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「来てくださる神様」

説教者:ラルフ・スミス牧師


明けましておめでとうございます。

待降節の最初の日曜日は、キリスト教のカレンダーでは一年の始まりである。


●旧約時代のカレンダー

神様は旧約のイスラエルにカレンダーを与えてくださった。イスラエルの一年は春の過ぎ越しの祭りから始まる。過ぎ越しの祭りは出エジプトを記念する。

次の祭りは夏のペンテコステの祭りである。神様がシナイ山で律法を与えてくださったことを記念する。

三つ目の祭りは秋の仮庵の祭りである。秋の収穫によって神様がイスラエルに契約の祝福を豊かに与えてくださったことを感謝して、記念する。


イスラエルがエジプトを脱出してカナンに導かれ、救いの恵みを与えられたことを記念して、このような祭りが行われてきた。イスラエルのカレンダーはそれを記念して与えられたものである。

旧約聖書には「安息日を守りなさい」という命令が繰り返し出て来るし、この命令は非常に厳しかった。ところが、現代の私たちにはカレンダーは与えられていない。この日にこの祭りをしなさいとも言われていない。新約聖書の中に日曜日の礼拝を守らなければ契約のさばきが来るとも書かれれていない。このちがいはどこから来るのかというと、旧約聖書のイスラエルは子どもの状態だったということだ。神様は、子どもの状態のイスラエルに律法を与え、律法を通して何を食べれば良いか、何を食べてはいけないのかを教える。カレンダーを与えて、住まいを決めて、家族がどこに住むかを教えて、何を着るかを教えてくださる。モーセの律法は子どもの状態のイスラエルを育てるために与えられたものである。カレンダーもその中に含まれる。現代の私たちにそのようなものが与えられていないのは、イエス様の教会が大人になっているからである。大人の状態になった教会が、何を着るか、何を食べるか、いつ集まるか、どの日を記念するかを自分で決める。教会の歴史の最初の三百年間は非常に迫害されていたので、キリスト教のカレンダーをみんなで一緒に考えることができなかった。今でもギリシャ語の教会とラテン語の教会のカレンダーは違ったりしているが、それも何も問題ない。イエス様ご自身が一年の中心であるということで一致できていればそれで良いのである。

現代の私たちは日曜日に礼拝を行っているが、旧約時代は土曜日が安息日だった。パウロの時代は土曜日も日曜日も礼拝していたかもしれないが、私たちの信仰の中心はイエス様の復活なので、それを記念して日曜日に集まっている。

イスラム教国にある教会は金曜日に礼拝をささげなければならないことが場所によって時代によってあるようだ。金曜日はイスラム教の聖なる日とされているからだ。このように礼拝しなさい、という命令は新約聖書にはないので、クリスチャンが金曜日に集まって礼拝するのは罪でも何でもない。日曜日に工場が休みにならず働かなければならない人は日曜日に礼拝できないので、そのような人が集まって土曜日の夕方に礼拝をする教会もある。それも問題ない。大人がそのスケジュールを決める。でも日曜日の朝に礼拝できるならそれが一番ふさわしいと思う。イエス様の復活が毎週の礼拝の中心になるからである。私たちが時間を考える時、イエス様を中心に考える。


●キリスト教のカレンダー

キリスト教の一年のカレンダーは待降節から始まる。(降臨節ともいう。)

今日は待降節の一日目なので、今日から四週間が待降節である。そして四回目の日曜日が降臨日である。今年は24日の日曜日が降臨日になる。

キリスト教のクリスマスは太陽暦によって決まっているので12月25日(月曜日)であるが、イースターやペンテコステは太陰暦のカレンダーなので毎年日付けが違う。しかし、待降節もクリスマスもイースターもペンテコステも主イエス・キリストを中心にしている。イエス様が生まれるまでの四週間、イエス様が生まれた日の記念、イースター(復活祭)までの四十日間(受難週)、イースター、イースターから五十日目の聖霊降臨節(ペンテコステ)。イエス様ご自身が私たちの一年のカレンダーの中心である。すべてのことを考える時にイエス様を中心にする。


