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「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:14~20

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


マルコ1:14~20

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。


福音をひとことでまとめるなら、どんなことばを使いますか。イエスはマルコの箇所でイスラエルの民に福音をひとことでまとめています。

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)


時が満ち、神の国が近づいた。

この「国」ということばは、ギリシャ語で「王が支配する国」という意味なので「神の王国が近づいた」と言い換えてもいいことばです。

これは大切なことです。イスラエルは何百年間も王であるメシアが来るのを待っていました。メシアはダビデの子、正義と平和をもたらし、自分たちを敵から救い出す王でした。世の中が暗黒に覆われて、周りが罪だらけの時に、私たちは偉大なリーダーを待ち望みます。アメリカが四年ごとに大統領を選ぶことに少し似ています。アメリカも全世界も、この人が次の大統領になれば救われると思っています。

イエスの時代も、全世界が神に約束された救い主をずっと待っていました。アダムとエバが堕落してからずっと、神が約束した女の子孫を待ち望んでいました。旧約聖書でたくさんの預言者がこの女の子孫について預言しました。どんな方なのか、何をするのか、いつ来るのか。

どんな方かというと、王であり、さばき主です。

何をするかというと、悪人を罰して貧しい人たちや義人を高く上げます。

いつなのかというと、イエスのことばによると「時が満ちた」。イスラエルが王に出会う時が来ました。

イエスが「神の(王)国が近づいた。」と言ったのは王が現れたからです。王が現れたとすればさばきが来ます。さばきが来るなら、私たちはその準備をしなければなりません。つまり悪人とともにさばかれないように、私たちは悔い改めて、自分の悪行から離れて、自分たちをきよめて善を行う必要があります。


悔い改めて福音を信じなさい。

福音は英語で「good news」、ギリシャ語を直訳すると「良い伝え」です。

私たちが自分の罪深さに気づき、自分の心の中をのぞくと、傲慢、妬み、強欲、色欲、臆病、怒り、怠惰など、いろいろな罪がそこに潜んでいます。だからさばきが来ると恐れるはずです。それなのに王が現れることがなぜ良い伝えになるのでしょうか。たださばき主である王が現れてさばくというだけではなく、その王は神の子イエスなのです。だから良い伝えなのです。イエスは確かに正義をもたらす王なのですが、あわれみ深く、情け深く、恵みとまことに富んでおられるさばき主なのです。

【エゼキエル18:23、26〜32】わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうかーー神である主のことばーー。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。…

正しい人が自分の正しい行いから離れ、不正を行うなら、彼はそれゆえに死ぬ。自分が行った不正によって死ぬ。しかし、悪しき者でも、自分がしている悪事から立ち返り、公正と義を行うなら、彼は自分のたましいを生かす。彼は反省して、自分のすべてのそむきから立ち返ったのだから、必ず生き、死ぬことはない。

しかし、イスラエルの家は『主の道は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしの道は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの道ではないのか。それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、それぞれの生き方にしたがってさばくーー神である主のことばーー。立ち返り、あなたがたのすべての背きから身を翻せ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないーー神である主のことばーー。だから立ち返って、生きよ。

この言葉を語ったのが私たちのさばき主なのです。

神様がどれほど情け深くあわれみ深いお方なのか、旧約聖書の色々なストーリーで見ることができます。神様はとんでもない悪い人も赦しています。北イスラエルで一番悪い王アハブが悔い改めた時に神は赦しました。南ユダで一番悪い王マナセも赦しました。

新約聖書でも放蕩息子を赦しました。教会を熱心に迫害したパウロを使徒にまでしてくれました。

私たちは今日の聖書朗読で、ヨナとニネベの話を読みました。ニネべは偉大な町で十二万人以上の人口を抱えていました。現代のような交通手段がなく、水道や下水道もなかった時代に、十二万人が住む町というのはとんでもなく大きな町でした。そしてその町は暴力と悪口に満ちていました。そこにヨナが来てさばきを宣言したのです。そのときニネベの人たちはすぐに「これは大変なことになった。」と思いました。自分たちが悪いことをしている自覚はありました。そして何をやめればよいかも知っていたので、ヨナの話がすぐに通じたのです。

【ヨナ3:5~6】すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った

粗布はざらざらしているので、それをまとうのはとても心地悪いことです。そして灰の上に座るのは、自分が象徴的に死んだことを表します。そして大変な断食をして食べないし飲まないことによって自分はさばきを受けるべき者であることを認めているし、これらのことを通して「神様、どうか私の祈りに耳を傾けてください。」と訴えているのです。このようにして、ニネベの人々は神を信じて悔い改めました。

イスラエルとユダがしなかったような悔い改めを、ニネベの人々は行いまいた。神様のさばきの宣言は悔い改めなさいという警告で、もしかしたらさばきから逃れられるかもしれないと彼らはとらえました。

【ヨナ3:8~9】人も家畜も、粗布を身にまとい、ひたすら神に願い、それぞれの悪の道と、その横暴な行いから立ち返れ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

彼らは正しかったのです。エレミヤ書で、神様はイスラエルとユダに次のように説明しています。

【エレミヤ18:7】わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたそのわざわいを思い直す。

神様は実際に、ニネベの民をあわれんで、わざわいを思い直してくださいました。

【ヨナ3:10】神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。

これは非常に大きなあわれみ、恵みでした。しかしこれはヨナが望んでいた以上の恵みだったので、このことはヨナを非常に不愉快にしました(ヨナ4:1)

