説教者:ラルフ・スミス牧師
「イエス様のバプテスマ」
マルコ1:4〜11
バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
2024年最初の礼拝が赤ちゃんのバプテスマから始まることをうれしく思う。
礼拝の新約聖書の朗読もイエス様がバプテスマを受けた場面だった。イエス様のバプテスマは私たちのバプテスマの模範である。
今日はイエス様のバプテスマについて考えて、それから私たちのクリスチャン人生のスタートを思い出してその意味を一緒に考えたいと思う。
今日のマルコの箇所は明らかに二つに分けることができる。一つはヨハネのバプテスマについて。もう一つはイエス様のバプテスマについてである。
⚫️ヨハネのバプテスマ
【マルコ1:4〜6】バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
バプテスマのヨハネについて、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に書かれているが、ルカにはヨハネが生まれた時のことが一番詳しく書かれている。ヨハネは生まれてからずっと荒野にいた。祭司の息子なのにエルサレムで祭司の務めを果たさずに荒野に残り、時が来てイスラエルに罪の赦しが与えられるように悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)と言って、ヨルダン川でエルサレムや周辺の地域から来た人々にバプテスマを授けていた。人々は自分の罪を告白してヨハネからバプテスマを受けた。
ヨハネは非常に大きな影響を与えることができた。その理由の一つはヨハネの服と食事がエリヤをイメージさせたからである。バプテスマのヨハネはエリアのような預言者だった。エリヤはアハブ王の時代に、北イスラエルが罪を犯して偶像礼拝を行ってとんでもない状態になった時に現れた預言者である。
マラキ書には、メシアが来る前にこのエリヤのような預言者が来ることが預言されていた。
【マラキ4:5】見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
ヨハネは象徴としてこの世代が神様から離れていることを表している。
そして神の御国が近づいたという宣言はダニエルの預言を思い出す。その預言がそろそろ成就される。この世代がアハブの時代のように特別に罪深い世代であるという意味も含まれていると思う。ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマで、神様から離れている時代に与えるバプテスマであった。
そしてヨハネは自分のあとに来る人の証しもする。
【マルコ1:7〜8】ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
イエス様についての証しである。イエス様はヨハネよりも力のあるお方で、ヨハネよりもはるかに勝っているお方である。ヨハネはイエス様の履き物のひもを解く値打ちもないと言うが、履き物のことをするのは普通は奴隷で、しかも異邦人の奴隷の仕事である。ヨハネは自分がどんなに低いのかを話すのではなく、イエス様がどんなに偉いのかを話している。
マルコは、ヨハネのバプテスマの意味は何か、ヨハネがどのような人物か、ヨハネの働きは何なのかを短く話している。
マルコはイエス様が御霊のバプテスマをお授けになる方であると宣言してからイエス様の話をする。
⚫️イエス様のバプテスマ
【マルコ1:9】そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
イエス様がヨハネからバプテスマを受けに来たので、ヨハネはそうさせまいとして「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。(マタイ3:14)」と言った。ところがイエス様は「今は、そうさせて欲しい。このようにして、正しいことを全て実現することが、私たちにはふさわしいのです。(マタイ3:15)」と答えられた。
イエス様のバプテスマは、普通にヨハネが行うバプテスマと最初から違っている。人々はエルサレムや周辺の地域からヨハネのところに来ていたが、イエス様はガリラヤのナザレからわざわざ目的を持ってヨハネのところに来てバプテスマを受けた。イエス様は罪を悔い改める必要はない。それなら、なぜわざわざ計画的にヨハネのところに来てバプテスマを受けたのだろうか。
イエス様はご自分の民の頭(かしら)としてバプテスマを受けたのである。
旧約聖書にも似たような例がある。
ダニエルは敬虔な人物だったが、自分が犯していない民全体の罪を、まるで自分も一緒に犯したかのように神に告白していた。
