「復活と永遠のいのちの希望」ルカの福音書20:27~38
- 2025年11月16日
- 読了時間: 13分
説教者:ベンゼデク・スミス牧師
ルカの福音書20:27~38
復活があることを否定しているサドカイ人たちが何人か、イエスのところに来て質問した。
「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻を迎えて死に、子がいなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎え、子がないままで死にました。次男も、三男もその兄嫁を妻とし、七人とも同じように、子を残さずに死にました。最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、
次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」
今日はとても有名な箇所の一つから説教します。二千年前も今も復活を疑う人たちはいます。当時のパリサイ人や良いユダヤ人たちは最後の日に人間はみんなよみがえると信じていました。ラザロの姉妹マルタはイエスにこのように言います。
【ヨハネ11:24】マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
しかしサドカイ人は違いました。彼らは復活があることを否定する唯物論者でした。この世の中には物しかない、と考えていたのです。
そのせいで、彼らはパリサイ人とよくぶつかっていました。これは、使徒の働き23章にも出てきます。
【使徒の働き23:6~8】パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人の間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。
サドカイ人は、目に見えるもの、手に触れるものだけが全てだ、という立場だったのです。
じつは今でも信仰がある人たちの中で、昔の人たちは本当に復活があると信じていたのだろうかと疑う人たちがいます。つまり、アダムやダビデは復活を信じていたのか、知っていたのか、それを疑う人たちはいます。
【詩篇115:17】死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者たちも。
このような箇所を指して、昔は復活がないと思っていた人たちがいた、と言う人たちがいます。しかし最初から、復活の希望はあらゆるところから感じ取ることができます。外典(旧約聖書に入らなかった書物のこと)にも出てきます。大洪水の前から、つまり、アダムの時代、エノクの時代から、復活を信じ、待ち望んでいた人たちはいたはずだと思います。今はもう失くした書物に書いてあったかもしれないし、口で伝わる伝統にもあったと思います。
今日朗読したテサロニケにもその話が出てきます。
【第二テサロニケ2:15】ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ、手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。
このように聖書に残されていないものを通しても、きっとこの復活の希望は伝わっていたと思います。なぜなら、表には出ていなくても、旧約聖書でも、はっきりと教えている箇所があるからです。
一番はっきりしているのはダニエル12章かもしれません。
【ダニエル12:2~3】ちりの大地の中に眠っている者たちのうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、あるものは恥辱と永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。
このようにはっきりと、人間には復活があって、またその向こうに永遠のいのちがあるとダニエルは言います。
ではなぜサドカイ人はこのような教えを無視して、復活がないと主張し続けるのでしょうか。
一つ覚えておきたいことがあります。彼らはイスラエルを支配しているエリートで、富や権力もありました。その富と権力は、ギリシャ人やローマ人と協力することによって得たものです。ですから、彼らにとって、この人生の富がすべてでした。だから彼らはこのあとは祝福も呪いもさばきもないと思いたいのです。この世の祝福は、神に正しく従っている証拠だと思いたかったのです。
だから彼らはモーセの五書以外を聖書として認めていません。モーセの五書だけにみことばの権威がある、と主張していたのです。ヨブ記もダニエル書も外典もすべて否定するのです。
だからイエスはわざわざモーセの五書から復活の証拠を出します。
【ルカ20:37~38】モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。
アブラハム、イサク、ヤコブが復活したというのではなく、からだが消えてもたましいが続けて神の御前に生きて復活を待っていると言います。だから私たちも永遠のいのちを期待して復活を待つことができるのです。
