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「弟子たちの足を洗うイエス様」ヨハネ13:1~14

  • 2025年11月2日
  • 読了時間: 12分

説経者:ラルフ・スミス牧師


ヨハネ13:1~14

さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」

イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。

イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。


これまで、申命記とイエス様の関係について学んできた。申命記の中でレビ人と祭司、王と預言者のところを見て、それがイエス様とどのような関係があるのかを一緒に考えた。申命記は紀元前1500年頃に書かれて、そのだいたい1500年後に成就されるイエス様についてモーセが預言している。

マタイはAD30年頃に書かれた。マルコはAD40年頃に書かれた。ルカはAD50年頃に書かれた。ヨハネはAD60年頃に書かれた。マタイ、マルコ、ルカは非常に似ていて、ある箇所を読むときに、それがマタイなのかマルコなのかルカなのか分からなくなってしまうほどである。この三福音書はそれほどすごく似ているのだが、ヨハネの福音書は全然違うということに気付く。ヨハネの福音書はAD60年頃に書かれた。ヨハネはマタイ、マルコ、ルカの福音書を読んでよく知っているので、それに付け加えたいところがあったり、少し違う観点から書いたりしてヨハネは自分の福音書を書く。

マタイ、マルコ、ルカの三福音書はイエス様のガリラヤの働きを中心に話している。ヨハネの福音書はイエス様のエルサレムの働きのことを中心にしている。だからイエス様が祭りに行ったことや、その時に奇跡を行ったことについて書いてある。三福音書だけではイエス様の働きが何年だったかはわからない。ヨハネの福音書によってだいたいイエス様がいつどの祭に参加したかがわかり、それによってイエス様の働きが三年と少しだったということが分かるのである。


今日はヨハネ13章を一緒に見てみたいと思う。ヨハネ福音書全体は申命記を指している箇所が多いと思うが、13章から終わりまでは特に申命記を指している箇所になる。


⚫️さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。(ヨハネ13:1)

「イエスは、彼らを最後まで愛された。」これと同じことがモーセについても言える。申命記はモーセが死ぬ前の最後の言葉である。この言葉を語って御父のもとにいく。モーセは申命記の34章で、自分が愛していたイスラエルの民に最後の言葉を語っている。その言葉はイスラエルに長く深く語る愛の言葉なのである。

じつはモーセは創世記のヤコブを模範としている。モーセほど長くないが、ヤコブも死ぬ直前に息子たちを集めて最後の言葉を語った。

ヨシュアも死ぬ前にイスラエルを集めて最後の言葉を語った。

ダビデも、自分が死ななければならないということが分かったときに、ソロモンや他の人たちを集めて最後の言葉を語った。

イエス様の時代になると、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデの模範があり、イエス様は死ぬ前にモーセの真似をして最後の言葉を語っているというのがユダヤ人の習慣のようになっている。もちろん、ヨシュアやダビデも模範である。イエス様がご自分の民を愛されて最後の言葉を語ったと書いてあるのは、申命記でモーセが天に召される前にイスラエルの民に最後の言葉を語ったことをヨハネが指しているのではないかと思う。


イエス様は「彼らを最後まで愛された」と書いてあるが、最後というのは十字架の話だろうか。もちろん十字架も含まれるが、イエス様はこの13章から17章の中で復活のことも話すので、復活のことも含まれる。

しかし弟子たちはこの段階ではまだそのことはわかっていなかった。イエス様が死んで三日後によみがえった時に初めて弟子たちに復活のことが分かった。しかしイエス様はわかっていた。イエス様が御父の元に戻るというのは、ただご自分が死ななければならないということだけではなくて、ご自分が十字架上で死んで三日後によみがえって御父のところに戻るということである。

イエス様が復活して何をしたかというと、四十日間繰り返し教えを語った。最後まで弟子たちを愛されたから、心からの教えを弟子たちに与えてくださった。


復活した後も、イエス様の愛は続いている。ヨハネの福音書の13章から17章までを見ると、イエス様が御霊を与えてくださることはこの時には弟子たちには分からなかったが、御霊を与えてくださるペンテコステも、イエス様が最後まで弟子たちを愛してくださったことに含まれる。

つまり、イエス様は十字架上で死んで三日後によみがえり、四十日間弟子たちの前に現れて教えてくださり。ペンテコステの日に御霊を与えてくださった。それもすべてイエス様が彼らを最後まで愛してくださったことに含まれる。


しかしイエス様の愛はそれだけで終わらない。イエス様はヨハネ14章でこのように言う。

【ヨハネ14:2~3】わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

イエス様は、あなたたちのために天に場所を備えに行きます、と言われた。つまり、最後まで愛してくださるとは、弟子たちが死んだ後も永遠に最後の最後まで愛してくださるということなのである。

ヨハネ17章はとりなしの祈りで、イエス様の一番長い祈りである。パウロはローマ書8章で、イエス様が今も私たちのためにとりなしていてくださると言う。

【ローマ8:34】だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

イエス様は私たちを愛してとりなしてくださっている。

イエス様は、モーセのように、愛している者たちに最後の言葉、教えを与えてくださる。その最後の教えは最後の最後まで指している。


⚫️夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。(ヨハネ13:2~3)

