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「イエス様に従って御国を求める」ピリピ2:12〜13

ラルフ・スミス牧師


ピリピ2:12〜13

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

この箇所を、二つの大切な観点を通して考えたいと思う。

1、適用。

今日の箇所はパウロの教えを適用している箇所である。

2、引喩(いんゆ)

通常は「隠喩」がよく使われる。

隠喩は「〜のようだ」を使わずに他のもので直接表現する方法で、イエス様が「わたしは良い牧者です。(ヨハネ10:11)」と言うときは「良い牧者」が隠喩である。

引喩は、文学作品などにそれとなく言及して新しい文脈に融合させ、表現の内容を豊かにする方法である。「初めにことばがあった。(ヨハネ1:1)」は「はじめに神が天と地を創造した。(創世記1:1)」の引喩である。創世記1:1はみんなよく知っているみことばで、旧約聖書にも新約聖書にも創造の話はたくさん出て来る。もしそのまま創世記1:1が出てきたら、それはまったくそのまま引用していることになる。

しかしヨハネ1:1は、「初めに」ということばで創世記1:1を思い出すようにリンクを作っている。それによって創世記1:1だけではなく、創造のストーリー全体を思い出して、みことばであるイエス様のことを考えるようにヨハネは教えている。



今日の箇所の中に三つの大切なキーワード(引喩のようなもの)がある。

私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら(2:12a)

このようなみことばを前に聞いたことがあることに気づいた人は多いだろう。

ピリピ1:27~2:18までは一つの段落である。パウロはここで1:27とこの2:12の適用の箇所を一緒に考えてほしいと繰り返し言っている。

【ピリピ1:27】ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。

この箇所を原語から翻訳すると「ただ一つ。神の御国の国籍を持つ者として福音にふさわしく生活しなさい」となる。

ピリピ1:27はこの段落のポイントで、ピリピ人への手紙の中心的なみことばである。そしてこのあとは全部、福音にふさわしく歩むとは何なのか、神の御国の国籍を持つ者としてそれを考えなければならないと教えている。パウロは全体のつながりを思い出して12節を考えなさいと言っていると思う。



恐れおののいて(2:12c)

あまり目立たない引喩で、そんなに聖書の中に出て来ないが、非常に大切なところに出て来る。それは詩篇2篇である。パウロはその箇所をここではっきり指している。決してこじつけで解釈しているのではなく、間違いなくパウロが引喩していると言える。詩篇2篇にも「恐れおののく」ということばが出て来る。

パウロはピリピ2:5~11でイエス様が受肉した御子であることと、受肉した御子であるイエス様が私たちの罪のために十字架の道を歩んだことを話した。イエス様は御父に完全に従ったので、御父はイエス様を高く上げてすべての名にまさる名を与えてくださった。だからすべてのものが膝をかがめて主イエス・キリストは主であると告白する日が来ると言う。

詩篇2篇はそれと同じことを話している。例えば私が皆さんに詩篇2篇を覚えていますか、と聞くとすぐにわかる人とわからない人がいると思うが、有名なメシアについての詩篇と気づく人もいるかもしれない。福音書、使徒の働き、パウロの手紙、黙示録にもたくさん詩篇2篇が出て来る。つまりパウロの時代のピリピの教会は詩篇2篇を非常によく知っていた。他の詩篇よりもよく知っていたかもしれない。私たちより詩篇をたくさん歌っていただろうし、詩篇を聞いていたかもしれない。自分で聖書を持つことはない時代だったのだが、聞いて覚えてしまったかもしれない。



【詩篇2:1〜3】なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企むのか。なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。と主に油注がれた者に対して。「さあ彼らのかせを打ち砕き彼らの綱を解き捨てよう。」

・主はヤハウェで、油注がれた者はメシア。国々は神様から離れて自由になろうと騒いで計画するところからこの詩篇が始まる。バベルの塔の時代、パロの時代、旧約聖書のいろいろな時代とおんじである。サタンと悪霊たちの心がが神を信じない国民(くにたみ)において表れていると言えるが、主イエス・キリストに対してそれが特に激しかった。

イエス様の時代のユダヤ人は、神様に油注がれたイエス様が現れると、愛して受け入れるのではなく、激しく憎んで十字架につけろと叫んだ。神ご自身と油注がれた者に逆らってその支配を捨てようとした。これが神を信じない者の思いである。

・使徒の働きの中で神に逆らったユダヤ人が油注がれたイエス様の弟子たちを同じように激しく迫害して殺したりした。

ピリピ人への手紙が書かれた2年後のAD64年にイエス様がオリーブ山で預言した迫害がはっきりと始まった。ピリピの教会の人々はオリーブ山の説教をよく覚えていて、迫害は近いとわかっている。ローマ帝国の皇帝ネロは、油注がれたイエス様の教会を心から憎んで神とイエス様の支配を捨てて、教会と弟子たちを殺して完全に取り消そうとした。

・AD64年からは、ユダヤ人もローマ帝国と一緒になって神に逆らい、神とイエス様の支配を捨てようと思った。

ローマ帝国にはたくさんの国々が含まれている。その国民(くにたみ)の中に、皮肉なことにイスラエルも含まれていた。

その詩篇2篇を黙示録の中でよく指していたので、当時のクリスチャンはこの詩篇をよく知っていた。



【詩篇2:4〜6】天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。そのとき主は 怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って 彼らを恐れおののかせる。「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」

イエス様を王にしてくださったのは神様の答えである。人々がどんなに陰謀を企んでも、「わたしがわたしの王を立てた。」と神様は言われる。支配しているのは神である。神様は国々の民の陰謀を心配しない。笑ってイエス様を王として立てた。

