、それは命令されていたわけではない。日曜日の十時半から礼拝を行いなさいとは書かれていないのである。イスラム教の国で神を礼拝するクリスチャンは金曜日に礼拝したりする。日曜日が休みではないからだ。文化的に日曜日が休みではない国では、日曜日の夜に礼拝したり、他の日に礼拝したりしなければならないことにもなりうる。全世界に行って福音を伝える教会の状態では、細かい律法がない方が主イエス・キリストに仕えることができる。教会が十分に成長して落ち着いて迫害もなくなったら、自分たちでカレンダーを決めることができる。それが大人の状態で、自然にそうすべきである。

一方で、新しい契約のクリスチャンは、古い律法からは何も学ばなくてもよいということはない。神様がこのようにご自分の民を導いてくださったことを見て、私たちは一年のカレンダーを考えて、何を中心にすれば良いのかを考えるべきである。そして神の恵みを中心にするのは良いことであると気づくのである。

パウロが書いたコロサイ人への手紙にも、ガラテヤ人への手紙にも、ローマ人への手紙にも、異邦人のクリスチャンに古い契約の律法を適用しようとする人たちがいた。しかし、それはやってはいけない。異邦人が古い契約の祭り、食べ物、服についての教えに従う必要はないとパウロは手紙の中で教えている。しかし、だからと言って、パウロはすべてのカレンダーが悪い、すべてのカレンダーはもういらないと教えているわけではない。そうではなくて、強制できないのである。

昔の教会はクリスマスを12月25日と決めたが、それはそれで良いし、別の日に決めて祝っても問題ない。昔の教会がそのように決めたので、私たちはそれを守っている。

待降節はクリスマスの四週間前の日曜日から始まる。そしてその日は教会の新年の始まりである。教会の一年は主イエス・キリストがこの世に来て下さることを待つところから始まるのである。明けましておめでとうございます。

主イエス・キリストが来て下さったことを待降節の時に特に覚える。

しかし、聖書の中で神様が常に来て下さっている。

イエス様は弟子たちに、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。(ヨハネ15:16a)」と言う。この原則は、すべての人間について、すべての時代について、すべての状態について言えることである。神様の方が私たちを先に求めてくださった。神様はいつも来てくださって、恵みを先に与えてくださるお方であることを、この待降節の時に覚えたいと思う。一番大きな恵みの一つは、主イエス・キリストが人となってこの世に来てくださったことである。でもイエス様は繰り返し繰り返し先に求めてくださり、先に恵みを与えてくださるお方なのである。

エデンの園で神様はアダムを造ってくださり、アダムに話しかけてくださり、アダムに使命を与え、妻を与えてくださって、エデンの園を与えてくださった。これは全て神様の恵みが先に来て、神様が先にアダムを求めてくださった。聖書のストーリーはそこから始まっている。しかし、アダムとエバが罪を犯したあとで、神様が来たときに二人は隠れてしまった。しかし神様が続けて二人のところに来て、二人を見つけて、話しかけて、恵みを与えてくださった。

カインが罪を犯す前に神様はカインのところに来て警告を与えてくださった。そしてカインが罪を犯した後でまたカインのところに来た。

神様はアブラハムのところに来てくださった。アブラハムを見つけてアブラハムを求めてアブラハムを選んで導いてくださった。繰り返し繰り返し、神様がアブラハムのところに来てくださった。

神様はシナイ山に来て下さった。モーセが燃えている柴を見て、これは何かと思ったら、神様が話しかけてくださった。神様が一方的にモーセを求めて、恵みと祝福を与えて下さった。そのことを出エジプト記のストーリーの初めに見ることができる。

神様がさばきに来てくださることもある。ネブカデネツァルがエルサレムに来て神殿を破壊したのは、じつはヤハウェが来てさばきを行ったのである。神様は契約のさばきを行う。さばきとは祝福を与えるか呪いを与えるかのどちらかである。

主イエス・キリストがこの世に来てくださったのは天の父がキリストを送ってくださったからである。それは特にヨハネ福音書の中に何回も書かれている。御父がキリストを送ってくださり、御子なるキリストが人となって生まれた。イエス様は人としての性質、神としての性質の両方を完全に持ってこの世に来てくださった。この二つの性質は混ざっていない。どちらも100%である。人格は一つ、性質は二つである。これは御子が人となってくださってから永遠に変わらない真理である。私たちが天国に行く時、あるいは主イエス・キリストが再臨する時、この世に生まれた同じイエス様が現れる。イエス様は人間として神としてまた来てくださる。私たちがここに集まっているのも、神様が先に私たちを求めてくださり、導いてくださったからである。

【ヨハネ6:44】わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

ヨハネ21:6でペテロが魚の網を「引き上げる」時と同じギリシャ語のことばが使われている。

御父が私たちの心に先に働いてくださり、私たちの状態に先に働いてくださり、私たちに信仰を与えてくださって求めてくださった。御父がくださった恵みを私たち一人一人にイエス様が与えてくださった。

クリスチャンホームの子どもたちは小さい時から教会に通い、自分のクリスチャンではない時を覚えていないかもしれない。それならクリスチャンホームの子どもたちには神は来てくださらなかったのだろうか。そんなことはない。御父は最初から計画して、その子どもを親に与えてくださった。常に神様が来てくださり、先に働いてくださる、恵みなる神である。待降節の時に、この神様が私たちの神様であることを覚える。

今日も礼拝でニケア信条を告白した。その中でイエス様が歴史の終わりに再臨することを告白している。歴史の終わりにイエス様が来てくださり、全てが主イエス・キリストにあって一つとなる(エペソ1:10)。神様が働いてくださり、イエス様が再臨して、新しいエルサレムが下ってくる。イエス様の再臨の時に私たちは引っ張られてイエス様に会う(1テサ4章)。新しいエルサレムが下って新しい天と地に私たちは住む。イエス様が来て下さる救い主であることは、旧約聖書の中で繰り返し見ることができるし、イエス様の誕生において見ることができるし、歴史の終わりに見ることができる。しかし私たち一人一人の人生の中にも繰り返し繰り返し神様が来てくださる。繰り返し私たちの心の中に来て特別な働きをする。

来てくださる神様のことを待降節の時に特別に覚えるが、じつは一年中どんな時でも神様は来てくださる恵み深いお方であることを覚えるべきである。

毎週日曜日に私たちは聖餐を受ける。その時に御霊の特別な働きがある。パンやぶどう酒に魔法がかかっているわけではない。みたまの働きがある。パンと杯を神様が用いて契約の祝福を私たちに与えてくださる。つまり私たちが聖餐をいただく時に神様は来て働いて恵みと祝福を与えてくださるのである。

待降節の広い意味はそれを全部含む。狭い特別な意味は、御子なる主イエス・キリストがこの世に生まれて、私たちのために十字架上で死んで下さって、よみがえって私たちに御霊を送ってくださったことである。そのことを覚えて、聖餐を受けたいと思う。




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