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「心を一つにして私の喜びを満たしてください。」ピリピ1:27~2:4

説教者:ラルフ・スミス牧師



ピリピ1:27~2:4

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

今日の箇所から二つのことを一緒に考えたいと思う。

一つは、この箇所はピリピの教会にとってどんな意味があるのか。パウロはなぜこのことをピリピの教会に書いたのか。

そしてもう一つは、この箇所は私たちの教会にとってどういう意味があるのか。私たちにとってなぜ大切なのか。



●ピリピの教会にとっての意味

ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、(ピリピ2:1)

この箇所の文字通りの訳を見たいと思う。ピリピ2:1を新契約聖書から読んでみる。

「是の故(このゆえ)にもしキリストに在る多少の奬(すすめ)、もし愛の多少の慰(なぐさめ)、もし霊の多少の親しき交(まじわり)、もし多少の憫(あわれみ)と慈悲と〔あらば〕、」となっている。

「もし」が四回繰り返され、毎回「多少」ということばが使われる。私たちの使っている新改訳2017はこのように訳されてはいないので、新契約聖書を読むとしつこく感じるかもしれないが、「もし」と「多少」を繰り返すことはパウロの強調である。「多少」といっても少ないことを強調するためではなく、多くあるというニュアンスが含まれていると思う。

キリストにある励ましと、愛の慰めと、御霊の交わりと、愛情とあわれみがピリピの教会にあるなら、思いを一つにして私の喜びを満たしてください、とパウロは言う。これはパウロとピリピの教会の関係について話している。ピリピの教会はこれまでパウロから励ましを受けたり慰めを受けたりして、御霊による愛の交わりを豊かにもっていた。だからパウロは最後まで私の喜びを満たしてくださいと言っている。

注解書の中には、ピリピの教会に深い問題があったので、パウロはここまで強調して、喜びを満たしてくださいと言うのだと教えるものがある。そのような注解書は、ピリピの教会がばらばらなので、パウロは肉的な思いや虚栄ではなく心を合わせて思いを一つにしなさいと言わなければならなかったと解釈している。

しかしこのような解釈は間違っていると思う。

パウロがこのような言い方をしたからといって、ピリピの教会がばらばらなのではない。ピリピ人への手紙を最初から最後まで読めばそのような印象は受けないはずだ。

【ピリピ1:5】あなたがた(ピリピの教会)が最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

パウロはこの手紙の1章の初めからこのように言って、ピリピの教会に感謝している。

パウロがテサロニケにいた時でも、ピリピの教会は2回以上献金してパウロの働きを支えた。ピリピの教会は最初から交わりをもって福音のためにパウロと一緒に戦っている教会だった。だからパウロはこの教会に大きな問題があることを前提にしてこの手紙を書いているのではない。

【ピリピ4:1】ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。

このように呼びかける言葉は深い問題がある教会に対するものではない。パウロが深い問題がある教会に手紙を書くと、コリント人への第一の手紙やガラテヤ人への手紙のようなものになる。



ピリピの教会に深い問題がないなら、なぜパウロは2:1のようなことを書くのだろうか。

イエス様から恵みとして与えられているのは、信じることだけではなく、苦しむことでもある、とパウロは説明する。

【ピリピ1:29】あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

この人たちがキリストのために苦しむことを、パウロはイエス様のオリーブ山の説教によって知っている。教会は苦しみにあい、悪い預言者たちが現れ、人々が惑わされ、たくさんの人たちが苦しめられて殺される。そしてクリスチャンはすべての国々に憎まれる。それがイエス様の預言だった。

【マタイ24:34】まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。

イエス様はAD30年にこの預言をした。パウロがピリピ人への手紙を書いたのはAD62頃である。オリーブ山でのイエス様の預言から32年ほど経って、この世代が終わるまでにイエス様の預言は成就される。だからそのときは近い。

【ヨハネ第一2:18】幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。

日本語では強調がピンと来ないかもしれないが、英語では「the last hour」 つまり、あと一時間しかないということになる。イエス様のさばきはそこまで近いということである。すぐにくる。このようなことをパウロはいろいろな手紙の中で言う。

AD64年、つまりパウロがピリピ人への手紙を書いてから2年たって、ローマ帝国の皇帝ネロが教会を迫害し始めた。それから7年間ずっと教会は苦しめられてたくさんのクリスチャンが殺されたりした。神の恵みは苦しむことでもあるとはこのことである。イエス様の預言通りに教会は迫害にあった。

ピリピの教会の苦しみは神様から賜物として与えられた試練である。イエス様のために苦しむことは特権である。必ず外から苦しみが来る。それでイエス様がその苦しみにあうことができるようにパウロは励ましている。

マタイの福音書の中に五つの説教がある。

山上の説教(5章)

弟子たちを送り出す説教(10章)

たとえ話の説教(13章)

教会に対する説教(18章)

オリーブ山の説教(23~25章)



