説教者:ラルフ・スミス牧師
ピリピ3:4〜9
ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
この箇所は、改革派の信仰をよく表す五つのソラをかなり見ることができる。
すでに10月のシェイクスピア講座「尺には尺を(measure to measure )」の準備を始めたが、この劇のタイトルはマタイ7章の山上の説教から取られているものである。この劇だけは聖書のことばをそのままタイトルとして使っている。
【マタイ7:2】あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量る(measure)その秤で量り(measure)与えられるのです。
この劇でシェイクスピアはローマローマカトリックの間違った信仰を批判している。当時のローマローマカトリックはパリサイ人たちのような信仰であることを前提として批判している。ピリピ人への手紙を学び、そしてこの劇の講義の準備を始めてみると、パウロのパリサイ人への訴えはこの劇のシェイクスピアの訴えと似ていることに気づいた。今日はそのことを一緒に考えたいと思う。
私たちの地域教会の信仰基準は三つある。ベルギー信条、ハイデルベルグ信仰問答、ドルト信条である。
ベルギー信条は1561年。ハイデルベルグは1563年、ドルトは1619年のものである。シェイクスピアは1564年に産まれて1616年まで生きたので、シェイクスピアが生まれる直前から死んだ直後までの間でこれらの信仰告白が書かれたことになる。
この劇は1600年に書かれた。当時のイギリスは信仰ははっきりとカルバン主義の改革派の信仰であった。シェイクスピアが劇の中でパリサイ人への批判を前提として書いているのは不思議ではない。彼がよく読んでいた聖書はジュネーブ聖書だったからだ。ジュネーブ聖書はイギリスの女王メアリー1世の迫害を逃れてジュネーブに来たプロテスタントの神学者たちが翻訳したのものであり、彼らはカルバンの影響を受けて聖書のあちこちにカルバン主義の注釈を書いている。
「尺には尺を」の劇の中にローマカトリックの信仰に対する訴えがあるが、その中に改革派の信仰をまとめた五つのソラの信仰が出て来る。ソラとは「〜のみ」という意味である。
「聖書のみ。キリストのみ。信仰のみ。恵みのみ。神の栄光のみ。」この五つである。
⚫️聖書のみ
何に対して「聖書のみ」なのかというと、改革時代にも聖書の基準があったが、教会の伝統も同じように基準として用いられていた。「聖書のみ」とは聖書以外の基準は何もいらないという意味ではなく、聖書が究極的な基準で他の基準よりもずっと高くて絶対的なものでなければならないという意味である。だから他の基準を聖書にしたがって批判することはできるが、伝統や基準にしたがって聖書を批判したり、伝統にしたがって聖書を解釈することはゆるされない。これはピリピの教会を攻撃するユダヤ人たちにもつながる。
16世紀のルターやカルバンの時代に聖書が究極的な基準であるという戦いは激しかったが、神様がみことばを通して私たちに救いの道をはっきり啓示してくださらなければ、私たちはこの救いの道を知ることはできなかった。何かの伝統や他の基準を研究してこの真理にたどりつくのは不可能である。神様が一方的に私たちを求めて、私たちが救われるようにみことばを与えてくださって、救いの道を教えてくださったのである。
⚫️キリストのみ
パウロには誇るものがあった。パリサイ人で、熱心で、律法について非難されることのない者だった。しかし今はそのすべてを損だと思っている。主イエス・キリストを得るために、そのようなものはすべて捨ててしまった。キリストのみが救い主である。
改革時代に、キリストのみが救い主という強調があったのは、ローマカトリックの教えの中に煉獄があったからである。ローマカトリックは、修道院などで修道士や修道女が同じ祈りを一日中何百回も祈ることで死者のために償いをし、それによって煉獄にいる家族や親族が救われて、彼らが煉獄にいる時間が短くなると教えていた。さらに金銭でこの償いを免れると教えていたことが教会の腐敗につながった。ローマカトリックの聖書に書かれていない救いの道、人間の功績による罪からの解放という信仰に対して、キリストのみが私たちに救いを与えることができるというのが改革派の信仰である。主イエス・キリストのみが救い主である。キリストの功績によって私たちの罪は取り除かれる。
【ピリピ3:9a】それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。
パウロはキリストにあってキリストの義を求めている。キリストのみが正しさを与えることができる。キリストのみが私たちを救うことができる。ピリピ書でパウロはそのような信仰を表明している。ルターやカルバンの信仰でもある。私たちの地域教会の信仰基準でもある。
⚫️信仰のみ
【ピリピ3:9b】私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
信仰によってのみ義が与えられて、私たちはキリストにあって義とされる。ガラテヤ書やローマ書も信仰のみによって救われることをテーマにしている。