イエス様は、ユダに裏切られること、天の父がご自分にすべてを委ねてくださったこと、そして御父のところに戻らなければならないことを考えて、弟子たちに話しているのである。


⚫️イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」(13:4,8~9)

この洗い始めのところで、ペテロは日本語の翻訳よりも強い言い方をしている。日本語の翻訳では「決して私の足を洗わないでください」となっているが、原語ではペテロは「私の足を洗うな。」と強くイエス様にそれを禁じているような言い方である。

イエス様が、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」と言ったら、ペテロが恐れて、「足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と答える。

非常に微笑ましいような場面だが、イエス様が弟子たちの足を洗うことを、ペテロがそこまで強く禁じるのは、ユダヤ人の中では足を洗うのが奴隷の仕事だったからである。当時の履物はサンダルのようなものなので歩くと足が汚れる。それで奴隷に足を洗ってもらって家に入る。奴隷といってもユダヤ人の奴隷ではなく、異邦人の奴隷の仕事である。異邦人の奴隷がいなければ女性か子どもの仕事になる。lだからユダヤ人の大人の男性が他のユダヤ人の男性の足を洗うことは考えられないことだったのだ。他の弟子たちもペテロと同じ思いだったので、ペテロはみんなの思いを代弁して言ったと思う。


⚫️イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(13:7)

「後で」というのは、イエス様が復活して御霊が与えられた後で、ということである。その時には弟子たちにも「なるほど」とわかるようになる。今の段階では弟子たちには分からない。イエス様が足を洗っている時に、みんな驚いてショックを受けている。それでペテロはイエス様に「私の足を洗うな」というような、強い強調した反応をしたのである。

イエス様が取税人ザアカイの家にいって一緒に食事をするが(ルカ19:1~10)、弟子たちにはそれがなぜかわからなかった。


⚫️イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)

イエス様の答えは、「からだ全体を洗ったものは足だけ洗えばよい」というものだった。この足を洗う象徴は何の意味なのかというと、からだ全体がきよいなら足だけ洗えばよいということだ。

【第一ヨハネ1:7~9】もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分に罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

私たちがイエス様を信じたら、罪が赦されてきよめられるが、、毎日の生活の中で続けて私たちは罪を犯してしまうし、続けて罪の赦しを求めなければならない。日曜日の礼拝はその罪の告白と赦しから始まる。聖餐式でもそのことを表すし、歌の中でも罪の赦しを続けて求めていく。私たちは続けて罪を犯してしまうからである。

イエス様を信じて罪を赦されたというのは、からだ全体がきよめられたということである。しかし続けて罪を犯してしまうので、足だけを洗うという象徴を通して日々の罪を赦していただくのである。


⚫️イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(13:12~14)

イエス様がその象徴的な行為を行って、続けて罪を告白して、続けて罪の赦しを求めなければならないことを弟子たちに教えてくださった。そしてそれだけではなくて、イエス様は模範を示してくださった。その模範とは、だれもやらない、一番レベルの低い仕事をやってくれたということである。弟子たちはその模範に倣ってお互いに仕え合わなければならない。イエス様は十字架上で私たちの罪を背負って、私たちが受けるべきさばきを代わりに受けてくださった。それ以上に低くなることはありえない。

足を洗うことは、十字架の血によって洗いきよめられることも含まれるが、実際に必要な仕事である。それでイエス様は模範を示して、「私がやったようにあなたたちもやりなさい」と言う。

ある教会では、これが儀式になっている。一年に一回特別な礼拝を行って、お互いの足を洗っている。しかしイエス様はそのことを意図しているのではない。実際に足を洗う仕事だけではなくて、恥ずかしい仕事、みんなやりたくない仕事、例えばお手洗いの掃除とか、他の色々な掃除の仕事などを喜んで行うことである。へりくだった心を持って、イエス様の模範に従って行うことである。

【第一テモテ5:10】良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助けるなど、すべての良いわざに励んだ人にしなさい。

やもめとして教会の名簿に載せる人を選ぶためのリストの中に、「聖徒たちの足を洗う」とある。へりくだった心を持って喜んで主に仕える心を持っているやもめについてパウロは話しているが、教会の中の働きも、家庭の中の働きも、へりくだった心を持って喜んで主に仕える心を持って、お互いを愛し合って、神様に仕えるようにイエス様が私たちに模範を示してくださった。

新約聖書の中でヘりくだった心をもって行う模範は十字架である。

パウロはピリピ人への手紙の中で、キリストのような思いを持ってお互いを愛し合うように励ましている。

【ピリピ2:5】キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

イエス様が十字架の死までも私たちを愛して、恥を受けて、私たちの罪を背負ってくださった。その十字架の心が私たちの模範であるとパウロは教えている。

私たちは、毎週聖餐式の最後の祈りで、自分を神様にささげる祈りをする。イエス様がこの世に遣わされて、神様に仕えて、私たちにも仕えて、十字架で死んでよみがえられたように、私たちはお互いに仕え合い、イエス様の模範を覚えて生活を送るように、自分を神様にささげる祈りをする。



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