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「主は私の羊飼い」詩篇23篇

説教者:ベンゼデク・スミス牧師


詩篇23篇

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。

まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。

今日の礼拝で私たちは何について読んだり歌ったり祈ったりしたかというと、イエスが私たちの羊飼いであるということに関してでした。

聖書の中で羊飼いとは何でしょうか。教会の中で羊飼いというと牧師や牧会者のことを考えます。教会は羊の群れなのです。そして教会員のたましいを牧会するのが牧師です。

英語のpastor(牧師)はラテン語の「羊飼い」という言葉からきています。私たちの間では教会を導く人を指す主な表現です。

じつは新約聖書では教会を導く人を羊飼いとはあまり言いません。名詞として一度、動詞として一度出て来ますが、基本的に羊飼いという言葉は職業として実際に羊を飼う人かイエスを指す言葉として出てきます。

旧約聖書ではたくさんの羊飼いが出て来ます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、アモスなど。そして神の民は羊として表現されています。神様はご自分の民を導くために王や君主たちを送りました。そしてこの王たちが民に義と平和をもたらすのです。だから旧約聖書では羊飼いはおもに王を表します。

ところがイスラエルやユダを導く羊飼いたちは腐敗したアハブやマナセやアモンを思い出すような羊飼いたちでした。

【エレミヤ23:1~2】わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たちーー主のことば。それゆえ、イスラエルの神、主は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる。「あなたがたは私の群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰するーー主のことばーー。

彼らは羊を集める者ではなく散らす者、羊を養うものではなく食らう物となり、さらに神様が送った預言者たちを殺しました。それで神は自らご自分の民を牧する羊飼いとなることを宣言しました。

【エゼキエル34:15】わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせるーー神である主のことばーー。

他にも神がダビデを送るという箇所もあります。ここにも三位一体の神の影が見えます。神は牧者であり、同時に神は牧者を送るお方です。そのどちらも神なのです。

この良い羊飼いは民を集めて義をもたらします。エレミヤ23章を見ると、さらに良い羊飼い送ってくださると言っています。

【エレミヤ23:4】わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもないーー主のことば。

@では、やっとイエスが現れたときにだれがイスラエルの民の羊飼いだったのでしょうか。

イエスが赤ちゃんだったときにイエスを殺そうとしてたくさんの赤ちゃんを殺したヘロデ王。

バプテスマのヨハネの首をはねた別のヘロデ王。

大祭司カヤパや民を導くパリサイ人たち。彼らは神が送った牧者イエスを「十字架にかけろ」と叫びました。

カエサルの代わりにユダヤを支配していたピラト。この人はイエスを十字架にかけました。

この人たちは決して神のような牧者ではありません。

@では私たちの時代の牧者はだれでしょうか。

この社会で一番権力を握っている人はだれなのかググってみました。いろいろなサイトにいろいろなリストが載っていたのでそのいくつかを比べました。

どのリストにもだいたいトップで出て来るのが習近平でした。そしてだいたい上位にいて時々トップにいるのがプーチンでした。アメリカのバイデン大統領は2番目か3番目か4番目になっているリストが多くてあまりトップにはなっていませんでした。この結果は、80年代、90年代に育った人にとってはショックかもしれません。

他にこのリストのトップファイブによく出て来るのがインドのモディ首相(ヒンズー教徒で国家主義者)とサウジアラビアの皇太子であり今の首相であるムハンマド・ビン・サルマーン・アール=サウードです。この人たちが今私たちが生きている世界を支配している羊飼いです。彼らの動機となっているのは何か、どんな神々に仕えているのか、教会を迫害するのか助けるのか、結局ヘロデのようなのかダビデのようなのか。私は結論を言おうとしているのではなくて、皆さんがこのことを考えるために質問しています。恐らくこの社会では心の中はあまり平安にならないのではないかと思います。

@しかし良い知らせは、主が牧者であるということです。国々を導いて牧会し、ご自分の羊を飼っているのは、イエスご自身なのです。イエスは鉄の杖を持って国々を支配しています。例えば黙示録にはこのようにあります。