オリーブ山の説教以外の四つの説教はほかの福音書には出て来ないが、オリーブ山の説教はマルコの福音書13章とルカの福音書21章にも長い説教として載っている。

マタイ、マルコ、ルカはオリーブ山の説教を強調している。ピリピ人への手紙を受けた教会はオリーブ山の説教をよく知っているし、当時のほかの教会もみんなそれをよく知っている。本当はパウロたちの時代に一番人気のある福音書はマタイだった。マタイの福音書に出て来るイエス様の警告のことばをみんな知っているという前提で、ピリピ人への手紙を読まなければならないと思う。

【マタイ24:10~12】そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。

外から苦しく激しい反対が来ると、教会の中でお互いへの愛が冷たくなる危険性がある。イエス様はそのことを預言している。パウロはピリピの教会がお互いを愛し合って一致を保つことができるように励まして、これから来る激しい反対に備えさせようとしている。

パウロは、ピリピの教会に問題があるからこの手紙を書いたのではなく、試練のときに愛が冷たくならないために書いていたのである。この手紙がキリストにあって励ましとなるのは、パウロとピリピの教会が互いに励まし合って、主イエス・キリストに仕えて互いに慰め合っていたからである。



パウロはピリピの教会に「愛し慕う兄弟たち(4:1)」と呼びかけて、互いに励まし合っている。



御霊の交わりは福音の交わりであると1章で話している。パウロとピリピの教会は御霊にある交わりを経験している。

【ピリピ1:27b~28a】あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。

愛情とあわれみはパウロとピリピの教会が互いに経験していることである。



あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。(1:2)

パウロがここで言う「思い」とは単なる考えではなく、決心が含まれる。目的と訳す版もある。一つの目的をもって、その一つの目的を一緒に求めるようにパウロは励ましている。1章の福音にふさわしく歩みなさい、という話に合わせて、福音のために生きるという同じ心をもって戦い、その目的を一緒に求めなさいと話している。そうすれば反対されてもお互いに対する愛を失うことがない。一緒に立って肯定的な目的を持っているのであれば、どんな反対にあっても続けて戦って、一つの心をもって歩むことができるようになる。



何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

すぐれた者という翻訳は誤解を招く。相手が自分よりすぐれているかどうかは全く関係ない。自分より大切だと思いなさいというのが本来の意味である。この思いを持っているのはイエス様である。だからイエス様が自分と相手を比べて、相手の方がすぐれているというのはあり得ないのである。しかし、イエス様は私たちを自分より大切にしてくださって、十字架上で私たちの罪のために死んでくださった。これがイエス様の思いである。



それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

自分のことばかりではなくて、ほかの人のことも考える。互いに相手を自分より大切だと思いなさいと繰り返し言われているような感じである。ここでパウロはじつは当時のローマ帝国の文化のことを考えている。特にピリピの町の人々はローマ帝国の国籍を持っていて、自分たちが優れていると思っていたので、何よりも名誉、尊敬が大事だった。ローマ人は自分の栄光を求めていて、名誉以上に大切なものはなかった。パウロはそれを虚栄と言う。

利己的な思いと聞いてもローマ帝国の皇帝を思わないかもしれないが、パウロの時代の皇帝はとんでもなく利己主義で、虚栄心を持っていて、皇帝クラウディウスは神々のような服を着て町を歩いて、まるで自分が神であるかのようにふるまっていた。

へりくだった心はクリスチャンではないローマ人に見下されていた。プライドがあって大胆なローマ人は、へりくだった心はいやだった。それは奴隷のような心だという考え方だった。

しかし、この世と調子を合わせずに、周りの社会とは違うへりくだった心をもって、相手を自分より大切だと思ってくださったのはイエス様なのである。

だからパウロはピリピ人への手紙で、これから試練にあう教会に励ましを与えて、外の敵をどう迎えるべきか、教会の中をどのように保つべきかを教えて、試練に対する備えをさせてくださっている。



●私たちの教会に対する意味

私たちはそのような試練にすぐにあうかどうかはわからないが、試練にあうにしてもあわないにしても、このメッセージは変わらない。自分の栄光や誉れや利己的な思いをもって行動するのではなくて、へりくだって、他の人は自分よりも大切だと思いなさい。試練にあうにしてもあわないにしても、この戦いはだれにでもある。利己的にならず、神の御国を心一つにして求めるように私たちにもピリピ人への手紙が与えられている。この日本は福音が十分に広まっていない。そのような中で私たちは一致をもって、お互いを愛し合って、心を一つにして福音を伝える目的をもって歩むなら、私たちも用いられる。ほかの日本の教会も用いられて、福音がこの国で広まることを望むことができる。

毎週の聖餐式のあとで、自分を神にささげる祈りを祈っている。私たちはへりくだった心でイエス様に従い、御国を第一に求める心を毎週約束して、自分を生きているいけにえとして神様にささげる。





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