シェイクスピアの時代、先ほどの三つの信仰告白が書かれた時代に、当時のローマカトリックは聖書に書かれていない色々なルールや儀式を作って、これを行わなければ救われないと教えていた。教会の権威を一番にして、教会が作ったルールを守ることが救いの道になるという考え方だった。しかしパウロは「信仰に基づいて神から与えられる義を持つ」と教えている。私たちは信仰によって救われる。
これに対してルターやカルバンの時代のローマカトリックは、信仰のみによって救われるなら、イエス様を信じればどんなふうに生きても良いと思ってしまうのではないかとプロテスタントを批判した。教会が良い行いを要求しなければ、良い行いをしなくても救われるという無律法主義的になってしまうと訴えた。これに対してカルバンはヤコブ2章で答えていた。
【ヤコブ2:17~19、24】同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。…
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
本当の信仰には必ず良い行いが伴う。悪魔にも信仰がある。悪魔は無神論ではない。無神論者を誘惑して愚かなことを考えるようにさせるが、悪魔は神の存在を疑ってはいない。しかし、悪魔のような信仰は偽物の信仰である。
【ガラテヤ5:6】キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
大切なのは愛によって働く信仰である。本物の信仰は愛を生み出して、愛によって働く。それが主イエス・キリストを信じる信仰である。信仰のみとは、愛によって働く信仰のみによって救われるということなのである。パウロはピリピ書で神様から与えられる義は信仰によって与えられると話している。
⚫️恵みのみ
「神から与えられる義(ピリピ3:9)」は恵みの話である。神様が一方的に義を与えてくださるのは神様の恵みによる賜物である。神様は永遠の昔から救いを与える計画をもって、一方的に私たちを求めて、私たちに信仰を与えてくださった。恵みは単に賜物というだけではなく、一方的に世界を創造する前から私たちを選び、私たちを求めて、信仰を与えてくださったのである。
⚫️神の栄光のみ
神にのみ光を帰する。もし救いに私たちの行いが含まれるなら誇ることはできる。しかしパウロはキリスト以外に誇ることは何もないと言う。神様から一方的に救いが与えられたので、栄光は神様のみに帰することになる。
【詩篇115:1】私たちにではなく 主よ 私たちにではなく ただあなたの御名に 栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。
私たちの教会キャンプではずっとこの詩篇をテーマにしてきた。神の栄光のみを求めるのは恵みを信じる信仰である。神様が与えてくださった救いを喜ぶ信仰である。
バッハは教会のために音楽を書くとき、必ず楽譜の最後に「神のみに栄光を帰する」 という意味でSDG(ソリデオグロリア)とサインしていた。まさに五つのソラの一つである。バッハは自分の音楽の素晴らしさを誇らず、すべての栄光は神のみに帰するという心を持っていた。そしてバッハはそれまでの西洋の音楽家の中でだれよりも優れた音楽を作り、彼の後の人たちはみんなバッハから学んでいた。バッハ自身は神の栄光のみを求めて音楽を作った。これは本当の信仰である。バッハはルターの全集を2セットも持っていて、それを非常に熱心に読んでメモも残していた。
五つのソラは改革派の信仰とパウロの信仰をよく表すが、ここにも危険がある。私たちが改革派だからといってパウロと同じ信仰を持っているとは限らない。改革派であることを誇りに思ったら大間違いである。それは信仰から離れていると言わなければならない。私たちが誇るべきなのは神様の恵み、キリストご自身である。それなら本当の意味で昔からの改革派の信仰を受け継ぐことになる。もし私たちが自分たちの伝統や他の何かを誇りに思ったりすると、完全にみことばの信仰から離れてしまうことになる。救い主はキリストのみなので、パウロは他のすべてを損と思ってキリストを得る。神様から与えられる信仰によって救われる。自分の義ではなく、神の義を求める。パウロはキリストに目を留めて神の栄光を心から求めていた。
私たちは毎日の生活の中で、学校でも会社でもどのような場所でも、どのようにして神の栄光のみを求めることができるだろうか。パウロのようにイエス様に目を留めて歩むことができるだろうか。神の御国のためにどのように実を結び、成長して、神に用いられて祝福されるのだろうか。
私たちは神の栄光を求めなければならない。
聖餐式はキリストのみが救い主であるという意味である。イエス様が十字架上で私たちのために死んでくださり、よみがえってくださった。パンを食べて杯を飲み、私はこのイエス様を信じると告白している。パンとぶどう酒は神様が私たちを求めて与えてくださるものである。だから私たちは感謝して神の栄光を求める。
聖餐式の最後に、神に祝福されて、御霊を与えられて、真剣にみくにを求める者として成長させてくださり、遣わしてくださるように祈る。
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