【黙示録12:5】女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

この「牧する」はそのまま「羊を飼う」ということばです。

【黙示録19:15a】この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。

つまりイエス・キリストご自身です。だから私たちは心の中に平和をもつことができます。だから私たちはこの世界を支配する者たちを見ても何も恐れる必要はありません。

ダビデもこのように言います。

【詩篇23:4】たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。

イエスはこの杖によって羊を食おうとする狼をたたきます。羊や子羊たちをライオンや熊から守ってくれます。そして正義と義をもたらします。だから私たちは恐れずに平安に生きることができるのです。

イエス様の口からみことばという鋭い剣が出ます。イエスはこのみことばで悪者をさばきます。さらにそのみことばによって心の貧しい者や柔和な者を教えて慰めてくださいます。

マルコ6章を見るとイエスが実際に行っていることが目につきます。6章でイエスはまず十二弟子を送り出します。イエスはその意味で良い牧者というだけではなく私たちにさらに良い牧者を与えるために牧者を選んで訓練を与えて送り出してくれるのです。この世の中でイエスの群れが羊飼いのいない羊とならないためです。

【マルコ6:12~13】こうして十二人は出て行って、人々が悔い改めるように宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。

詩篇23篇を思い出します。イエスは油を塗って、私たちを癒してくださるお方です。

それから弟子たちはイエスのところに戻って報告をします。

【マルコ6:30〜31】さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。

イエスは牧者たちを牧するお方でもあります。彼らに安らぎを与えて、安らぎのあるところに彼らを導いて、食べる時間も与えます。

【マルコ6:32~33】そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。

イエス自身はなかなか休めませんでした。羊飼いであるイエスのもとに羊が集まります。荒野の中でもイエスのところに駆けつけたのです。

【マルコ6:34】イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。そのうちにすでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」

イエスはこのストーリーの後で五千人に食べさせました。

このストーリーは十二人の空腹で疲れた弟子たちの話で始まり、五千人の空腹で疲れた男性たちと女性や子どもたちを養ってくださるところで終わりました。

イエスは彼らを散らさず、解散せずに、彼らをまず座らせて、安らぎを与えて、五つのパンと二匹の魚で空腹を満たしました。何千人もの人々にお腹いっぱいになるまで食べさせました。そしてイエスはたくさんのことを教えて、みことばで養って、パンを通してご自分を彼らに与えました。これがまことの礼拝なのです。このように神様は礼拝を通して私たちに仕えてくださいます。

@五千人を食べさせたあと、イエスは弟子たちを船に乗り込ませて向こう岸に先に行かせて、ご自分は祈るために山に向かわれました。私たちは場合によって休みが必要です。イエスでさえ休みが必要でした。だからイエスは良い牧者になれるのです。私たちの疲れをイエスご自身はわかってくださいます。イエスは良い牧者であることを御父から学んでいました。イエスが一人で祈る時、御父から養われていました。

@イエスは先に船で出発していた弟子たちの後を水の上を歩いて追って行きます。ただでさえ向かい風で大変な思いをしていた弟子たちは、湖の上を歩くイエスを見て幽霊だと思い、恐れてしまいました。だからイエスが「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました(マルコ6:50)。そしてイエスが彼らの船に乗り込むと風はやみました。

@イエスは教会の牧者ですが、牧者ということばを王様という意味で聞いてください。イエスは教会の王様だけではなくて、神様がお造りになった全世界のすべてを支配しています。だからイエスが私たちを救うと信じることができるのです。イエスは無事に弟子たちを陸まで導きます。するとまた羊たちがイエスのところに集まります。

【マルコ6:55~56】そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

@この世の感覚で考える時、偉大な王様は強くて立派でいつも大事な問題を取り上げて大きな決断をしています。私たちが彼らを見て大物だと感じるのは、彼らが大物に囲まれているからです。金持ちや権力者などの大物に囲まれている人こそ凄いなと思います。これがマルコ6章に出て来るヘロデ王の姿なのです。