●来てくださる神様

本日の待降節第一日目の聖書の朗読箇所はイザヤ64章、第一コリント3章、マルコ13章である。イザヤ書にキリストについて書かれている箇所はたくさんあるが、今日読んだ箇所はそうではない。第一コリント3章もキリストの誕生と何も関係ない。マルコの福音書13章もイエス様の誕生について書かれていない。なぜ待降節の初めがこのようになっているのだろうか。

【イザヤ64:12】主よ。それでも、あなたはじっとこらえ、黙っていて、私たちをこんなに苦しめるのですか。

私の理解が正しければ、なぜ来てくださらなかったのか、という過去形での祈りだと思う。なぜ私たちのところに来てくださらなかったのか。イザヤがこのように祈るときに何を指しているのか十分には分からない。

イザヤは、ウジヤ王の死んだ年から預言して、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の預言者だった。ホセアもミカも、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の預言者であった。ホセアは基本的に北イスラエルが神様にさばきを受けることを預言する。ミカは南ユダも北イスラエルもさばきを受けることを預言する。イザヤは南ユダの預言者であるが、北イスラエルのさばきについても預言している。ヨタムは良い王でダビデのようにイスラエルを導いたが、ヨタムの息子アハズはだめな王であった。神様は悔い改めるようにイスラエルに呼びかけて、アハズに神様から救いとしるしを求めるように呼びかけたが、彼はしるしを求めなかった。アハズはまるで自分が敬虔であるかのようにふるまいながら、結局は神に逆らっている。神様から救いを求めるのではなく、アッシリア帝国から救いを求めた。アハズと南ユダは北イスラエルやエドムやペリシテにいじめられて苦しかったので、本来なら神から救いを求めるべきであるが、アハズはアッシリア帝国に救いを求めた。アッシリアは喜んで南ユダを助けたが、北イスラエルを滅ぼしたあとで結局南ユダをいじめた。


なぜ来てくださらなかったのか。このイザヤの祈りはアハズの時代の話ではないかと思う。

しかしイザヤ書の中には神が「来る」話もある。

【イザヤ19:1】見よ。主は速い密雲に乗ってエジプトに来られる。

これはエジプトのさばきについての宣告である。

【イザヤ13:9】見よ。主の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。

これはバビロンのさばきについての宣告である。

神様が速い雲にのってエジプトに来たのは紀元前720年頃で、イザヤはアッシリア帝国がエジプトと戦って勝つことを預言している。

神様がバビロンに来たのは紀元前539年で、イザヤはペルシャ帝国のキュロス王がバビロン帝国を倒すことを預言している。

イザヤは神様のさばきが「来る」と言う。神様は色々な時代に、色々な国に来る。

【イザヤ64:3】予期しない恐ろしいことをあなたが行われるとき、あなたは降りて来られ、山々はあなたの御前で揺れ動きます。

これはシナイ山を指している。神様が来ることはイザヤ書のテーマの一つだと考えられる。


しかしじつは第一コリント1:3~9もイエス様が来ることを話している。

【第一コリント1:3~9】私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。

あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。

キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。

主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

このコリント人への第一の手紙が書かれた時点では、主イエス・キリストの日は未来の話である。AD70年の預言ではないかと思うが、再臨の話だと理解する人も多い。いずれにしてもイエス様が来るのはこの時点では未来の話である。

【マルコ13:30】まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることはありません。

イエス様はAD70年のことを預言している。

待降節の最初の日に、シナイ山に神が来た。バビロンに来たりエジプトに来たりした。神様はAD70年に来た。第一コリント15章にもヨハネ福音書にもイエス様の再臨が預言されている。来ることはいろいろな時にある。