サドカイ人は「さあ、このなぞを解いてください。復活があると主張するなら、これはどうなんですか。」とイエスを攻撃します。イエスは彼らの攻撃に、いとも簡単に答えて、さらに彼らに反撃して彼らの痛いところを突きます。
彼らが何百年も議論し続けているなぞに、イエスは簡単に答えることができました。私たちがそれを見た時にへりくだる必要があります。私たちにとって、今も色々ななぞがあります。しかしどれも神様にとってはなぞではありません。神様には答えがあります。そして神様がそれを示す時に、簡単に納得できることがたくさんあります。だから私たちは今もこのパターンがあることを覚えて、神を信じる必要があります。
今日はこの箇所について、二つの簡単なポイントを話したいと思います。一つは復活について。もう一つは結婚についてです。
⚫️復活について
イエスはからだの復活があると宣言します。これは私たちにとっての福音、良い知らせです。復活があるなら、この人生は待つ時代、信仰の時代なのです。この人生を通して忍耐して、これから来るもののための訓練を受けていきます。私たちが希望をもって待っているのは、完全なる正義、真理、愛なのです。キリストにあってお互いに完全に一つとなること、そして私たちの交わりとは、御父なる神と御子イエス・キリストとの交わりです。
もしこの地上の人生が全てで、未来にさばきがないのであれば、そして今この世に不正があるなら、この世にいるうちに復讐を求めなければなりません。それで私たちは怒ったり、暴力的になったりします。
これから完全な喜びが来ないなら、私たちは今この世で喜びを感じなければなりません。今この世で満たされなければなりません。私たちは待てないし、欲に満ちた者となってしまいます。
もし未来に体の復活がないのであれば、この人生はただ、ゆっくり死んでいく過程にすぎません。このからだにも、永遠の意味や大切さはなく、ただ消えていくものなので、永遠に意味深いものとは言えないのです。
しかし、イエスがここで約束するように、そして私たちが毎週告白しているように、からだの復活があるのなら、私たちは忍耐して主を待つことができます。
ヨブでさえ待つことができました。ヨブは自分の財産をすべて失い、息子たち、娘たちも失って、大変な病気と痛みで苦しみ、さらに彼の偽善的な友だちが彼を攻撃しました。そんな中でも、彼はどうして諦めなかったのでしょうか。どうして神をのろわなかったのでしょうか。どうして待つことができたのでしょうか。
ヨブが待つことができたのは彼が神を知っていたからです。
【ヨブ19:25~26】私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。
ヨブは、自分のからだが滅ぼされても、また復活することを信じていました。
私たちが復活するならすべてが変わります。復活するならからだには永遠の意味があるので大切にしなければなりません。みだらな行いをして自分のからだに罪を犯してはいけません。むしろほかの人のからだに仕える必要があります。ヤコブの手紙で私たちは教えられています。
【ヤコブ2:15~16】兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい。」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
私たちがだれか愛する時に、からだを愛さないでその人を愛することはできません。その人を愛するなら、その人のからだを愛する必要もあるのです。
そして私たちはこのからだで神を礼拝しなければなりません。このからだは神様がデザインしたもので、このからだによって神を礼拝することができるためなのです。
⚫️結婚について
イエスは、この世での結婚は一時的なものであると教えます。結婚は死が二人を分かつまでです。これは、結婚している人にもしていない人にも福音です。私たちみんなにとって良い知らせです。
結婚していない人にとっても神様の最高の祝福を受けていないわけではないからです。この人生で一度も結婚しなくても、何も損はしません。その代わり、独身者として忍耐して忠実に正しく生きることによって、神の約束は真実であることを証しすることができます。自分たちは子羊との結婚に希望を置くべきだということを、自分の人生を通して証しすることができるのです。
そして、結婚している人たちにとっても、この世の結婚は一時的だということは福音です。たとえ幸せな結婚であっても、不幸な結婚であっても、いずれ終わるからです。時々結婚式で聞く「永遠の愛」といった言葉や、「これで永遠の愛が始まる」という言葉にはロマンチックな響きがあるかもしれませんが、どんなに幸せな結婚でも、それ以上のものがあると知っているはずです。もしこの二人の人間の結婚が永遠で、これが全てであるなら、結婚は物足りないものになってしまいます。
それで、夫と妻が死で別れることは必要なことですし、良いことです。なぜかというと、この結婚は永遠の結婚を指し示す影だからです。だから、次の世でも結婚していたいという思いを持っているなら、それをなくしてください。もっと良いものが待っているからです。