【マルコ6:21】ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。

イエスが貧しい人に囲まれて彼らを癒しているときに、ヘロデ王はイスラエルの牧者、イスラエルの王として自分の誕生日を祝っていました。彼の周りにはイスラエルの偉い人たちを置いて、自分の兄弟の妻を隣に置いて、若い女性の踊りを見て、最後には神の預言者の首をはねました。これが当時のイスラエルを牧している牧者でした。ヘロデ王は弱くて小さい人には自分の時間をあげません。この世の偉大な人物は、人を踏み付けて弱者を抑圧して強くなろうとします。しかしイエスは、罪人、取税人、売春婦に囲まれていました。九十九匹の羊を残して、一匹を探しに行く牧者だったのです。

イエスが生まれる前にマリアが歌った言葉がルカにあります。

【ルカ1:51〜53】主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。

イエスは当時の腐敗した羊飼いをみんな引き下ろしました。ヘロデ王もカエサルもカヤパもみんなに尊敬されていたパリサイ人たちも。

彼らの代わりに上げられたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネのような凡人の漁師たちでした。そしてペテロに「わたしの羊を牧しなさい。」と命じました。今ではペテロもその弟子たちもイエスとともに王なる牧者として御国を支配しています。なぜなら彼らもイエスのようにへりくだって義をもって羊のためにいのちを捨てたからです。

私たちは、力のある人、カリスマ性のある人、雄弁な人、名誉がある人、このような人に魅了されて、自分たちのリーダーとしてついていきたいと思います。

彼らについて行けば、私たちの国や組織をこの世の栄光で満ちているものにしてくれると思っているからです。しかしイエスは、弱い者とともに歩んで、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。(マタイ5:5)」と言ってこのような人たちを祝福しました。そして権力によって辱められて十字架にかけられました。

ペテロはパウロのような学者ではありませんでした。意外とドジでした。でもイエスを本当に愛していて、十字架で殺されるまでイエスの羊を飼いました。

パウロはバルナバのように雄弁ではありませんでした。しかしキリストの十字架を自分の誇りとし、首をはねられるまで皇帝の前でイエスの証しをしました。

イエスはこのような人たちをご自分の教会を牧する王として選んでくださいました。私たちはだれについて行くのか、それを決めるときにこのことを覚えなければなりません。ついて行く人がいなければリーダーにはなれません。最終的に、どんな独裁者であっても、周りの人がついて行くから力をもつことができるのです。

最近、東京都知事選がありました。秋にはアメリカの大統領選が控えています。だれが私たちの都知事になったとしても、だれが大統領になったとしても、イエスが私たちの牧者であり王なのです。

@私たちもイエスのような牧者にならなければなりませんが、残念ながら私たちは良い牧者ではありません。私は自分が良い父親、良い夫、良い牧師でないことを知っています。

しかし私の望みは私の能力や私の善にはありません。私たちはイエスの善と恵みをみて、そこに希望を置きます。イエスご自身が自分の民を集めて、教えて、癒して、救ってくださいます。イエスが私の家族で教会の牧者であるから、そして更に教会全体の牧者であるから、そしてこの世のすべての国々を牧しておられるから、目に見えるのは習近平やプーチンかもしれませんが、たとえ目に見えなくても鉄の杖をもって本当に支配しているのはイエスなのです。私たちはそれを信仰の目で見ることができるのです。だから死の陰の谷を歩くときにも私たちは災いを恐れません。嵐の中で船が転覆しそうになってもイエスは私たちのもとに来てくださるので恐れません。私たちは羊としてイエスを信じてイエスについて行きましょう。そうすれば私たちが羊飼いのいない羊になることは決してありません。そして私たちもイエスのような羊飼いになりましょう。

@最後に、「わたしの羊を飼いなさい」とイエスに言われたペテロのことばを見たいと思います。

【第一ペテロ5:2〜4】あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

詩篇23篇によると、私たちの羊飼いであるイエスは私たちをご自分の家に集めて、いつまでも住むようにしてくださいます。私たちがイエスの羊であるなら、その声を聞いて神の家に毎週集まる必要があります。そして神の家に集まった時に、イエスは私たちの前に食事を整えて下さいます。イエスはいのちのことば、いのちのパンです。私たちにご自分を与えて私たちを養って、イエスにある永遠のいのちを私たちにも分け与えてくださいます。だから私たちはイエスの食卓からイエスご自身をいただきましょう。




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