私たちは待降節の時にイエス様の誕生のための心の準備をするだけではなくて、私たちの神様はどのようなお方なのかを覚える必要がある。

私たちを訪ねてくださる神様、私たちを求めてくださり、私たちのところに来てくださる神様であることを覚えて、記念する。

神様が来てくださった一番大きな、そして一番大切な祝福はイエス様の受肉、誕生である。


しかし、神様はエデンの園でアダムに来てくださって、アダムを祝福してアダムの目の前でエデンの園を造ってくださった。そしてアダムをそこに置いてくださった。エバを造ってそばに置いてくださった。神様はアダムとエバが罪を犯した時に来てくださった。それは彼らをさばくためではなく悔い改めるように導くである。救いの預言を与えるために来てくださった。確かに罪を指摘してさばきの宣言もしたが、それはアダムとエバが悔い改めることが目的であった。

イザヤ書の中で、神様に「来てください」と祈るとき、それは悔い改めを導いてくださいという祈りなのである。あなたは私たちを造ってくださったお方なのですから見捨てないでください、悔い改めるように導いて救ってください、と祈っている。

エデンの園の話は、神様が私たちを見捨てずに、私たちのところに来てくださって、私たちをあわれんで救ってくださるお方であることを表している。

神様はノアの時にも来てくださって大きなさばきを行った。しかしそのさばきを行わなかったら、暴力だらけの世界でノアたちは殺されていただろう。神様はさばきを行うだけではなくてノアたちを救うために来てくださった。他に聖書の中で神様が来てくださったことをみんな知っているだろう。


私たちの神様は来てくださる神様である。これは黙示録のところに何回も書いてある。導入にも結論にも書いてある。イエス様が教会に宛てた手紙にも書いてある。

【黙示録2:1~5】エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を握る方、七つの金の燭台の間を歩く方が、こう言われる──。

わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。

あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。

エペソの教会が悔い改めなければ、イエス様が来てエペソの教会から契約の祝福を取り除くという警告。


【黙示録2:12~16】また、ペルガモンにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い両刃の剣を持つ方が、こう言われる──。

わたしは、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの確かな証人アンティパスが、サタンが住むあなたがたのところで殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。

けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。

同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを頑なに守っている者たちがいる。

だから、悔い改めなさい。そうしないなら、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦う。

ベルガモンの教会が悔い改めなければイエス様が彼らと戦う。


【黙示録2:18~25】また、ティアティラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝く真鍮のような神の子が、こう言われる──。

わたしは、あなたの行い、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている。また、初めの行いにまさる、近ごろの行いも知っている。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は淫らな行いを悔い改めようとしない。

見よ、わたしはこの女を病の床に投げ込む。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めないなら、大きな患難の中に投げ込む。

また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。

しかし、ティアティラにいる残りの者たち、この教えを受け入れず、いわゆる「サタンの深み」を知らないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

ただ、あなたがたが持っているものを、わたしが行くまで、しっかり保ちなさい。

ティアティラの教会には、イエス様が行くまで持っているものをしっかり保ちなさいと言う。


【黙示録3:1~3】また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。

目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。

だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。

サルディスの教会には、悔い改めて目を覚まさないならイエス様が泥棒のようにやって来ると言う。


【黙示録3:19~20】わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

イエス様は愛する者を叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めれば、イエス様がともに食事をしてくださる。

イエス様は二千年前に受肉して来てくださった。神様はアダムに来てくださった。イエス様は七つの教会に繰り返し「わたしは来る」と言っている。神様は来てくださる恵みなる神様である。二人か三人がイエス様の御名によって集まって祈って礼拝している時に、イエス様は来てくださってそこにいてくださる。

このように恵みなる神様、私たちを求めてくださる神様、私たちを叱ってくださる神様、私たちを求めてくださる神様、私たちのところに来てくださる神様、待降節はこのような神様を記念して覚えて、礼拝するときである。

聖餐は、神様が私たちに主イエス・キリストを与えてくださったことを記念する。神様はともにいてくださり、来てくださり、私たちを調べて、悔い改めるように励まして、恵みを与えて、主イエス・キリストご自身を与えてくださるお方である。主イエス・キリストが恵みをもって来てくださることを記念して聖餐をいただく。




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