【ダニエル9:10〜11】私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、しもべである預言者たちによって神が私たちに下さったみおしえにも、従って歩むことをしませんでした。イスラエルはみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そのため、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいの誓いが、私たちの上に降りかかりました。私たちが神の前に罪ある者であったからです。
ネヘミヤも同様に祈っている。
【ネヘミヤ9:33〜34】私たちに降りかかったすべてのことにおいて、あなたは正しくあられます。あなたは真実を行われましたが、私たちは悪を行ったのです。私たちの王、高官、祭司、先祖たちはあなたの律法を守らず、あなたがお与えになった命令と警告にも、耳を傾けませんでした。
イエス様は毎週ナザレの会堂で礼拝したり、エルサレムで礼拝したりするが、その礼拝でダビデの詩篇を歌う。その歌の中に罪を悔い改める詩篇も含まれている。その詩篇を歌うときにイエス様は急に黙って歌わなくなるのではなく、一緒に歌って悔い改める。イエス様はイスラエルの代表であり、メシアであるので、民全体が犯した罪を自分の重荷として負って、リーダーとして一緒に悔い改める。自分はこの民と一つであるという意味で罪の悔い改めのバプテスマ、洗いきよめのバプテスマを受けてくださった。このバプテスマは十字架に行く一歩である。罪を犯したイスラエルは神の契約のさばきを受けなければならない。代表であるイエス様がこの民と一つであるので、罪を告白し、罪を悔い改め、十字架上でイスラエルが受ける罰を代わりに受けてくださるバプテスマを受けてくださった。
イエス様がバプテスマを受けた時、御霊が降った。
【マルコ1:10】イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
使徒の働き2章でペテロが次のように言っている。
【使徒の働き2:33】ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いてくださったのです。
御父が御子に御霊を与えてくださり、それを受けて御子が御霊を教会に与えてくださった。御霊がイエス様の上に降って来たということは、イエス様がメシアとして御霊の按手を受けたということである。イエス様が永遠の神であることは変わらないが、人間となって御父から御霊を与えられて、メシアとして働く祝福を受けた。このバプテスマはイエス様が祭司であり、王であるイエス様の最初の働きである。
御霊が鳩にたとえられているのは、一つはノアの洪水の後で、鳩が神の平和と恵みと祝福を意味するからである。
もう一つは、子どもが生まれたときに神殿に行っていけにえをささげなければならないが、鳩は貧しい者がささげるいけにえだった。貧しいものの形をとって御霊が十字架へ導いてくださる恵みと祝福になったということである。イエス様が国のリーダーとして民の罪を負い、新しい人類のアダムとして私たちの身代わりになって十字架でさばきを受けてくださった。
【マルコ1:11】すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
イエス様が水から上がるとすぐに御霊が鳩のように降って天から声がした。
この文章は三つに分けるべきだと思う。
あなたはわたしの子。
わたしの愛する者。
わたしはあなたを喜ぶ。
このように三つに分けることによって、御父が旧約聖書のいろいろな箇所を指して話していることがわかる。
・あなたはわたしの子
イエス様が神の子であることを御父が宣言する。
・わたしの愛する者
神がアブラハムにあなたの愛する子イサクをわたしにささげなさい、という箇所を指している(創世記22章)。アブラハムがイサクを愛したように天の父はイエス様をご自分の愛する子と宣言する。これもやはり十字架に行かなければならないという宣言である。天の父がご自分の子を与えてくださった。御父に愛されているイエス様が十字架に行かなければならない。十字架上で私たちの罪のために死ななければならないというバプテスマを受けた。
・わたしはあなたがを喜ぶ
御子が御父のみこころを完全に行うので、御父は御子を喜ぶ。ヨハネの福音書の中で、わたしはいつも御父を喜ばせると言っているが、御父が御子を喜び、御子が常に御父を喜ばせて、御父、御子、御霊なる神様が愛し合い、喜び合い、祝福し合う姿をここで見ることができる。イエス様がこのようにバプテスマを受けて、鳩のように御霊が降って来て、御父の宣言がある。
説教の初めのところでイエス様のバプテスマは私たちのバプテスマの模範であると言ったが、イエス様のバプテスマは私たちのバプテスマを定義するバプテスマである。イエス様がご自分の民と一つになってバプテスマを受けてくださったので、私たちのバプテスマもイエス様と一つになるのである。
【ローマ8:29】神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