パウロの時代の人たちがこれを読むとき、イエス様が復活して神の右の座にすわったことを考えるだろうし、ピリピ2:5~11までのことを考えるだろうし、使徒の働きのペテロの話を思い出すだろうと思う。復活によってイエス様がキリストであり主であることを神様が明白にしてくださった。



【詩篇2:7】「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。

使徒の働きの中で復活について話している箇所である。イエス様を生んだというのはローマ人への手紙1章にあるように、復活によって神がイエス様をご自分の御子であると明白に宣言して表したということである。



【詩篇2:8〜9】わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。あなたは鉄の杖で彼らを牧し陶器師が器を砕くように粉々にする。』」

これはピリピ人への手紙2章の次のみことばの実現である。

【ピリピ2:10~11】天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、なる神に栄光を帰するためです。

イザヤ45:23〜24に書いてあるのと同じである。

【イザヤ45:23〜24】わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきり立つ者はみな、主のもとに来て恥を見る。イスラエルの子孫はみな 主によって義とされ、主を誇りとする。」

この箇所は、メシアについて成就される。



【詩篇2:10〜11】それゆえ今王たちよ悟れ。地をさばく者たちよ慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ震え子に口づけせよ。

神様は王たちに悟りなさいと言う。イエス様が神の油注がれた者であること、神様の子として王座にすわって、天にあるものも地にあるものも全て支配していることを悟りなさい、と言う。

そして悟ったなら、恐れおののいて口づけ(従うことのしるし)して、信じて従いなさいという招きのことばを王たちと支配者たちに詩篇。

パウロはその箇所を指してピリピの教会の人たちに、恐れおののいて自分に与えられた救いを完成するように努めなさいと言う。詩篇2篇を思い出して、天にあるもの、地にあるもののすべてのものがイエス様の前にひざまずくことを覚えて、神様を恐怖ではなく正しく恐れて、おののいてイエス様に従うようにピリピの教会を励ましている。



ピリピの教会も私たちも、詩篇2篇やイザヤ書を読んでイエス様は主であることを思い出して、このストーリーがまだ終わっていないことを覚えて、毎日の生活を主の福音にふさわしく歩むように話している。そして歴史の終わりに目を留めて、今の混沌状態で御国のストーリーがどうなっているのかわからない中で、結論を覚えて歩むように励ましている。。



ウクライナの教会には、爆弾やロシア軍によって人が殺されたり、家を失ったり、財産を失っている兄弟たちがいる。イエス様がすべてを支配しているのになぜこのようになっているのだろうか。

中東のクリスチャンも被害を受けている。なぜなのか。

中国は戦争を起こすのか、ロシアは世界対戦を起こすのか。礼拝後に私に聞いても答えられない。しかし歴史の結論はわかる。この御国のストーリーの終わりはわかる。天にあるもの、地にあるものの全てがイエス様の前に膝をかがめて「イエス・キリストは主です」と告白する。私たちの歩みはそこに向かっている。その結論は絶対である。今はわからなくても神様に従って歩むように励まされる。

ところで、天にあるもの、天の下の地の下にあるものはすべて主を信じているというわけではない。悪魔も悪霊もその中にいるのである。しかし歴史の終わりに悪魔が神に逆らって侮辱を言うことはない。膝をついてイエス様は主と告白しなければならない。喜んで告白するわけではないが告白する。永遠の最終的なイエス様の勝利は決まっている。私たちはその勝利に向かって歩んでいる。



従順になり(2:12b)

イエス様は苦しくても十字架の道に完全に従った。イエス様が従順に従ったので、イエス様の模範を覚えてあなたがたも従順でありなさい。イエス様の模範が背景にあることはとても大切である。何も考えないで、何もわからないで、ただ単に黙って従いなさいという意味ではない。イエス様は御父を愛して、信頼して、信じて御父の命令を守った。イエス様に与えられた道は最初から最後まで険しく厳しかった。貧しい大工の子として生まれて、最後の三年間は福音を伝えるために働いたが、寝る場所もないし、人からものをもらわなければならなかった。イエス様に与えられたものはアダムとちがう。アダムは逆らいイエス様は従った。

なぜ人間が逆らうのかというと、神のことばを信じないで、神に信頼しないで、神の愛を受け入れないで神を愛さないからである。

イエス様はその逆で、みことばを素直に信じて、神様を愛するゆえに喜んで従って歩んだ。これが従順である。パウロは自分の救いを達成するようにと言い、従順を別の言い方で言う。つまり最後まで従うということだ。

救いは与えられているが、自分に与えられたことを最後まで堅忍する。苦しくて迫害されてどうなるか分からない中でイエス様が従ったように、天の父から与えられたことを受け入れる。

【ピリピ1:29】あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

パウロはピリピの教会に、恵みとともにキリストのために苦しむことも与えらえたと言う。救いの完成は、最後まで従って御国を求めることによって与えられる。自分の救いを達成することは非常に大きなことに感じるが、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方」であるので、私たちは働くことができるし、従うことができるし、御国を求めることができるし、忍耐することができるし、続けて成長を求めることができる。それは神様が私たちの内に働いてくださることを確信できるからである。

【ピリピ1:6】あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

働きを始めてくださったのは神様である。ピリピ2章でそれを思い出させてくださった。神様は続けて働いてくださるので、私たちは最後までがんばって堅忍してイエス様に従って御国を求めることができるように支えられて励まされる。

そのことを覚えていっしょに聖餐をいただく。




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