ヨナは、なぜニネベの人々を赦すのかと神に怒りました。実際に、神様は私たちが望む以上に罪を赦します。神様はさばきを遅らせて、罪人に悔い改める時間を長く与えます。私たちが望む以上に長く与えます。そして彼らが悔い改めたときに、私たちは彼らが罰を免れて悔しかったりするのです。面白いことにある注解書は、このニネベの町の悔い改めは真心からではなかったと書いてありました。特に改革派の注解書はそのような傾向があります。つまりニネベの人々は自分の罪に対する意識が浅すぎだし、神に関する知識も足りないし、救いの過程を十分に理解しているとは言えないので、これは本当の救いではない。もっと神の真実を学んで自分の人生を変えなければ赦しに値するはずがないと言うのです。

しかし神様がの赦しは素早い。早く赦したい。神様の赦しはある意味で私たちを不愉快にするほど完全でショックを与えるほど寛容なのです。じつに神様は情け深くあわれみ深く、恵みとまことに富んでおられます。

【詩篇86:5】主よ まことにあなたはいつくしみ深く 赦しに富み あなたを呼び求める者すべてに 恵み豊かであられます。

じつは神の恵みは人間だけではなく動物にまで及びます。動物までも粗布を着せられて、一緒に断食させられました。

以下は神のことばです。

【ヨナ4:11】ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。

神様は人の無知も考慮します。右も左もわからない人たちをさばきたくない。イエスが十字架で祈ったのと同じ心なのです。

【ルカ23:34】そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」


イエスは王として、さばき主として二千年前にこの世に来ました。そのイエスにイスラエルはどのように反応したのでしょうか。悔い改めて福音を信じたのでしょうか。

残念ながらそのような反応ではありませんでした。神様が送った預言者を殺した先祖たちと同じように、神の子が現れたときにイエスを憎んで殺しました。彼らはイエスのことばを聞いても、イエスの行いを見ても、イエスを拒否しました。

【マタイ11:20〜21】それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

ツロとシドンはニネベと同じように異邦人の町でした。ご自分の力あるわざが異邦人の町で行われていたら、彼らは悔い改めていただろうとイエスは言います。

しかしこのイエスを拒否したイスラエルの民を、それでも神様はさばくのを喜ばなかったのです。

次のイエスのことばは、イスラエルで三年間の働きを終えて、イスラエルに拒否されたときのことばです。

【マタイ23:37〜39】エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。

わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

だから私たちが礼拝で毎週「主の御名によりて来たるものは幸なるかな。」と歌っています。これは私たちの王であるイエス・キリストを喜びをもって迎え入れることばです。

イエスは二千年前に来て、御父によって天においても地においても王とされました。そしてキリストの永遠の王国が始まりました。



では、あなたはどうしますか。イスラエルのように反応しますか。それともニネベの民や家畜のように反応しますか。

正しいさばき主がくることを悪い伝えとして受け入れて、イエスを無視して自分がさばれない者として生きますか。それとも悔い改めて福音を信じますか。

全世界がキリストを王と認める時が満ちました。私たちは悔い改めてイエスについて行くように呼びかけられているだけではなく、その福音を世界に伝える使命が与えられています。

その意味で私たちはみんなヨナになるように召されています。今日読んだマルコの福音書にあるようにシモンやアンデレのように呼び出されて人間をとる漁師になる使命が与えられています。私たちも神のように悪者をあわれんで警告を与えなければなりません。


どのようにそれをするのでしょうか。

シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、呼ばれたときに、真っ先に自分の漁師の仕事や家族を捨てて、キャリアも捨てて、自分の衣食住を与える漁師の働きをやめてイエスについて行きました。この中で牧師になる使命を受けている人がいるかもしれません。もしそうであるならヨナのように逃げずにその使命に耳を傾けてください。しかし、すべての人が聖職者でなくても、神に使命を受けています。世の光となる使命です。

【マタイ5:14~16】あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に起きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

つまり私たちはただことばだけで福音を伝えるのではなく、良い行いを通して光を放つ必要があるのです。御国が来た、キリストが王である、と私たちが宣言するなら、私たちがそれにともなった行いをしていなければいけないのです。イエスを信じてそのことばに従って生きていなければ、こんなことばを言うことはできません。私たちが妥協した生活や罪深い生活をしているなら、だれもそんな偽善者の話をききません。そしてそのような生活をしているなら、自分もわざわざ福音を口にしないと思います。


私たちはどのようにキリストの福音に答えるべきなのでしょうか。

まずはクリスチャンとして大胆に生きることです。毎週神を礼拝し、忠実に祈り、雇人や従業員のために一生懸命働き、夫あるいは妻や子どもを一生懸命愛し、隣人に声をかけること。このようなことを通して、私たちは御国が来たことを表すことができるのです。

そして私たちが悔い改めて善を行うなら、私たちにキリストが来たことが本当に良い伝え、福音となります。私たちが覚えていなければいけないことは、この世の有り様は過ぎ去るということです。神の日は来ましたが、同時にまだ進行中です。これから神の日が来ると今の世は過ぎ去ります。漁師の働きも地上の家族も全て過ぎ去ります。だからそれに執着して手放さないものとして思わずに、イエスについて行きましょう。

【詩篇62:10】圧制に頼るな。略奪に空しい望みをかけるな。富が増えても、それに心を留めるな。神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のものであることを。主よ 恵みもあなたのものです。あなたは その行いに応じて人に報いられます。

神の正義と力とあわれみの形は十字架です。イエスは私たちをさばくために来られましたが、じつは私たちが受けるべき罰をご自分の身に受けてくださいました。私たちの王がそのような王であるなら、私たちは漁師の網も家族も捨てて、この過ぎ去る世のすべてを捨てて、イエスについて行くべきです。

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