教会全体はキリストのからだである。バプテスマを受けた私たちは、主イエス・キリストと一つとなって、キリストのからだの一員となるのだ。
バプテスマのヨハネのバプテスマは罪を洗いきよめるためのバプテスマである。罪を悔い改めるためのバプテスマである。全く同じようなものは旧約聖書にはない。旧約聖書の中で祭司がバプテスマを行ったりしないし、ヨルダン川でバプテスマを行うこともない。ヨハネのバプテスマは、新しい特別なものである。イエス様ご自身が罪の悔い改めのバプテスマを受けてくださって、それが私たちの模範となったので、私たちのバプテスマは罪を洗いきよめるバプテスマである。
イエス様がバプテスマを受けた時、御父が天から大きな声で、わたしの愛する子と宣言したので、私たちのバプテスマは養子にするバプテスマである。天の父が私の子と宣言してくださる。
パウロはガラテヤ書で次のように話している。
【ガラテヤ3:26~27、29】あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。…あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
「子ども」とは息子ということばである。教会の女性たちは神の息子である。男性も女性もキリストの花嫁である。バプテスマを受けた者は神の子どもとして養子にされた。バプテスマはそれを宣言する。バプテスマを受けた私たちを神様は愛してくださる。私たちを喜んでくださる。それが私たちがクリスチャンになった時の最初の一歩である。
礼拝に招かれる時、御父が私たちを愛してくださることを確信して礼拝に来ることができる。放蕩息子が父の家に戻ってくるとき、愛されている確信はなかった。しもべの一人として受け入れてもらおうと思っていた。しかし放蕩息子の父がどんなに喜んで息子を受け入れたのかをイエス様が話す。放蕩息子が、自分はあなたの息子としてふさわしくないと言うより前に父は受け入れて抱いてしもべたちにごちそうを用意するように言う。このたとえ話を聞いて放蕩息子が愛されていることを確信したのは罪人や取税人たちだった。パリサイ人たちはイエス様がそのような人たちと食事をすることに怒っていたが、イエス様は天の父が悔い改める者をどんなに喜んで受け入れてくださるかをパリサイ人たちに話している。
私たちは毎週の礼拝に来るときに、自分が罪人だという認識を持つ。礼拝の最初に招きの導入がある。それからすぐに罪の告白をする。自分は罪人だという認識をもって、御父に対して犯した罪の赦しを求める。そのあと罪の赦しの宣言がある。
来るときも御父が喜んで受け入れるという確信をもって礼拝に来るはずである。自分の罪を軽く考えて、とんでもない罪を犯しても御父は喜んで赦してくださるから大丈夫だという態度はよくないが、御父が喜んで受け入れてくださるという確信がなければ不信仰である。罪の悔い改めをするときに、心においても、ことばにおいても、思いにおいても、多くの罪を犯した、と私たちは毎週の礼拝で告白している。そして御父が喜んで私たちを愛してくださり、赦してくださり、受け入れてくださることも告白する。御父は私たちのことも、わたしの愛する者でわたしはこの者を喜ぶ、と言ってくださる。
今日のバプテスマの式文にもあったが、バプテスマを受けた者は祭司になる。ピーターライトハートの本の中で、新しい契約のバプテスマは割礼の代わりとも言えるのだが、バプテスマのやり方を見ると、レビ記8~9章の祭司を任命する儀式に似ていると言っている。バプテスマは祭司の任命式である。どのような祭司かというと、メルキゼデクの位の祭司である。
ペテロがこのように説明している。
【第一ペテロ2:9】しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
パウロもこのように説明している。
【エペソ2:6】神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
王である私たちの祭司としての働きの一つは、礼拝で一緒に祈って賛美して一緒に聖餐をいただくことである。毎日の生活において神の御国を求めて証しをする。祭司である私たちには特別な地位が与えられた。イエス様のバプテスマは私たちのバプテスマの意味を表す。今朝のバプテスマの意味をイエス様のバプテスマの模範に従って考える。
今朝のバプテスマは非常にシンプルであったが、赤ちゃんとお父さんとお母さんにとっての意味は大きい。ここにいる子どもたちもみんな同じ意味のバプテスマを受けた。もちろん大人たちも同じバプテスマを受けた。バプテスマによって私たちが何者かが定義される。主イエス・キリストに仕える祭司であることを覚える。毎週の礼拝で、祭司たちの務めをする私たちが一緒に礼拝をささげていることを覚える。
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