私たちは今ある良さを手放したくないと思って、これから来る良さを求めない傾向があります。若さを失いたくない、年を取りたくない、死にたくない。それで年を取る祝福を求めないのです。いつまでもこの人生にしがみつく人もいます。これから来る真の幸せに目を留めないのです。
確かに、この世の家族、家庭、その愛は素晴らしいものです。しかし、永遠にある罪のない大家族は、はるかに良いものなのです。
確かに、この地上の結婚も素晴らしいのですが、教会にあって、イエス・キリストと結婚している状態のほうが、はるかに良いものです。
そういう意味で、私たちはサドカイ人ではありません。あるいは統一教会とか、幸福の科学でもありません。何を言おうとしているかというと、私たちはこの人生の幸福を求めません。統一教会は必ずこの世で結婚できると約束していますが、キリスト教ではそれはありません。この人生、この家族、この世の結婚は、目的でもなければ、ゴールでもありません。そう思い込むなら、「自分の結婚を通して、自分は幸せにならなければならない、これ以上のものはないはずだ」と思っている限り、自分の結婚はその期待の重さに耐えることができません。必ずがっかりします。
自分が幸せだと思い込んで自分をだますか、あるいは自分の期待を小さくして神以下のものを求めなければならないのです。確かに多くの人はそれをします。今あるもので十分だと思い込もうとします。それは確かに良い意味でもありますが、今で十分というよりこれ以上のものは永遠に必要ないと思ってしまうことが問題です。特に日本人はその傾向が強いと思います。欲が少ないのは良いことですが、イエスに対する欲はもつべきです。イエスがどれほど素晴らしいお方であるかを知れば、イエスを慕い求めるはずなのです。
パウロはピリピ人への手紙でこのように言いました。
【ピリピ1:23~24】私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうがはるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
私たちは、この世に生きている限り、この世で生き続けることで満足する必要があります。この地で神と人に仕える必要があります。しかし、同時に、これ以上のものを期待しながら、その希望を持って生きる必要もあります。つまりいつまでもこの人生を手放すことができないことがないように、ということです。実際に天国に行ったら、私たちは「地上に戻りたい」という思いを決して持たないでしょう。
天国にはもう結婚はありません。天使のようになります。それは私たちが結婚を失ったのではなくて、この世の結婚が成就されて、より良いものが与えられるということです。
しかし、だからといって、この世の人生は大切ではないと思わないでください。このからだが死ぬから意味がないと思ってはいけません。同様にこの世の結婚もいつか終わるから大切ではないと思わないでください。永遠のもの、キリストとの結婚を指すものだから、そのように成就されるものだから、この世でも深い意味があるのです。素晴らしいものの影であるからこそ意味があるのです。
しかし影にばかり目を留めて、結婚しなければ幸せになれないとか、この結婚をどうにかしなければいけない、というようにこの世のものにこだわってはいけません。それは宝くじに当たっても、いつまでも換金しないでくじを手放さないようなものです。私たちがイエスの良さと恵み、愛と理解の深さ、自己犠牲、知恵と赦し、そのようなものを味わったことがあるなら、私たちは「主よ、早く来てください」と祈るはずです。それによって天と地の創造の意味が成就されます。
もし自分が不完全な結婚の中にいるならば、これを死ぬ日まで頑張って、その結婚の中にとどまり続ける意味はどこにあるのでしょうか。それは、神の忠実さを表すことにあります。それによって神様は自分を訓練し、完全な結婚にふさわしい者となるために成長させてくださっているのです。そして、このような結婚が終わるからこそ、私たちは死ぬ日まで頑張り続けることができるのです。最後まで忠実であるならば、必ずより素晴らしいものが与えられます。
では、結婚できない人は、何か損をしているのでしょうか。何も欠けていません。この人生においても、次の人生においても。このことによって神様は、その人に結婚に対する飢え渇きを与えています。だから、花婿を待っている処女として、自分を準備させます。このように、この世の結婚が終わりのある一時的なものであることは、私たちにとって福音なのです。なぜなら、イエス・キリスト自身が私たちの永遠の花婿だからです。
イエスが十字架で死なれたのは、私たちをきよめて、その結婚を可能にするためだったのです。そしてまた、毎週イエスが私たちをご自分の家に招いているのも、私たちをご自分との結婚のために準備させるためなのです。この人生はすべて、そこに向かっています。その結婚に向かっているものなのです。
だから、私たちはこれから聖餐式を受けます。聖餐式は、神の子羊の婚礼の前味です。そして、これを通して、私たちの花婿であるイエス・キリストとの一つとなること、それを味わうことができます。
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